10.一歩前進
いつもの手順で別邸から本邸へと移動する。
別邸の二階の奥にあるアッシュの部屋を出て、長い廊下を歩く。何部屋もあるけれど、今は使われていないそうだ。
アッシュが使うのはあくまで一室。彼は生まれてからずっと、他の景色を知らない。
空があんなに青くて綺麗なことも、芝を駆け回ったら気持ちいいこともまだ何も知らないのだ。
それはなんて悲しいことだろうか。
(絶対仲良くなる! そして、人生で楽しいことを全部私が教えてあげるんだから!)
毎日あんなに怯えているのには、何か理由があるはずだ。
生まれてから三年、彼の人生はあまりいいものではなかったのかもしれない。
別邸の階段を降りると、広いホールに出る。別邸なのに、ベルテ家のホールよりも大きい。
天井から下がるシャンデリアを見上げてため息を吐いた。
(本当にどこもかしこも豪勢。……あ、ストール忘れてきちゃった)
今日は肌寒いからとメイドたちに言われ羽織った紺色のストールだ。アッシュの部屋は思いのほか暖かく、置いてきてしまったのだ。
(食事が終わったら取りに行こう)
シャルロッテは別邸の扉を開けて本邸の食堂へと早歩きで向かった。
カタルとの晩餐はいつも静かだ。二人では食べきれない量の食事が並び、そこから好きなように取っていいのだが、これが少し気を遣う。サラダを兎のように頬張りながら、カタルの様子を観察した。
食事は肉料理を好むようだ。やはり、狼獣人だからだろうか。
血が滴りそうな分厚いステーキを口に運ぶ姿を見ながら、観察を続けた。
アッシュグレーの髪と切れ長の黄金の瞳。狼の姿を想像するのは容易い。
(獣人って耳とか尻尾とかあると思っていたけど、ないみたいね。……ちょっとがっかり)
幼いころ読んだ絵本には人間の姿に耳や尻尾の生えた獣人が描かれていた。しかし、カタルはどこからどう見ても人間だ。
耳や尻尾があったら、少し触らせて貰うこともできたのに。
シャルロッテは落胆をトマトと一緒に飲み込んだ。
「さっきからどうした?」
不躾な視線を不快に思ったのか、カタルが手を止めてシャルロッテを睨むように見る。鋭い眼光に初めは慣れなかったが、彼のそれは別に怒っているわけではないらしい。
「いえ。よく食べるな~って」
あははと笑うと、彼は小さく息を吐いて食事を再開した。
「そうだ! 今日のアッシュも元気でしたよ。相変わらず懐いてはもらえませんでしたが」
「そうか」
(『そうか』だけ? 息子なんだからもう少し色々ないの!?)
シャルロッテは喉の奥まで上ってきた言葉を、肉と一緒に飲み込む。憤慨した気持ちを二切れ目の肉にぶつけた。
カタルは『冷酷悪魔』の名にふさわしく、ほとんどアッシュに興味がない。やはり、噂どおり生まれたばかりのアッシュを母親から奪い取り、別邸に閉じ込めた悪魔のような男なのだろか。
「でも、初日よりは警戒を解いてもらえるようになりました。今、何時間一緒にいれると思いますか? 三時間ですよ」
シャルロッテはお構いなしにアッシュの話を続けた。
残念ながら、カタルとシャルロッテの共通の話題など、アッシュ以外にない。しかも、カタルは自分からあまり会話を始めないのだ。
シャルロッテが話さなければ、葬式のように静かな晩餐になる。それだけは避けたかった。
「そうか」
「三時間のすごさがわからないなんて……! すごい進歩なんですからね!」
最初は一時間も同じ部屋にいられなかった。
知らない人間を前にアッシュの息遣いは荒く、今にも倒れてしまいそうだったのだ。ようやく、警戒されながらも部屋の端と端ならば三時間は一緒にいられるようになった。
とにかくいまは無害だと示すことが大切だ。
シャルロッテはアッシュに危害を加えないということを体験してもらわなければ、何も始まらない。
シャルロッテは毎日アッシュの様子を見て、彼の部屋で過ごした。ただ、同じ空間にいることしかできなかったが。
アッシュの息遣いに気を配りながら、本を読むだけ。彼は本の閉じる音にすら敏感に反応する。シャルロッテが立ち上がっただけで、震えた。
そんなアッシュと三時間もいられるようになったのは奇跡のようなことだ。
その感動がわからないなんて。
シャルロッテは憤りを感じる。
「その調子で頼む」
カタルはいつもの真面目な顔でそういうと、ナイフとフォークを置く。ナプキンで丁寧に口元を拭くと立ち上がった。
「仕事が残っている。では」
彼はシャルロッテの返事も聞かず、食堂を去って行った。
(ふつう、息子の一日がどうだったか気になるものじゃないの?)
シャルロッテの父は仕事から帰ると真っ先にシャルロッテとノエルの部屋に来て、頬に口づけをしてくれていた。「もじゃもじゃの髭がくすぐったくて嫌だ」とノエルは毎日言っていたけど、父の顔を見ると嬉しそうにしていたのを覚えている。
シャルロッテは怒りをとおりこして、なんだか悲しい気分になった。狼獣人の末裔だから、人間の姿になるまでは別邸から出られないのも理解できる。
子犬のようなアッシュの姿はとても可愛いけれど、他の人が見て同じような感想を抱くとは思えない。
もし、カタルがもっとアッシュに寄り添ってくれたら、アッシュの世界はもう少し変ったかもしれないのに。
シャルロッテは両手で自分の頬を叩いた。
(ママになったんだから、私がしっかりしないと!)
残りの肉を口に押し込み、立ち上がる。
(アッシュのところに行こう!)
シャルロッテは駆け足で別邸へと戻った。
同じ道なのに、遠く感じる。ブレスレットを使って扉を開け二階に続く階段を登る。
アッシュの部屋の前で、息を整える。
アッシュは大きな声を怖がる。これは数日一緒に過ごしてわかったことだ。大きな声、大きな音。狼は音に敏感なのかもしれない。
シャルロッテは小さく部屋の扉をノックする。
コンコンコンと三回。
「アッシュ、私よ。シャルロッテ。入るわね」
小さな声で語りかけたあと、ゆっくりと扉を開ける。
いつもいる、部屋の隅に目をやった。いつもカーテンの裏に隠れて、震えているのだ。しかし、そこにアッシュの姿はなかった。
(あれ? どこ行っちゃったんだろ?)
シャルロッテは辺りを見回す。ベッドの上にはいない。ぐるりと一周して、シャルロッテは足を止めた。
(そんなっ……!)
シャルロッテは悲鳴を上げそうになるのを、両手で必死に押さえる。声を上げたら起きてしまう。
アッシュは眠っていた。――いつも、シャルロッテがいる場所で。アッシュが隠れる部屋の隅とは対角線にある場所だ。遠いほうが落ち着くだろうと、そこに椅子を置いて過ごしていた。
背もたれに掛けておいたストールは床に落ちている。
そのストールに巻きつくようにしてアッシュは眠っていた。
(可愛い……!)
寝顔を見るのは初めてだ。
いつもシャルロッテを警戒して、眠ることはなかった。しかし、今は安心したように眠っている。
(このストールが気に入ったのかしら?)
なんの変哲もない紺色のストールだ。シャルロッテはアッシュが風邪を引かないようにと、ストールを上から被せてやろうとした。
静かに、気づかれないように。しかし、ストールに手を掛けたところで、アッシュの耳がピクリと動く。
心臓が跳ねた。
瞼がゆっくり上がる。青い瞳がシャルロッテをとらえた。きっと、驚かせてしまう。どうやって宥めたらいいか考えるが、まったくいい案は思いつかない。
アッシュは目を何度か瞬かせたが、怯えたりはしなかった。寝ぼけているのだろうか。シャルロッテの指先に鼻を近づけ、スンスンと匂いを嗅いだ。
そして、ペロリと舐めたのだ。
(か、可愛い……!)
叫んでしまいそうになるのを堪える。しかし、こんなにも可愛いのだ。叫ばずにはいられない。抱き上げてもみくちゃにしたい気持ちを抑えるのに、時間が掛かった。
小さな寝息が聞こえる。
シャルロッテはあまりの幸福にその場を動くことができなかった。