44.ひと
(そうだよね。私よりもアッシュのほうが緊張してるよね。ママの私はどっしり構えないと!)
シャルロッテはしゃがんでアッシュに目線を合わせた。
「楽しみだね」
「……うん」
まだ彼の顔はこわばっている。
シャルロッテはアッシュの頬を人差し指でつついた。
「アッシュは楽しみじゃない? みんなアッシュに会えるの楽しみしてるって、言ってたよ?」
「ほんと?」
「本当だよ。お外にはたくさん人がいるから、少しずつ挨拶しようね」
シャルロッテが頭を撫でると、アッシュは小さく息を吐く。
「ぼく、がんばる」
「気楽でいいんだよ~。だって、お外もアッシュのおうちだもん」
「うん」
「それに、何があってもパパとママがアッシュを守るから、アッシュは心配しなくていいんだよ」
もしかしたら、耳や尻尾が出てしまうかもしれない。
けれど、それを心配していても前には進めないではないか。
何事も失敗から成長する。失敗したときのためにシャルロッテやカタルがいるのだ。
(カタル様はこんな大切な日を任せてくれたんだもん。やり切ってみせるわ!)
シャルロッテはカタルが仕事に戻る前に尋ねたことがある。
『晩餐の前に別邸に戻ってきますか?』
カタルはシャルロッテの問いにわずかに悩んだあと、頭を横に振った。
『いや、アッシュにとってこれは特別なことではない。だから、いつも通りにしよう』
『わかりました』
最初はその意味がわからなかった。
シャルロッテがカタルの立場なら、アッシュが心配で仕事のあとに駆けつけただろう。
けれど、今なら彼の思いがわかる。
(カタル様はアッシュと私のことを信頼してくれてるんだよね)
今日から、これがアッシュの日常になるように。
きっと、カタルのわかりにくい愛情だろう。
「さあ、パパのお腹がペコペコになっちゃう前に行こうか」
「うん! ぼくもペコペコ!」
「そうだねよ。ママもペコペコ」
シャルロッテとアッシュは笑い合うと、手をつないだ。
「アッシュ、ブレスレットをつけた手で押してね」
「うんっ!」
アッシュは控えめに右手で扉を押した。
ゆっくりと扉が動く。
アッシュの目が感動で大きく見開かれた。
この日のこの表情は一生忘れないだろう。
アッシュにとって、これは大きな一歩になるだろうから。
「あいたぁ〜」
人が通れるくらい扉が開くと、アッシュは両手を上げて喜んだ。
シャルロッテは扉を押さえながら笑みを浮かべる。
今のアッシュにとって、一つ一つが挑戦なのだ。
「さあ、パパのところにいこう」
シャルロッテが手を差し出すと、アッシュはすぐにつかむ。
あたたかくて、小さい手がかわいらしかった。
いつもなら、周りを見てフラフラとするアッシュが今日はまっすぐ歩いている。
お試しだったときと、やはり何か違うのだろうか。
「ひと」
アッシュがポツリと呟いた。シャルロッテは首を傾げる。
周りには誰もいない。
しかし、それからすぐ廊下にメイドが一人現れた。
アッシュがシャルロッテの手を強く握る。
(耳がいいから遠くから来たのが聞こえたのね)
シャルロッテは感心する。
アッシュやカタルの耳と鼻がいいのは聞いていて知っていた。しかし、シャルロッテには聞こえないものだから、イメージはしにくい。
これくらい遠くから聞こえていたから、アッシュはいつもシャルロッテを別邸の扉の前で迎えられたのだろう。
メイドはシャルロッテとアッシュを見つけると、パッと顔を明るくした。
(最初の関門だけど……。大丈夫かな?)
アッシュにとっては初めての遭遇だ。
シャルロッテはいつもどおり笑みを浮かべた。
「いつもご苦労様。この子がアッシュ。これから少しずつこちらにも顔を出すからよろしくね」
「はい」
メイドは頷くと、しゃがんでアッシュの目線に合わせた。
「ぼっちゃま、何かあればなんでもお申しつけください」
「ぼく、アッシュだよ」
アッシュには『ぼっちゃま』は聞き慣れない言葉だ。今までシャルロッテとカタル、オリバーの三人しかいない。その三人はアッシュのことを名前で呼ぶ。
だから、訂正したのだろう。
メイドは眉尻を下げて笑った。
「そうですね、アッシュ様、よろしくお願いします」
メイドはアッシュに深く頭を下げる。
アッシュも同じように頭を下げた。
(どんな姿も可愛い〜!)
一つ一つの仕草が愛おしい。
こうやって少しずつ成長していくのだと思うと感慨深かった。
つい数ヶ月前までは、部屋の隅でずっとプルプルと震えているような子だったとは思えない。
「これから、パパとママとご飯だよ」
「そうなのですね。楽しんで来てください」
「うん! 楽しみ」
アッシュが満面の笑みを見せると、メイドは瞳を潤ませシャルロッテを見上げた。
「可愛すぎる」と目が言っている。
(わかる。可愛すぎる〜)
一所懸命に話そうとしているのだ。
可愛くないわけがない。
いつものように今すぐにでも抱きしめて撫で回したいくらいだ。
メイドはアッシュと二、三会話をしたあと、去って行った。
事前にお願いしていたとおりの対応にホッとしている。
晩餐を本邸でとると決めたときに、使用人たちを呼んでアッシュに会ったときの対応を説明しておいたのだ。
アッシュの前に使用人全員を並べてるのは、アッシュの負担になる。
だから、会ったときに少しずつ顔を合わせるようにしようとカタルと決めた。
『アッシュは人見知りだから、大勢で押しかけるようなことはしないでください』
『話をするときは、極力目線を合わせてあげてください』
『あまり大きな声は出さないでください』
『長時間の拘束は避けてください』
これからのことを考え、多くの人と会話をするのがいいだろう。そう考えて、声をかけることは禁止していない。
約束をきちんと守ってくれていて、よかった。
アッシュは誇らしげにシャルロッテを見上げた。
「たくさんお話しできたね」
「えへへ」
嬉しそうに笑うアッシュの頭を撫でた。
シャルロッテとアッシュは再び手を繋ぎ、食堂へと向かった。
そのあと、数人の使用人に会ったが、みんな約束を守りアッシュと接してくれている。
アッシュも自信がついたのか、自分から話しに行っていた。
もともとアッシュは人懐っこい性格なのだろう。
食堂に差し掛かる手前で、廊下に黄色い悲鳴が響いた。
「きゃ〜! 本当にいるっ!」
「本物のぼっちゃまだわ!」




