11.訪れた幸せ
ストールを忘れた日から、五日。
別邸に向かう足取りは軽かった。
朝食を終えると、別邸の扉を開き二階に上がる。つい、早歩きになのるは仕方ないことだ。
可愛いアッシュに会えるのだから。
別邸の二階、一番の奥の部屋。シャルロッテはいつものように扉を三回ノックした。扉の奥から、「キャンッ」と甲高い返事が返ってくる。
爪が扉を引っ掻く音が聞こえる。相当興奮しているようだ。
そっと扉を開けると、アッシュが飛び出すようにシャルロッテに抱きついた。
「アッシュ、おはよう」
シャルロッテはアッシュを抱き上げて、部屋の中に入る。彼は甘えるような声を上げて、シャルロッテの頬を舐めた。
(可愛い……! 幸せで死んじゃいそう……!)
たった五日で、二人の距離は縮んだ。理由はわからない。あのストールにどういう効果があったのかはわからないが、あの日からアッシュの警戒心は解けたように思う。
ストールを忘れた日、シャルロッテはアッシュの側を離れることができず、とうとうそのまま眠ってしまったのだ。
目が覚めたとき、アッシュは少し距離を置きながらも、シャルロッテの側にいた。吠えることも唸ることもせず、ジッとシャルロッテを窺うような視線を向けていたのだ。
「見て、今日は果物を持って来たわ。一緒に食べましょう」
狼獣人は基本肉を好むようだが、人間と同じように果物や野菜、穀物も食べるらしい。アッシュも子どもながら食事に肉を好む。
それとは別にこうして果物を持って来て一緒に食べるのだ。
シャルロッテはバスケットの蓋を開けて、野いちごを一つ口に含む。甘さが口の中に広がった。同じようにアッシュの口に近づけると、匂いを嗅いだあと口に入れる。
初めて食べる味に驚いたのか、目を見開く。そして、気に入ったのかバスケットに鼻を突っ込んだ。
「まだたくさんあるから焦らないで」
シャルロッテはアッシュの頭を優しく撫でる。
そのほわほわとした柔らかい毛の感触にシャルロッテは幸福を感じずにはいられない。
(なんて幸せなのかしら……)
こんな幸せは一生手に入れられないかと思っていたのだ。
幸せを噛みしめるつもりで、シャルロッテは何度も何度も背を撫でる。アッシュは少しくすぐったそうに目を細めた。その表情は父の髭を「いやだ」と言いながら受け入れているノエルの表情に似ている。
それが可愛くて、全身を撫で回してしまうのだ。
「今日はなんの予定もないから、ずーっと一緒にいられるわ」
シャルロッテが言うと、アッシュは「キャンッ」と嬉しそうに吠えた。
アッシュは人間の言葉は話せないが、理解はしているようだ。オリバーが狼の姿だと声帯が違うため人間の言葉は話せないのだと教えてくれた。アッシュが人間になったときに少しでも言葉を話せるように、シャルロッテは何でも言葉に出すことにしている。
アッシュは言葉を話さない代わりに、鳴き声や行動で意志を示してくれていた。
シャルロッテは持って来た荷物の中から、毛糸で作った玉を取り出した。
「アッシュのために作ってきたの。ほら、見て。アッシュの瞳の色と同じ青色よ」
アッシュの目の前に玉を差し出すと彼の目がきらきらと輝いた。
「投げるから、これを取ってきてね」
「キャンッ」
彼の返事を聞いてシャルロッテは微笑むと、玉を遠くへと投げる。アッシュは勢いよく追って、毛糸に飛びついた。空中でうまく捕まえたアッシュは、誇らしげにシャルロッテの元へと戻ってくる。
「すごい! 初めてなのにできちゃうなんて天才だわっ!」
シャルロッテは両手放しで褒め、何度もアッシュを撫でる。彼は嬉しそうに尻尾を振るが、実際のところはシャルロッテのほうが幸せなのだ。
ふわふわの毛をご褒美と称して撫でられる日がくるとは思わなかった。
(こんな人生があるなら、皇族の妃に真っ先に手をあげたのに!)
シャルロッテだって一応貴族の令嬢だ。ベルテ家に皇族との婚約を結ばないかという打診が来たことがあるとかないとか。
権力やしがらみのようなものにあまりいいイメージがなかったシャルロッテは、そういう面倒な結婚話は避けるようにしていた。
もし、受けていたら、今ごろこんな可愛い狼の母親になれていたというのに。
(でも、今が幸せだからいいわっ)
シャルロッテはアッシュをギュッと抱きしめる。彼は嬉しそうに目を細め尻尾を振った。この感情を隠さない尻尾が大好きだ。
この尻尾はシャルロッテを騙さない。そして、幸せにしてくれる。
「よし! もう一回!」
「キャンッ」
シャルロッテはアッシュのために何度も毛玉を投げた。飛んで行く青の玉を取ってシャルロッテの元に持って行く。たったそれだけの単純な遊びなのに、彼はとても楽しそうだ。
しかし、何度もねだってくるアッシュに最初に音を上げたのは、シャルロッテだった。
シャルロッテは「もう腕が上がらない!」と嘆き、休憩を要求したのだ。アッシュは物わかりがいい。シャルロッテが「おわり」と言えば、それ以上要求しない。
なんだかそれが、少しだけ可哀想に感じる。
弟のノエルは小さいころ、疲れたシャルロッテを揺さぶってでも遊びに付き合わせようとした。「もう無理~」と言っても「姉様なら大丈夫! あと一回!」と言って離れなかったのだ。
(もっとわがまま言ってもらえるくらい、心を許してもえるようなママになろう)
シャルロッテは頭を撫でる。
彼はしばらくのあいだ嬉しそうに目を細め、されるがままになっていた。しかし、耳をピクリと動かす。
彼は立ち上がり「キャンッ」と吠えたあと、シャルロッテの後ろに逃げるように隠れた。そして、後ろに隠れたまま、ぐるぐると唸る。
「どうしたの?」
シャルロッテは突然のことに驚いて立ち上がる。すると、扉が開いた。