36.シャルロッテができること
カタルの執務室に入るのは初めてだ。つい、不躾に色々と見てしまう。窓を背に置かれた重厚感たっぷりの机には書類が山積みだった。
壁一面の本棚には書庫よりも難しそうなタイトルの本がたっぷりと刺さっている。
カタルは手前にあるソファに座るようシャルロッテに促した。
「悪いが今は誰もいないから、あまりもてなしはできない」
「もてなすだなんて! そういうお気遣いは不要です」
勢いで来てしまっただけで、そこまで長居するつもりもなかった。
「ここは防音魔法が掛かっているから安心しろ」
「そうなんですか? この屋敷は色々仕掛けがあってすごいですね」
「正式な夫人になったらすべて説明しよう」
「ありがとうございます!」
「夫人」という響きが少し恥ずかしかったのだが、シャルロッテは誤魔化すために笑顔をカタルに向けた。
すべては動物と過ごす人生を送るために結婚を決めた。しかし、今は少し違う。アッシュに特大級の幸せを与えたい。
そして、目の前の不器用な男を、ほんの少しでも幸せできたらに思っている。
「……昨夜はすまなかった」
カタルが恥じらうように言った。
「昨日? あ! いえいえ! 少しでも役に立てたなら……」
ただ、肩を少し貸しただけだ。なのに、今更になってなぜかすごく気恥ずかしい。おそらく、カタルが恥じらっているせいだ。
「じ、実は折り入ってカタル様にご相談がありまして……」
「なんだ?」
「アッシュを少しずつ、本邸に慣れさせたいなって思っているんです」
アッシュの名前を聞いた途端、カタルの表情にかげりが見えた。
「お耳が……。じゃなかった。耳と尻尾が隠せるようになったので、もう少し慣れたら、外の世界を見せてあげたくて」
「そうだな。ずっとしまっておくわけにもいかない」
真面目な回答に、シャルロッテは眉尻を下げた。どう返せばいいのだろうか。彼の苦悩を考えると、本邸に連れてくることが正解なのかわからなくなる。
きっと、アッシュは本邸に来たらカタルに会いたがるだろうから。
「そんな顔をするな」
カタルは小さくため息を吐いた。
「私のことは気にしなくていい。私の息子として育てると決めた以上、義務を怠っているのは私だ」
彼は真面目で不器用すぎる。シャルロッテの想像の上をいっていた。「父親としてアッシュを愛さなければならない」そんな義務感と、兄や元妻の裏切りとの葛藤のすべてを自身の中で消化しようとしているに違いない。
シャルロッテは思わず立ち上がった。
「もし、父親として接するのが難しいなら、まずは叔父として接してはどうでしょう?」
「叔父?」
「はい。無理に父親になろうとしなくていいと思います」
こんなことを言ったら、母親失格だと怒られてしまうだろうか。しかし、カタルの頬をひっぱたいて「父親らしく振る舞え」と言ったところで、意味はない。他人の心を動かすのは難しいのだ。
「きっと、その気持ちはアッシュに伝わってしまうので……。それだったら、叔父として接したほうが素直にかわいがれるかなって」
カタルは何も言わずシャルロッテを見つめた。
(すごい無責任なこと言ってるかも)
シャルロッテは慌てた。無理する必要はない。今は一人はないと、そう言いたいだけなのだ。ただ、うまい言葉が見つからない。そのままの言葉でぶつけても、彼は重く受け止めるだろう。
「私にはまだ甥っ子とかいないんですけど、ノエルの……えっと、弟に子どもができたらすごくかわいがっちゃうと思うんです。だから、そういう気持ちでいいと思うんですよ!」
うまく伝わった気がしない。
シャルロッテは眉尻を下げた。カタルがシャルロッテを見上げる。まだ元気はない。しかし、昨日よりはずっと顔色がよかった。
一人だけ立ち上がり演説していたことに気恥しくなって、シャルロッテはソファに腰を下ろした。
「すまない。気を遣わせたな」
「いえ、謝らないでください。カタル様が笑っていてくれたほうが、アッシュも幸せだから」
「そうだな。ありがとう」
しばしの沈黙が続いた。
どんな言葉をかけるべきか。シャルロッテは頭の中で思案するが、なかなかいい言葉は見つからない。「きっとうまくいきますよ」なんて安易な言葉を投げかけられるような状況ではないのだ。
しかし、シャルロッテが何かを言う必要はなかった。その前に、カタルが口を開いたからだ。
「本当にありがとう。……不思議と君は私の気持ちを穏やかにしてくれる」
彼が優しく笑う。
今まで見てきたどんな表情よりも、穏やかな笑みだ。
心臓が跳ねた。
なぜかはわからない。ただ、胸の奥をぎゅっとつかまれるような不思議な感覚に、シャルロッテは息をのんだ。
「そ! そうだ! せっかくだから本邸にもアッシュの部屋を作ってあげてもいいですか?」
「もちろん。ちょうど君の部屋の隣が空いている。そこに作るといい」
「やった! あとで予算を相談させていいただいても?」
「好きなようにしろ。どうせ金は余っているんだ」
「わあ……。人生で一度は言ってみたい言葉をさらりと……」
シャルロッテは肩を揺らして笑った。
「では、その通りに。あとで使いすぎだって言われても返しませんからね!」
シャルロッテはそれだけ言いきると、「お仕事中に失礼しました」と執務室を出た。
廊下に出てゆっくりと息を吸い込む。
(きっと大丈夫。二人とも、私が幸せにしてみせるわ!)
シャルロッテは拳を握った。