16.怪我の功名?1
シャルロッテはアッシュに一歩近づいた。すると、アッシュは逃げるように後ろに下がる。しかし、彼のいるところは部屋の隅だ。これ以上後ろにはいけず、壁に尻を押しつけるような形になった。
「アッシュ、どうしたの?」
アッシュは唸り声をあげる。しかし、よく見るとその顔は最初に会った時とは違った。恐怖心というよりは不安のようなものを感じる。
(もしかして、こういうときはどうしたらいいかわからないのかも)
初めて悪いことをしたとき、シャルロッテもどうしていいかわからなかった。母は「きちんと謝りなさい」と教えてくれたけれど、それをアッシュに教えてくれる人はいなかったのは、想像できる。
シャルロッテはゆっくり息を吐き出すと、一歩、二歩とアッシュに近づいた。
今にも泣きそうな顔でアッシュがシャルロッテを見上げる。
シャルロッテは床に座り込むと、アッシュの視線に合わせた。包帯の巻かれた腕を彼の前に伸ばす。
「もう、手当をしたから大丈夫だよ」
アッシュは耳を垂らしたまま、シャルロッテの腕と顔を交互に見る。どうしていいのかわからない。そんな顔だ。
「こういうときは『ごめんなさい』って言うのよ」
アッシュは逡巡したあと、小さく鳴いた。
「キュゥン……」
「うん、上手。大丈夫。怒ってないよ」
シャルロッテが満面の笑みを見せると、アッシュは一歩、二歩とゆっくり近づいて包帯の匂いを嗅ぐ。
動物は臭覚が優れているのだとか。きっと、消毒薬の臭いと、血の臭いを確認しているのだろう。
「ねえ、アッシュ。お詫びにたくさん撫でさせてくれる?」
シャルロッテが尋ねると、アッシュの垂れていた耳が立ち上がる。そして、尻尾を振った。シャルロッテはすかさず抱き上げ、膝の上でアッシュを撫で回した。
腹を見せて、楽しそうに笑うアッシュはなんと可愛いことか。
ふわふわの毛は筆舌に尽くしがたい。
この触り心地のよさを知らずに一生を終えるニカーナの人々は可哀想だ。
(ああ~最高! ふわふわ~)
子ども特有の柔らかい毛。いくらでも触っていられそうだ。
爪はしっかりと切られていた。おそらく、オリバーがやってくれたのだろう。
(次からは私が切らなきゃ!)
人間だって爪が伸びたら切るのだから、狼だって切ってもおかしくはない。獣人について、シャルロッテは知らないことだらけだと思った。
シャルロッテはアッシュと日が暮れるまで遊んだ。アッシュもすっかり元気になったように思う。
アッシュが眠りにつくのを見届ける。
可愛らしい寝顔を見ていると幸せな気持ちで胸が満たされた。
「また明日会いにくるね」
寝顔のアッシュに告げると、耳がピクリと動く。眉間を撫で、シャルロッテは部屋を後にする。
シャルロッテは別邸と本邸を隔てる大きな扉に右手をかざして、怪我のことを思い出す。晩餐の時間もとっくに過ぎている。
(いけない。手当をしてもらう約束だった!)
つい、アッシュの相手をするのに夢中になっていた。
シャルロッテは慌ててカタルの執務室を訪問する。ノックを三回。そのあと扉をおそるおそる開くと、眉間に皺を寄せた彼が睨むようにシャルロッテを見ていた。
「遅い」
「すみません。アッシュと遊んでいたら、つい……」
あははと笑うシャルロッテに、彼は小さくため息を吐いた。
「すぐに終わらせるからそこに座って手を出せ」
カタルはぶっきらぼうに言うと、棚から救急箱を取り出した。
「また消毒しますか?」
「しておくに越したことはない」
「なら、優しくお願いします」
シャルロッテは震える手を差し出す。前回の痛みは相当だった。またあの痛みをもう一度感じると思うと手が震えるのも仕方ない。
カタルがシャルロッテの腕をつかむと眉根を寄せる。くっきり三本。
「おい」
「なんですか?」
「熱があるな」
「へ? そんなはずありません! 私は健康そのものです!」
シャルロッテは元気であることを主張するために立ち上がる。立ち上がった瞬間、目の前が歪んだ。
「あれ?」
足に力が入らない。カタルの身体がゆっくりと傾いていく。焦った顔が面白かった。「体調が悪いのはあなたのほうじゃない」と言おうと口を開く。
「おいっ!」
カタルの叫び声が聞こえた気がしたが、なぜか目の前が真っ暗になった。
◇◆◇
次に目が覚めたのがいつなのかは覚えていない。ただ、窓の外が明るかったから、朝か昼なのだろう。
(身体が重い……)
朝ならば、アッシュのごはんを持っていかねば。きっと、鳴いてシャルロッテのことを待っているだろう。
どうにか起き上がろうとして、誰かに力いっぱい押し戻された。
「なんですか? 私、アッシュのところに行かないと……」
「だめだ。今日は寝ていろ」
不機嫌そうな声はカタルか。シャルロッテは彼の手を振り払おうとして、手が宙を切った。
「アッシュのことはオリバーに任せてある」
「でも……。また明日って言ったので」
「今は歩けるような状態じゃない。ひどい熱がある。会っても心配させるだけだ」
子どもに言い聞かせるような声色でカタルが言った。シャルロッテは頬を膨らませる。しかし、彼の言うとおり力が入らない。だから、怒っても仕方ないのだろう。
「果物が好きなので、食べさせてあげてくださいね……」
「わかった。今は寝ろ」
「あと、アッシュに玩具を作ったんです……。あそこの引き出しに……」
あとは何かあっただろうか。
うーんと唸っているあいだに睡魔が襲い眠ってしまった。
その日、シャルロッテは最高の夢を見た。どうにも寒くて苦しくて辛かったとき、大きな犬が現れたのだ。彼は子どものころ会ったときのように、何も言わずジッとシャルロッテを見つめる。
そして、シャルロッテの横に座った。
ゆっくり頭を撫でても動じない。シャルロッテはそのまま顔を埋めた。
(あったかい~。もふもふ~)
なんという幸せなのか。アッシュに比べたらしっかりとした毛。けれどやわらかくて温かい。シャルロッテを包み込んだ。
最高の抱き心地だ。
いつの間にか寒さも苦しさもなくなってしまった。