33.カタルの過去3
医師の言葉にカタルは呆然とした。まったく身に覚えがなかったからだ。
同じベッドすら使ってたこともない夫婦のあいだに、子どもが生まれるわけがないことくらいは知っている。
何も言えずにいるカタルに医師が優しく微笑みかけた。「こんなに喜ばしいことはございません」というような言葉を言ってきたような気がする。
クロエの部屋に行くと、彼女はカタルから逃げるように視線を逸らした。
「懐妊したと聞いた」
カタルの言葉に返事はない。彼女はただ窓の外を眺めているだけだ。
ここで、「誰の子だ?」と言うべきか、どれほど葛藤しただろうか。しかし、皇族を騙し不義の子を産んだとなれば、クロエも相手の男も腹の子も生きてはいられない。
これは、愛のない結婚に妥協したカタルが背負うべき罪なのかもしれないと思った。
自分の子などほしくないと思っていたカタルに神が罰を与えたのだろう。
カタルはクロエに「おめでとう」とだけ言って部屋を出たのだ。
カタルはその足で、オリバーの元を訪れた。
彼は皇族の中でも魔法の才に秀でている。今の魔法使いを束ねているのは、彼だと言っても過言ではないだろう。
オリバーも王宮内の皇族が暮らす場所に部屋を持っていたが、ほとんど王宮の奥にある魔法塔で生活してた。
雑多に荷物が置かれる部屋に入ると、彼は汚れた眼鏡を拭きながらカタルを迎え入れた。
「やあ、カタル。第一子懐妊だって? おめでとう」
「ああ……」
「なんだ? 子どもができたっていうのに、元気がないな」
「指一本触れていない妻に子どもができたんだ。それで笑っているほうがおかしいだろ」
「馬鹿な冗談はやめたほうがいい。閨教育は散々受けてきたんだ。それが冗談だってことくらい、誰にでもわかる」
オリバーは笑った。この帝国を守るためには多くの子孫を残すことが重要だと知っていた先祖は、閨教育を重要視していたようだ。得に婚外子を作れば、獣人が生まれることになる。だから、カタルたちは子どものころから子孫を残すための教育を受け続けてきた。
「わかっているさ。だから、笑えないんじゃないか」
カタルは小さなため息を吐いた。
オリバーの顔が引きつる。彼は頭をガシガシと掻くと、カタルを荷物だらけのソファに促した。ぬるい紅茶を二人分入れる。
「きちんと説明してくれないか?」
「説明も何も、妻が他の男の子を身籠もったらしい。それしかわからん」
「それしかって……。相手の男は?」
「さあな」
「さあなって……。どうするつもりだ?」
カタルはぬるい紅茶を飲み干す。
その質問に意味はあるのだろうか。父親でもないカタルになんの権利があるというのか。
「私の子として育てるつもりだ」
「人間だぞ?」
カタルは静かに頷く。不義の子ということは、狼の血を引いていないということだ。皇族として育てるのは難しい。それをいつまでも他の皇族たちに秘密にはできないだろう。
そして、人間に皇族の秘密を明かすことはできない。生まれてきた子どもは皇族としての教えを学ばせることはできないだろう。
「今、追い出せば三人の命を奪うことになる」
皇族の秘密を守るため、帝国法は皇族を騙す人間に厳しい。とりわけ子どもに関しては。
「私の子として産んでもらい、死産として届けるつもりだ」
「それで?」
「死産だったという理由でクロエと離縁する」
「馬鹿だな。それだとカタル、おまえが悪者になる」
「構わん。それで三人の命が救われるんだ。悪評くらい請け負うさ」
カタルは苦笑した。オリバーは顔を歪め、ぬるい紅茶を一気にあおる。まるで酒のようだ。彼の表情はカタルよりも苦しそうに見えた。
「つらいか?」
「いいや。まったく」
「裏切られたのに?」
「元々愛のない結婚だ。『ああ、そうか』と思ったくらいだ」
ああ、そうか。やはり好きな男がいたんだな、と。生まれる前に知ることができただけ幸運だとすら思える。
彼女は騙そうと思えば、できたはずだ。ずる賢い女であれば、何でもない振りをしてカタルと褥を共にしただろう。
そうなっていたら、人間の姿をした赤子を抱いて絶望したかもしれない。
そういう意味では感謝していた。今ならばいくらでも対策が立てられるからだ。
愛してはいない。だが、一度は夫婦になったよしみだ。本当に愛する人と結ばれる手伝いをしよう。そう思えるだけの余裕がある。
「実のところ、安心してる」
「安心?」
「愛のない夫婦のあいだにできた可哀想な子を増やさずに済んだ」
この帝国を守るために皇族は多いほうがいい。海の向こう側の獣人が襲ってきたとき、対抗できるだけの力を持っているのは皇族とわずかな魔法使いの子孫だけ。
カタルの両親もまた、愛のない結婚をし兄とカタルを生んだ。皇族や貴族の結婚に愛など必要ないのかもしれない。しかし、愛に満ちた世界に憧れも強くあった。
生まれてくる子どもはカタルに関係ない。しかし、両親には愛されて育つことを願っている。
「秘密裏に帝都から離れた場所に屋敷と使用人を用意してくれ。家族三人が暮らせるように」
「裏切られた男がそこまでしてやる義理はないように思うけどね」
「出産祝いだ」
カタルは自嘲気味に笑った。
クロエの腹の子は順調に育っていった。
獣人の子は獣の姿で生まれるため、皇族の出産は皇族の女性が行う。これは「高貴な子を取り上げられるのは高貴な者のみ」というもっともらしい理由を先人たちが作ってくれていた。
子を取り上げるのは、オリバーの姉のディアナに頼んだ。彼女ならばカタルの秘密を墓場まで持って行ってくれるだろう。
母親が人間の場合、出産前に精神魔法をかける。生んだ我が子にが獣の姿で現れれば、精神を病む可能性があるからだ。
しかし、今回その必要はない。だから、オリバーは魔法をかけるためではなく、死産をでっちあげるための要員としてすぐ隣の部屋に控えてもらっていた。
計画は順調だった。
三時間にわたる出産の末、ディアナが子を取り上げるまでは。
「なんで……狼の子が生まれるの……?」