31.カタルの過去1
カタルはじゃれ合う二人をただ呆然と眺めていた。
胸の苦しさが何からくるのか。その明確な理由はいくつも思いつく。しかし、これだという確信は持てなかった。
シャルロッテはベッドの上に洋服を広げ、アッシュに一着ずつどこが可愛いのかを説明している。それが必要な行為なのかはわからない。けれど、アッシュは尻尾を振りながら、嬉しそうに聞いているから正解なのだろう。
微笑ましい母と子の様子だというのに、胸が痛かった。
「カタル様、大丈夫ですか?」
シャルロッテが心配そうにカタルの顔を覗き込む。彼女の言葉に同調するようにアッシュが不安そうに鳴いた。
「ああ、大丈夫だ。私は仕事が残っているから本邸に戻る」
「カタル様っ!?」
カタルは早口で言うと、シャルロッテの返事も聞かずに足早に別邸をあとにした。
(やはり、人間になるとよく似ていた……)
カタルは息を吐き出しながら、庭園に出た。仕事ができるような気分ではなかったのだ。庭園に置かれたベンチに腰掛け、空を見上げる。夜色に溶けた空が広がっていた。
「カタル様っ!」
振り向くと、シャルロッテがドレスの裾を捲し上げ、走って向かってきていた。彼女はカタルの元まで来ると、大きく息を吐き出す。
「どうした? 何か用か?」
「なんだか調子が悪そうに見えたので……。迷惑だったらすみません」
彼女は「隣、失礼します」と言って、カタルの隣に座った。彼女は少しずうずうしいところがある。しかし、そのずうずうしいところに救われている部分もあった。
二人は何かを言うわけでもなく、空を見上げる。
沈黙が続いた。その沈黙に耐えきれず、カタルは口を開く。
「君のお陰で息子は元気になった。感謝する」
シャルロッテは不思議そうに目を瞬かせた。彼女にはわからないのだろう。彼女が来るまでの三年間がカタルにとってもアッシュにとっても地獄のような日々だったことを。
しかし、申し訳なくもなるのだ。
彼女は変った趣味を持っているが、普通の幸せを手に入れることができる人間だ。見合いが二十回失敗していたとしても、二十一回目は成功していたかもしれない。
求婚前に世間での評判を調べたことがあった。動物好きの『変人令嬢』という噂はもちろんだが、「それさえなければ結婚したかった」という男がそれなりにいたのだ。
珍しいストロベリーブロンドの髪と大きなエメラルドグリーンの瞳。笑うと花が咲いたように周りが華やぐ。
アロンソ邸の使用人の中にも彼女のファンは多かった。
彼女であれば、変った趣味を理解してくれる夫を見つけ出せただろう。
彼女はカタルに満面の笑みを見せた。
「私こそ感謝しないと! 私、今すごく幸せなんです。あんなに可愛い子のママになれるなんて!」
シャルロッテは恥ずかしそうに「まだ正確にはママではないですけど」と言って笑う。しかし、その笑顔が幸せそうで、カタルは救われたような気持ちになる。皇族の面倒ごとに巻き込んだ罪は消えないが、彼女が幸せなのが救いだ。
「ずっと聞きたかったことがあるんですけど……」
「なんだ?」
シャルロッテは辺りを見回したあと、カタルの耳元で囁くように聞いた。
「大人になると、狼にはならないのですか?」
カタルは思わず笑った。
シャルロッテなりの気遣いなのだろう。他の人間に聞かれないように。
「安心しろ。周りには誰もいない」
「そんなこともわかるんですか?」
「まあな」
狼獣人は耳と鼻が人間よりもいいようだ。人の足音や気配、匂いで近くに誰がいるのか認識できた。シャルロッテはこわがるどころか「すごいですね!」と目を輝かせている。
普通ならば、「こわい」だとか、「気持ち悪い」と感じるはずなのだが、彼女は違うようだ。
「皇族は子どものころから、厳しく教育される。本当の姿は母親にも見せてはならないと」
「では子育てはどうやっていたんですか?」
「皇族の女性が担うことが多い。あとは、母親に精神干渉の魔法を使う」
「なるほど……」
シャルロッテは曖昧に頷いた。
想像がつかないのだろう。狼の姿をした子どもを受けいれられる人間はいない。狼の姿を見ても人間の子どもだと感じるように魔法を使う。
カタルはその魔法が嫌いだった。母親はほとんど子どものころのカタルを覚えていなかったからだ。
「長く精神干渉の魔法をかけ続けるのはよくない。だから、子どものころはほとんど母親には会えなかった」
「ちょっとさみしいですね」
「私も昔は母にたくさん会いたくて、必死に練習をしたものだ」
シャルロッテは困ったように眉尻を落とす。
「そんな顔をするな。皇族に生まれた以上、耐えなければならない試練だ」
「そうは言っても、寂しいじゃないですか」
シャルロッテはドレスをギュッと握った。スカートに皺が寄る。彼女に三角の耳があったのであれば、垂れていただろう。
(もっと早く君を見つけていれば、君が抱く子を一緒に愛せたかもしれないな……)
カタルはアッシュを抱き上げ、幸せそうに笑うシャルロッテを思い出した。
狼の姿も、人間の姿もすべてを愛し、優しく包み込む女性をカタルは知らない。そんなものは同じ皇族にしかいないと思っていた。
もし、アッシュがシャルロッテとのあいだに生まれた子だったら――……そこまで考えて、カタルは慌てて頭を横に振った。