20.ピクニック2
小さな狼は勢いよく駆けた。ひらひらと舞う蝶を追いかけ回している。アッシュは太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
初めて会った日のことなんて忘れてしまいそうなくらい、彼は楽しそうだ。
裏庭はカタル曰く「少し狭い」そうだが、十分広かった。別邸と背の高い塀に囲まれているお陰でどこからも見られない。ここならアッシュが自由に走り回っても心配はいらないだろう。
シャルロッテとオリバーは大きな木の下で座り、楽しく遊ぶアッシュをただ眺める。
「アッシュがここまで元気になれたのは、シャルロッテ嬢のおかげです」
「えへへ。愛情をたっぷりあげているので」
「否定はしないんですね」
「だって、本当のことですから」
シャルロッテは頬を緩めて笑った。
アッシュは蝶を追いかけ回して、花壇の中に入っていく。花のあいだからひょこっと出てくる小さなかわいい三角の耳。
思わず頬が緩む。
アッシュは花壇から抜け出すと、シャルロッテに向かってまっすぐに走ってきた。口には一輪の花を咥えている。彼はその花をシャルロッテの膝に乗せた。
「私にくれるの?」
「キャンッ」
「ありがとう」
アッシュの高い声が空に響く。シャルロッテがアッシュの頭を撫でまわしていると、突然光に包まれる。――人間に変化するときの予兆のようなものだ。シャルロッテは肩にかけていたストールを慌ててかけた。
人間の子どもの姿にかわいい三角耳。そして、ふさふさの尻尾が揺れる。アッシュは照れくさそうに「えへへ」と笑った。
オリバーが呪文を唱えると、あっという間にシャルロッテのストールがアッシュの服に変化した。
「いつ見ても魔法ってすごいですね」
シャルロッテはアッシュを抱き上げながら、感嘆の声を上げる。
オリバーが眼鏡の奥で少し照れたように笑った。
「カタルから聞いてはいましたが、こんなに短時間で人間の姿になれるとは思ってもみませんでした」
オリバーが手を伸ばすと、アッシュは耳を垂らしながらもオリバーの手を受け入れている。
「アッシュの頭を撫でられる日がこようとは……。シャルロッテ嬢には感謝してもしきれません」
次はシャルロッテが照れる番だ。当たり前のことをしただけなのだが、感謝されると嬉しい。シャルロッテはアッシュの耳を撫でながら聞いた。
「この耳もそのうち隠せるようになるんですか?」
「ええ、そのはずです。そうなれば、自分の意思で姿を選べるようになります」
「そうなんですね。人間のほうがつらいとかないんですか?」
生まれた時とは違う姿で生活するというのは、苦しくないのだろうか。人間は人間でしかないため、想像ができない。オリバーは難しそうな顔で唸りながら逡巡したのち、困ったように笑った。
「最初のうちは違和感も強く、どちらかというと狼の姿のほうが楽でしたよ」
「そうなんですね」
「ですが、皇族として我々は人間にならなければなりません。そう、教育を受けます。だから、今は狼の姿になることのほうがこわいですね」
シャルロッテは静かに相槌を打つ。彼らの苦労は彼らにしかわからない。きっと、アッシュも今後同じような教育を受け、同じような苦悩を味わうのだろう。
アッシュを見下ろすと、心配そうにシャルロッテを見上げている。
「そうだ! 今日は林檎を持ってきたの! 切ってあげるね!」
「りん、ご?」
「そう、林檎。おいしいんだよ」
アッシュは嬉しそうに尻尾を振り、シャルロッテの隣に座って林檎を切る手をジッと見た。あまり器用なほうではないが、林檎くらいなら切れる。一欠片切り離し、皮を少し残してウサギの形を作る。それをアッシュの目の前に差し出した。
「はい、ウサギさん」
「……ウ、サギ?」
(そっか知らないか)
実のところ、シャルロッテも本物は見たことがない。動物の図鑑で見たことがあるだけだ。目撃した画家の絵を見ると、毛がふわふわのように見える。
その顔は温厚そうで、おそろしい動物には見えない。一度遭遇したい動物の一つだった。
「んー。かわいいお友達だよ」
アッシュはシャクッと音を立ててかじりつく。頬にいっぱい溜めて食べる姿は愛らしい。ずっと見ていられそうだ。
シャルロッテはアッシュが食べ終わる前に次の林檎を切り、彼に手渡した。おいしそうに食べる。彼は気に入ったのか、二個、三個と口に入れた。
満足したのか、コロンと横になった瞬間人間の姿から狼の姿に戻る。
「ん~! やっぱりかわいい!」
シャルロッテは思わずアッシュの腹を撫でまわした。ふわふわとしたやわらかい毛がシャルロッテを幸福にしてくれる。
成長するにつれ、この姿が見られなくなるのは寂しいものだ。
(今のうちに堪能しなくちゃっ!)
シャルロッテは嬉しそうに尻尾を振るアッシュを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。