51.変人令嬢
「ふふふ……。いいこと思いついちゃった!」
シャルロッテの不気味な笑い声が廊下に響く。誰かが聞いていたら震えていただろう。
シャルロッテは奇妙なステップを踏みながら自室へと向かった。
◇◆◇
カタルはシャルロッテを見送ったあと、小さく息をついた。
「すっかり母親の顔だな」
閉じた扉に向かって呟いた。
本人には聞こえていないだろう。カタルの執務室は防音魔法が施されている。
中の声は聞こえないが、外の声は聞くことができる優れた魔法だ。
狼獣人であるカタルは耳がいい。この執務室にいるだけで、多くの情報が入ってくる。
仕事に集中できるようにと外の声を聞こえなくしたこともあったが、それはそれで不便だったため、外の声は聞くことができるようにしてもらった。
カタルはシャルロッテの言葉を思い出して、小さく笑った。
『カタル様は鍵をかけておりませんが、平気ですか?』
一瞬、何を聞かれているのかわからなかった。
このニカーナ帝国を護る狼の一族に生まれた以上、抱えるものは多い。
そのうちの一つが『狼獣人であるという秘密』だろう。
秘密を守るため、長年皇族は試行錯誤してきた。
パートナーとの寝室をわけ、固く鍵を閉める。
眠っているときは無防備になるからだ。
意図せず狼の姿に戻ることは少なくない。
情緒が安定しないときは特に。
(考えてみれば、鍵くらい検討すべきだったな)
カタルは今になって、自分自身の判断に驚いていた。
シャルロッテは人間だ。
確かにシャルロッテは動物を好み、狼の姿のアッシュのことも可愛がっている。
それがあまりにも自然で、当たり前のように鍵をかける判断を忘れていたのだ。
別邸の中は安全だ、と。
カタルらしからぬ考え方に、カタル自身が困惑していた。
カタル自身、寝起きに変化していることはほとんどない。
眠っているときも常に意識は外側に向いているからだろうか。
だから、本邸で眠っているときも鍵は必要ないほどだった。
ただ、慣習に倣っているというのが現状だ。
(アッシュに慣習を教えるためにも、鍵を閉めていたほうがよかったか? だが……)
アッシュの環境は今までの皇族とは大きく違う。――アッシュにはシャルロッテがいる。
無条件で愛情をかけてくれる異種族の母親。それがどれほどすごいことか、アッシュが知るのはずっと先のことだろう。
寝起きは当面、別邸の中になる。
それならば、鍵をかけるのはもう少し大人になってから教えればいいと思った。
何よりカタルがこの別邸の生活を気に入っているというのも理由の一つだ。
ここでは気を抜いても許される。そんな穏やかさがあった。
これもすべてはシャルロッテのおかげなのだろう。
(何かできること、か……)
シャルロッテはもどかしさを感じているようだった。
人前に出る。これは、皇族にとって乗り越えなければならない最初のステップだ。
小さな箱の中で人間のふりを覚え、人間として箱の外に出る。
みんなが通ってきた道だ。時には強引に。
カタルは早い段階で自らの意思で外に出たうちの一人だ。
兄という見本がいたこと。
そして、何より早く母にたくさん会いたかった。
兄はカタルと遊んでくれたが、やはり母と一緒にいたかったのだろう。
カタルを置いて母のもとに行くことが多かったのだ。
一人取り残される寂しさが原動力になった。
しかし、アッシュにはそれがない。
正確にはあるのだろう。
オリバーによると、カタルもシャルロッテも別邸から出ている日は、別邸と本邸を隔てる扉を寂しそうに見上げているという。
(彼女が本邸で二、三日生活したら、すぐにでも出てくると思うが)
アッシュのことだ。三日も持たないだろう。
しかし、その方法は絶対にシャルロッテから却下される自身があった。
『そんなかわいそうなことできません!』
『三日も会えないなんて、私が絶対無理です!』
彼女の口から出そうな言葉を思い浮かべて、カタルは苦笑を浮かべた。
表情まで想像できる。
(アッシュは放っておいてもいずれは解決するだろうが……)
たとえそれが十年かかったとしても、二十年かかったとして、付き合うつもりだ。
アッシュを守るだけの力はある。
(何かできることを探すとするか)
カタルは小さくため息をつくと立ち上がった。
来客の相手をしなければならない。
今日は王宮の人間が必要な書類の確認をするために来ると言っていた。
ちょうど、シャルロッテと文官たちの会話が終わったのだ。
扉を開けようとして手が止まった。
文官二人が囁き声で会話を始たからだ。
「あれが例の?」
「ああ、『変人令嬢』だ」
「意外と普通じゃないか? 普通というか、可愛いと思うんだが……」
「だからこそもったいないんだよ」
取手をつかんだ手に力が入る。
メリメリと危険な音が伝わってきて、カタルは我に返った。
カタルは深く息を吐き出して、冷静な気持ちで扉を開いた。
「殿下!」
文官二人が同時に深く頭を下げる。
カタルは二人の後頭部を見下ろす。
「さっさと終わらせよう」
いつも以上に低い声が出た。
自身の苛立ちを隠すように、カタルは二人に背を向ける。
「なあ……。いつもより機嫌悪くないか?」
「しっ……! 妃殿下との時間を邪魔されて怒っているんだろう。早く終わらせよう」
二人の囁き声が耳に入る。
二人にしか聞こえないほど小さいものだったが、狼獣人であるカタルは耳がいい。
だから、しっかりと聞こえてしまった。
(シャルロッテの耳に入っていないといいが……)
シャルロッテは自身が『変人令嬢』と呼ばれていることを知っている。
彼女がそれを気にして落ち込んでいる様子は見ない。しかし、表立って見えないだけで、落ち込んでいないとは限らないだろう。
深く傷ついている可能性がある。
二人が再び彼女の目に留まらないように、仕事をいつも以上の速さで進めた。しかし、彼らを屋敷から追い出すことができたのは、夕刻になってからだった。
そして、カタルの懸念は現実となってしまった。