新人官吏は雨で弱体化する(一)
ここは、星森の大陸。
それはかつて、森に立ち星を造った星森の申し子が創造した星が有する最大の大陸。
その大陸を治むるは、聖国。
星森の申し子の末裔と言われる舜堯が、建国の剣・源彩恩と共に乱れた世を治め、築き 上げた国である。
聖国建国から、既に1300年と幾年。
長き歴史の中で、平穏な時もあれば、乱れた時もあれど、今もなお、聖国は舜堯の末裔を頂に据え、この星森の大陸を支配する国として在った。
されど1300年以上の時をかけて構築された国のあり様は古く、その内側から少しずつ崩れていこうとしていた。
この話は、その聖国のある新人官吏が巻き込まれた奇妙な事件の話である。
聖国皇都・聖都。
聖国皇都である聖都の北にある皇宮は、その敷地面積は広大である。
聖国の国家レベルでの行事・皇帝が同席した上で行われる会議・聖国を支える百官と貴族が集い行われる行事などの場となる本宮。
その本宮の最深部に、皇帝の起居する聖亮殿、そして、皇帝と百官のうち上級官僚と呼ばれる一部の官僚たちにより国の最重要事項を決定する聖治殿。さらにその奥には、皇帝の妃と皇女が住まう奥宮、東側には東宮、西側には西宮がある。
これら皇族たちの皇居とは別に、皇宮には聖国の政治・司法・軍事・宗教を司る中枢機関が集積している。
政治の執行を司る枢密院、司法を司る司法院、軍事全般を司る将軍院、国教である星森教の一切を管理する聖星森堂院。これらの機関の下にはさらにそれぞれ細分化され省庁が存在する。
四月には文宮官の試・武宮官の試という官吏になるための国試に合格した新人官吏たちが、それぞれの部署に配属され、研修を受ける。そうして、1ヶ月の過酷な研修期間を経て、ようやく少しずつ自分の案件を持つようになるのが、この五月初旬なのだった。
その日は。
昨夜未明から降り出した雨がずっと続いており、皇宮内の美しい庭はしっとりと濡れていた。
とある新人官吏の青年…否、少年は、一人将軍院の回廊を歩いていた。
恐ろしく整った顔立ちに、華奢な身体。
紫色の瞳はとても印象的だ。
漆黒の絹のような髪を頭上に結い上げ、髪を包んだ群青色の巾を准三位の文官を示す若草色と金の組紐で留めている。
将軍院の官吏の着る群青色の官服、耳には柘榴石のピアスがさりげなく光り、若草色の組紐と瑠璃の玉珠でできた玉佩が涼やかな音を立てていた。
非常に見目がいいのだが、残念なのは彼の顔色がびっくりするほど悪いこと、美しい紫の瞳は気だるげに半眼であることだろうか。
彼は真っ青な顔で、ふらりふらりとおぼつかない足取りで歩む。
「頭いてぇ…」
形の良い唇から不機嫌そうな声が漏れる。
彼は大量の書類を抱えていた。
「ったく、姜のおっさん、なんだってこんなに書類溜めてんだよ。それをこんな雨の日に各官房に出向いて印もらってこいとか、ふざけてるだろ」
ぶつくさ文句を言いながら、書類を抱え直す。
彼はようやく一つ目の目的地である北方将軍の官房に辿り着く。
ふぅ、とため息をひとつつき、一度瞳を閉じる。そして、ゆるりと目を開けると先ほどの半眼ではなく、涼やかな眼差しになる。
戸の前に拝跪し、中に呼びかける。
「西方将軍官房付き主簿、北方将軍さまにお目通りを願いたく、まかり越しました」
凛とした声でそういうと、中から入りなさい、という声がする。
「失礼致します」
そう言って戸を開けて、中に入ると彼は優雅な所作で拱手をする。
「北方将軍さま。西方将軍・姜眞威さまの遣いで、来週行われる予定の軍事演習の最終確認の書類をお持ちしました」
「おお、彩棐、お使いご苦労。早速姜どのにこき使われておるな」
官房の一番奥の執務卓についていた北方将軍は快活に笑った。
北方将軍・鄭賦絃。今上帝の実弟である彼は、現在将軍院の北方将軍として、北方の治安維持を担い兄の治世を支えている。
――――まったくだ、俺はこんな小間使いをするために、ここに来たわけじゃないってのに。
「いえ、私はまだまだ勉強中の身。こうした仕事ひとつひとつが身になっております」
しかし、彼――彩棐は内心とは裏腹に、笑顔で殊勝な態度を見せる。こうした韜晦の術は彼の得意とするところだ。
「彩棐は健気よのぅ。うちの奴らにも見習うて欲しいわ」
そんな彩棐の言葉にころっと騙された北方将軍は上機嫌だ。
「我らに、彩棐どのような可愛さや健気さを求めないでくだされ、将軍。彩棐どのは、未だ14。異例の若さでこうして官吏になられたが、普通はありえぬ。この官房の最年少の者とて、24ですぞ。24以上のむさ苦しい男どもが、14の少年のように振る舞うたらそれはただの気持ち悪い集団です」
――――可愛い……健気……
言われた言葉に、ニコニコしながらも彩棐は内心面白くない。
こちらは、きちんと官吏になるための試験を合格してきたのだ。加冠(成人)の儀も官職に就くにあたって無理をして早めた。こども扱いされるのは不本意だ。
新人であるから、まだまだ覚えることはあるが子ども扱いされるのはいただけない。
とはいえ。
そんなことは言えるわけがない。
これ以上、長居してもいいことは一つもない。とっとと、書類を確認をしてもらい去るに限る。
彼は奥に座す北方将軍の執務卓の前まで歩み寄り、確認して欲しい書類を提出する。
書類を前に、北方将軍は眉を寄せる。
「むぅ。また、西方将軍は書類を溜めておったな。今すぐ、見よとは。普通はもう少し前もって提示してもらいたいのだが」
彼の指摘通り、西方将軍は書類を溜める癖がある。
本来ならば、あと十日ほど早く出すべき書類なのだ。
彩棐とてそれはわかっているし、できれば己の上司の尻を叩いて早め早めに書類作成をさえたいが、何しろ、彩棐は仕官し始めてまだ一月。
己の上司が書類仕事が苦手あることを理解したのはつい先日だ。
――――姜のおっさんのせいで、俺はいい迷惑だ。
「可愛い彩棐には申し訳ないが……他の書類も確認したいゆえな。今すぐ確認し切れる量でもなかろう?明日までに確認するゆえ、再度取りに来てもらえるだろうか」
北方将軍の言っていることは正しい。
本来は、もっと早く提示して、ゆっくり確認してもらい印をもらうべきなのだ。だが、それだと明日以降ここへ書類を取りに来て、その後次の官房に回らなければならず大変に面倒くさい。
自分の仕事はできるだけ効率的に進めたい。
今後は、あの書類嫌いの上司を手の上で転がして、いいペースで書類仕事をさせようと心に誓いつつ、彩棐はおっしゃる通りです、と言う。
「とはいえ、軍事演習も来週に迫っております。他の官房にも確認して回らねばならず、各官房で確認のお時間を長く取ると間に合わなくなってしまいます。お忙しいところ大変申し訳ございませんが、直ちに、確認をお願いしてもよろしいでしょうか」
ふわりと笑って、有無を言わせぬ態度で印を求める。
美しい彼に綺麗な笑顔で見つめられ、北方将軍は一瞬ぼんやり彩棐を見る。見惚れていると彩棐に、ささ、こちらとこちらさえ見れば要点を押さえることは可能でございます、ご覧ください、と言われ素直に書類に視線を落とす。そうして、あっという間に署名と印を捺させられる。
無事、確認の印を取れた彩棐は、お忙しいところありがとうございました、と微笑み、優雅な所作で揖礼すると颯爽と官房を去って行く。
北方将軍も彼の官房の者たちも気づいていない。
子ども扱いしていた相手に、見事に手の上で転がされ、印を押したことに。




