37.消えたブレスレット
シャルロッテの隣の部屋は家具は一切入っていなかった。
しかし、埃一つない。しっかりと管理されている。
「旦那様が坊ちゃまの好みがまだわからないからとおっしゃって、まだ何も配置しておりません」
長くカタルに仕えている侍女のメイシーが言った。彼らしいといえば彼らしい。
「アッシュが喜ぶような部屋にしないと!」
シャルロッテはアッシュがこの部屋で駆け回る様子を想像して頬を緩めた。
人間の姿になったアッシュはまだ二本の足で走ることに慣れていないようで、時々転ぶ。やはり、四本足のほうが楽なようだ。しかし、ここは本邸なので、慣れない足で走ることになるだろう。
シャルロッテは家具や寝具など、いくつもの業者を呼び、一つ一つ丁寧に決めて行った。
時にはカタルに相談したこともある。「好きな物を選べ」とカタログを突き返されるかと思ったが、真面目に選んでくれた。彼の優しさは相変わらず少しわかりづらい。
けれど、いやではなかった。
「さて、そろそろアッシュのところに行こうかな」
最近のアッシュは皇族としての勉強を必死にこなしている。三時間人間の姿でいるという目標ができたからか、今まで以上に真剣に取り組んでいるようだ。
シャルロッテが食堂からお菓子を持って出てくると、ちょうど侍女のカリンに声をかけられた。
「奥様はお忙しいでしょうから、私がお持ちしますか?」
彼女は気さくにシャルロッテに声をかけてくれる。
もう一人の侍女であるメイシーはどちらかというと、真面目で静かなタイプなので話しやすいのはありがたかった。
けれど、彼女はアッシュに会いたいようだ。
「大丈夫。アッシュとの時間が一番大切だから」
「私も一度お坊ちゃまにお会いしてみたいです」
「そのうち会えると思うわ」
「坊ちゃまはいつもどんなことをしているんですか?」
「うーん。色々よ。絵を描いたり、絵本を読んだり……」
最近は読める字も増えてきた。吸収力がすごく、どんどん成長していく姿に感動すると同時に寂しくもなる。すぐに大きくなって、シャルロッテの手など必要なくなるのだろう。
(一瞬だからこそ、たくさんかわいがらないとね)
シャルロッテはカリンに別の仕事を頼み振り切った。そして、いつものように本邸と別邸を隔てる扉を開ける。
「ママ―!」
扉をくぐった瞬間、アッシュがシャルロッテに抱き着く。
彼は嬉しそうに顔を上げる。ぷにぷにの頬が真っ赤に染まっていた。
「ここまで走ってきたの?」
「うん! ママの足音がしたの!」
シャルロッテは扉を見る。この奥の音が聞こえるのか。
(やっぱり獣人ってすごいなぁ~)
本邸と別邸を隔てる扉はとても厚い。向こう側の音が聞こえるようには見えなかった。
「今日はね、おみみ、我慢できてるの!」
「本当だ。すごいね」
シャルロッテが頭を撫でる。彼は嬉しそうに「えへへ」と笑うとぴこんっと耳が生えた。
「あ~」
アッシュは悲しそうに眉尻を下げ、耳を両手で押える。
「ママが撫でるとでちゃうんだ。ごめんね」
頑張りを無に帰してしまったようで申し訳ない。シャルロッテはしゃがみ込みアッシュと目線を合わせた。アッシュは頭を横に振る。
「ううん、アッシュ、ママの手好き」
アッシュは恥ずかしそうに言った。
(かわいい……! うちの子すごくかわいいよ……!)
シャルロッテは思わず抱き寄せ、何度も頭を撫でる。ふわふわの耳も、カタルによく似たアッシュグレーの髪も。
「ママ、くすぐったい」
アッシュは耳を撫でられるたびにくすぐったそうに目を細める。しかし、尻尾は嬉しそうに左右に揺れていた。
「だって、アッシュが可愛いんだもんっ」
ぎゅーっと抱きしめると、アッシュはきゃっきゃと楽しそうに笑う。
「ママ、おみみ好き?」
「うん。でも、好きなところはお耳だけじゃないよ」
「どこ?」
「ふわふわの尻尾でしょ? あとくりくりの目。あと、パパにそっくりなこの髪の毛。あとは~」
アッシュは嬉しそうに笑うと、「いっぱい」と笑った。
「だって、ママはアッシュの全部が大好きだもん」
「アッシュも。ママの全部が好き」
「ありがとう。嬉しいな」
(よかった。こんなにたくさん笑ってくれるようになって)
出会ったときのアッシュは誰にも心を開くことができていなかった。
生まれてきたばかりのころ、母親であるクロエに何度も殺されかけたと聞いたことがある。その記憶が残っているのかもしれない。
「ママ、忙しいの?」
アッシュが不安そうにシャルロッテを見た。
「今はちょっと忙しいけど、すぐにまた、アッシュとたくさん遊べるようになるから、ちょっと待っててね」
「大丈夫! アッシュもお勉強忙しいの!」
アッシュはいつもシャルロッテの言葉にすごく敏感だ。そして、健気なのだ。ぜったいにわがままは言わない。
(こういうことは焦っちゃだめ。少しずつ、信頼を得よう)
シャルロッテは目を細めて笑った。
「忙しいのおそろいだね」
「うん! ママと一緒」
アッシュが嬉しそうに笑う。今はこのひと時が愛おしく感じた。
◇◆◇
アッシュの部屋の完成ももう間近に迫っている。アッシュがいつ本邸に来てもいいように、早く完成させるつもりだ。
もし、本邸に来た時に自分の部屋がなかったら、すごくがっかりすると思う。だから、早く完成させたかった。
(それに、さっさと終わらせたらアッシュと遊ぶ時間が取れるしね)
今度、カタルとオリバーに「私もアッシュと一緒に授業を受けたい」とお願いしてみるつもりだ。皇族の秘密を知った一人の人間として、シャルロッテはもっと皇族について知る必要があると感じていた。
そのためにも、雑事は早く終わらせるべきだ。
「これでよし! 全部決まりっ!」
シャルロッテはカタログに大きな丸をつけた。そして、カタログをテーブルに置いた瞬間、叫び声が降ってくる。
「きゃっ!」
「あつっ!」
足を滑らせたカリンが手に持っていた紅茶のセットをこぼし、シャルロッテにかかったのだ。
シャルロッテは突然の熱に顔を歪めた。
「申し訳ございませんっ! 早くお着換えを! 脱いでくださいっ!」
慌てたカリンがシャルロッテのドレスを脱がしていく。下着姿になって、シャルロッテはホッと息を吐いた。
しかし、熱湯がかかったところが痛い。
「ああ! 赤くなってる! 冷やすものをお持ちします! お待ちくださいっ!」
カリンが慌てて走っていった。
シャルロッテはホッと息を吐き出す。
(さすがに下着姿で待つのはちょっと恥ずかしいな)
熱湯がかかったのは腕だ。袖のあるドレスだったから、直接かかったわけではないため、ほんのり熱を帯びている程度だった。
この程度なら火傷というほどでもなさそうだ。ドレスを着ても問題ないだろう。
(まったく、カリンはおっちょこちょいなんだから)
シャルロッテは扉から顔を出し、部屋の外にいるメイドを一人招き入れた。そして、着替えを手伝ってもらう。
「なかなか戻ってこないな」
冷やすものであれば、食堂だろう。シャルロッテの部屋は三階で食堂は一階だ。慌てていたせいで何かへまでもしているのではないか。
シャルロッテはわずかに熱を帯びた腕をさすった。
「あれ……? ブレスレットがない……」
右腕にしていたはずだ。眠るときも肌身離さずつけていた。なぜ、それがないのか。
シャルロッテは呆然と自身の腕を見た。