58.あしたのあしたの……
アッシュはカタルのもとまで走ると、手にしていた花を差し出す。
「くれるのか?」
「うん。ピンク」
アッシュは自慢げに言う。
「カタル様のために悩みながら選んだんですよ」
すかさずシャルロッテが説明を加える。
アッシュ自ら選んだとあれば感動もひとしおだろう。
カタルはわずかに目を細めて笑った。そして、アッシュの頭を優しく撫でる。
「ありがとう。せっかくだから、この部屋に飾ろう」
「えへへ」
カタルは立ち上がると、机の上にあった小さな一輪挿しに花をさす。
ピンクの花が机の上で揺れる。
アッシュはカタルを追いかけた。
カタルが父親をしている姿は微笑ましい。
(いろいろあったけど、今はどこからどう見てもパパなんだよね)
カタルが手慣れた手つきでアッシュを抱き上げる。
アッシュは嬉しそうだ。
「アッシュ、挨拶できて偉かったな」
さきほどのことを言っているのだろう。
耳のいいカタルは、執務室にいても屋敷の中の声が聞こえるらしい。
執務室のすぐ外での会話なら、尚更はっきりと聞こえたはずだ。
「おそとのおそと、人、いっぱい」
「ああ、そうだ」
「ぼく、おそとのおそといく」
「もう行っているだろう?」
お外のお外。
つまりは本邸の外のことを指す。
たしかに、アッシュはお外のお外――本邸の庭園に行っていた。
しかし、それは違うようで、アッシュは大きく頭を横に振る。
「どこか行きたいところがあるのか?」
カタルの問に、アッシュは「そうだ」と言わんばかりに頭を縦に振った。
「おとと、会う」
「おとと?」
「ママのおとと」
二人の視線がシャルロッテに集まった。
シャルロッテは目を瞬かせる。
「弟のことだと思います!」
「おとと!」
「彼か……」
カタルは苦笑をもらした。
カタルはノエルのことを思い出したのだろう。
「パパ、おとと、しってる?」
「ああ。知っている」
「ピンク?」
「ああ、ピンクだ」
アッシュは目を輝かせた。
「なら、会いに行こう」
「えっ!?」
あっさりとしたカタルの言葉にシャルロッテは目を丸くした。
あんなに慎重だったカタルが。
そんな簡単に決めていいものだろうか。
「どうした?」
二人の視線がシャルロッテに集まる。
「思ったより、あっさり決めるなと」
「そんなことはない。アッシュが毎日頑張っているから、いいと思ったんだ」
カタルは優しくアッシュの頭を撫でた。
アッシュは嬉しそうに目を細める。
カタルに頑張りを評価されて嬉しそうだ。
「少しずつ人に慣らしていくのであれば、君の実家は最適な場所だろう」
「そうでしょうか? 両親は歓迎してくれると思いますが……」
弟のノエルはどうだろうか。
まだシャルロッテの結婚にあまり賛成していないようだった。
ノエルはどちらかというと好き嫌いがはっきりしているタイプだ。
家族には優しい。
変な趣味を持つシャルロッテを受け入れ、何より大切に思ってくれていた。
(アッシュと合わせて大丈夫かな……?)
猫と犬を合わせるような気分だ。
「ママ、や? おとと、だめ?」
アッシュは不安そうにシャルロッテを見た。
シャルロッテは慌てて頭を横に振る。
よくよく考えてみれば、こんな可愛い子を前にノエルが牙を向くのは考えにくい。
それに、アッシュがいろんな人と交流することはいいことだ。
「そんなことないよ。ママのママもパパも弟も、きっとアッシュのこと大歓迎だよ」
「うん。おとと、会う」
アッシュは嬉しそうに目を細めて笑った。
(でも、心配だなぁ〜)
どちらかというと、構い倒してしまうのではないかというほうが心配だったりする。
両親からしてみれば、アッシュは初孫に近い。両親はシャルロッテが産んでないからと言って、アッシュを蔑ろにするような性格ではない。
加えてアッシュのこの可愛さだ。アッシュがもみくちゃにされないか心配だった。
(そこは、カタル様が一緒なら大丈夫かな)
先日、猫背気味の使用人がカタルの前でだけ、ビシッと背筋を伸ばているのを見て確信した。
カタルはいるだけで、その場所の空気を引き締める効果がある、と。
「では、さっそく実家に手紙を送っておきます。カタル様の予定は?」
「一日くらい、どうとでもなるから心配しなくてもいい」
「ありがとうございます。あ、あと……」
シャルロッテは申し訳なさそうに言った。
「ノエルが失礼な態度を取ったらすみません」
ノエルはいまだカタルを『冷酷悪魔』だと信じている。
この誤解を解くのは非常に難しい。海よりも深い事情があると言えればいいのだが、それには皇族やアッシュの出生の秘密を説明する必要がある。
それはできない。
シャルロッテには「噂よりもいい人だよ」と言うことくらいしかできなかった。
「いつものことだ。慣れている」
カタルは気にしていない様子だ。それならそれでいいのだが、弟がカタルに不快な思いをさせやしないかと気が気ではない。
(いつか、みんなにカタル様のことが誤解だって届けばいいんだけど)
『冷酷悪魔』だなんてとんでもない。
そう言って回れたら、どんなに気持ちのいいことだろうか。
「ママ、お花さがいし、行こ」
「また? 探したりない?」
「おととにあげるやつ」
「弟に? うーん、お花が枯れちゃうから、それは日程が決まってからにしよう」
アッシュは目を瞬かせる。
「おとと、あした、ない?」
「明日は無理だよ」
「あしたのあした?」
「お手紙が帰ってくるのを待つから、もう少し先かな~」
シャルロッテは眉尻を下げた。
よほど楽しみなのだろう。もしも尻尾があったら、垂れさがっていただろう。
「時間があるんだ。弟にあげるプレゼントをじっくり選べばいい」
「うん!」
その日から、アッシュは何度も「おとと、あした?」と聞くようになった。
◇◆◇
あれから十日後。
シャルロッテとカタル、そしてアッシュは馬車に揺られている。
シャルロッテとカタルは向かい合って座った。シャルロッテの隣にはアッシュが窓にへばりついてた。
「ママ! あれは?」