35.アッシュの願い
その日、シャルロッテは夜が明けても眠ることができなかった。
カタルの告白が何度も頭を過る。
(兄と妻の不貞の子か……)
カタルは兄と妻の両方に裏切られたと言うことだ。『冷酷悪魔』と呼ばれた裏にそんな物語が隠れていたなんて、想像できただろうか。
シャルロッテは今までしてきたことの数々を思い出し、頭を抱えた。
事情があると言っていたオリバーの言葉をもっと真剣に聞いていれば、もう少し違う対応ができたのではないか。
(全部責任背負って悪者になるなんて、いい人過ぎるでしょ……)
元はと言えば、クロエが不貞を働かなければよかったのだ。いいや、皇帝を愛していたのであれば、カタルと結婚しなければよかった。
そうすれば、少なくとも子どものことでカタルは傷つかなかったのだから。
胸が苦しい。
昨夜のカタルは今まで見た中で一番辛そうだった。
(そりゃあそうよね。兄と妻に裏切られた上に、自ら悪者になって、新しくできた婚約者には父親を強要されて。ああ……! 私って本当最低っ……!)
できることなら、最初からやり直したい。
アッシュとだけ向き合い、カタルとはビジネスパートナーのように接していれば、あんな苦しまなかったかもしれない。
シャルロッテに身体を預けていたときのカタルは、わずかに震えていた。泣いては居なかった。しかし、涙を堪えていたのかもしれない。
背負ってきたものが大きすぎたのだ。
(私にできることなんて、肩を貸すくらいだったもん……)
うまい言葉は見つからなかった。ただ、肩を貸し背中を撫でることだけだ。
(でも、私にできることはもう一つあるよね!)
シャルロッテは賢者でも英雄でも聖女でもない。ただの、そこらへんの貴族の娘だ。そんなシャルロッテにできることは一つしかない。アッシュの継母としてたくさんの愛情を注ぐこと。
本当は同じ獣人の血が通っているカタルが父親として、アッシュを導いてくれればいいと思っていた。しかし、それを強要するのは酷だ。
ならば、父からもらうはずの愛情も母からもらう愛情も、すべてシャルロッテが与えればいいのだ。二人分。いや、シャルロッテ本人の分も会わせて三人分。
それが、なんの特技もないシャルロッテができる唯一のことだと思った。
(カタル様が安心できるくらい、私がしっかりしよう)
なによりアッシュが大好きなのだ。シャルロッテの願いはアッシュが毎日笑顔になること。今はそれに尽力を尽くそう。
シャルロッテは凡人だ。それは自分が一番知っている。今、自分にできることをこなすこと。それが一番の近道だと。
朝支度を終え、シャルロッテはアッシュの元を訪れた。
最近では、耳も尻尾もうまく隠せるようになって、自信がついたようだ。それでも、まだ一時間にも満たない。獣人が人間の姿でいつづけるのは、自然の摂理に反した行動なのだろう。
アッシュはキラキラとした目をシャルロッテに向けた
「これで、パパのところに行ける?」
パパ。その言葉にズキリと胸が痛む。昨夜のカタルの苦しそうな顔が頭を過った。自分の子として育てると決めた以上、腹を括るのが正解なのかもしれない。しかし、心というのは思い通りには行かないものだ。
シャルロッテが答えに窮していると、アッシュの青い瞳が不安げに揺れた。
(いけない! 私がしっかりしなくちゃ!)
シャルロッテはアッシュに目線を合わせるためにしゃがむ。
「うーん、そうだなぁ。三時間はお耳を隠せないとだめかも」
「さん……どれくらい?」
「あの時計の短いはりが三つ動くまでだよ」
「みっつ……」
アッシュは大きな置き時計を睨みつけるように見上げた。
睨んでいる姿すら可愛い。あまりの可愛さに、シャルロッテが頭を撫で回すと三角耳がひょっこりと顔を出す。
「ああっ! ママ~」
「ごめんごめん。可愛くてつい……」
アッシュはぴこんと生えた耳を押さえて、シャルロッテを恨めしそうに睨んだ。それすら可愛く見えるのだから重傷だ。
まだ人間の姿になれていないアッシュは少し気が散ると、こうやって耳が出てしまう。
「アッシュ、あんまり焦らなくていいんだよ」
「うん……。でもね、アッシュ、パパにおはよう言いたい」
アッシュは三角耳を押さえながら、恥ずかしそうに言った。たったそれだけのために、アッシュは必死に頑張っているのだ。
シャルロッテは思わずアッシュを抱きしめた。
「一緒に言いに行こうね」
「うん!」
アッシュの尻尾が左右に嬉しそうに揺れる。シャルロッテは奥歯を噛みしめた。複雑な感情が涙になってあふれそうだったのだ。
アッシュが見たら困惑するに違いない。だから、シャルロッテは彼にバレないようにギュッと抱きしめ続けた。
◇◆◇
昼下がり、シャルロッテはカタルの執務室の前で、右往左往していた。
(勢いで来ちゃったけど、あとにしたほうがいいよね……。でも……)
カタルは忙しい。
そんな彼の仕事を邪魔すべきではないのはわかっている。しかし、アッシュと遊んだあと、どうしても話がしたくてここまで来てしまったのだ。
晩餐まで待てば会えるというのに。
(やっぱりあとにしよう!)
扉の前を散々うろうろしたあげく、シャルロッテは扉に背を向けた。それと同時に扉が開く。
「さっきから何をしている?」
「カ、カタル様……! いつから気づいて……」
「君が廊下を歩いているときから」
(ああ……そっか。耳がいいんだっけ!?)
つまり、シャルロッテの葛藤をずっと聞いていたということだ。
「気づいたなら、すぐに開けてくれればいいのに!」
「いや、悩んでいるようだったから、つい」
カタルはわずかに笑って言った。そんな風に笑ったのを初めて見るような気がして、シャルロッテは目を見開く。
「どうした? 何か用があるんだろう?」
「はい! 時間があったらでいいのですが、昨日の話の続きをしたくて……」
シャルロッテの声が尻すぼみに小さくなる。カタルにとってはあまり楽しい話ではない。きっと断られるだろう。
しかし、カタルは小さく息を吐いたあと、「入れ」と言った。
「いいんですか?」
「昨日は中途半端なところで話を終わらせてしまったからな」
シャルロッテはカタルに促されるまま、執務室へと足を踏み入れた。