闐の節・増殖 其之弐『巣窟は拓き』
まえがき
顕醒と神室、ついに接触。
巣窟は拓き
Side Iruma & Kensei
「で、ボクは何をすればいいのかな?」
金花家に入ったイルマは、先を行く広い背中に問いかけた。
家人はすでに回収班の手に渡って、いまは厳重に拘束されたうえ、支部へと運ばれている。
「失踪したこの家の娘を追う。お前の嗅覚を借りたい」
「やれやれ……このボクを警察犬扱いか。蟲の調査をするつもりが、ヒト捜しをさせられるなんて。相変わらず人使いが荒いね、衆は」
イルマの皮肉に顕醒はなにも応えない。
「マスクを取っても?」
その問いにはうなずいた。
イルマが覆面を脱いだ。長い巻き毛を揺らして、凰鵡達を一瞬で虜にした美貌が露わになる。
色妖としての最大の武器。だが、ヒトに紛れて生きるうえでの足枷にもなる。そのため、平素は顔を隠しているのだ。
「ひどいな」
細筆で引いたような眉目を歪めて、毒づく。
「男……汗……いろいろ……それから、あの蟲の匂いも、そこらじゅうに残ってる。まっとうな女の子の匂いは、ひとつ」
居間に漂う香りから、イルマはここで行われた暴虐を脳裏に思い描いていた。
「反吐が出るね。蟲だけでもイライラするのに……美しくない」
「被害者は金花蛍か?」
「彼女の身につけていたものが欲しいね。できれば当日に」
イルマは円を描くように、居間のなかを歩き回る。
「ゲスな想像だけど、服は脱がされたはずだ。見なかった?」
「いや」
「そう。着せてから連れ去ったか、捨てられたか。下で確認したけど、このあたりは今日がゴミの日だった。今は焼却炉かな……ん」
ふと、鼻のセンサーにピンとくるものがあって、イルマは導かれるように、洗面所へと入った。
「見っけ」
洗濯機のなかから摘まみ上げたのは、昨夜、蛍が放り込んだ靴下だった。
「変質者みたいであまり好きじゃないけど……人助けひとだすけ。ショーツよりマシか」
生地を鼻に近づけ、目を閉じて、深く、息を吸った。嗅神経の髄にまで、香りを染み込ませる。
「今のボクの姿、みんなには内緒ね」
顕醒からの返答は、冷ややかな視線だけだった。「無駄口を叩くな」と言われたほうが、まだ怖くなくて助かる。
だが口が堅いのは確実だ。年々強くなってゆく無言の圧は不気味でも、こっちにトゲしか向けない鋼鉄娘よりは、一緒にいて安心できる。
「インプット完了。これ、入れるものある?」
顕醒がジャケットの内側からビニールポーチを出して寄越す。用意周到なことだ。
イルマは靴下を密封してポケットに入れる。
「さて、きみの質問に答えると、ここでの被害者は間違いなく金花蛍ちゃん本人。追いかける?」
顕醒がうなずき、二人は金花家を出た。
階段もエレベーターも使わなかった。
廊下の転落防止柵を跳び越えて、向かいにある小さなアパートの屋上へと着地した。
そのまま気配を断ちつつ、屋根から屋根へと跳び移ってゆく。
ハイウェイ走法──人混みや信号を気にせず走れるため、イルマは個人的にそう呼んでいる。
その状態でも、金花蛍の足取りはハッキリと感じ取れた。
嗅覚に関して、藐都の右に出る種族はいない。一度鼻の髄に刻み込んだ匂いは、たとえ海のなかに潜られようとも嗅ぎ付けることが出来る。
蛍はマンションの駐車場から車に乗せられた。ガソリンの燃える匂いに混じって、彼女の香りはまっすぐ隣町へと続いている。
十数分のハイウェイマラソンのすえに、イルマは目的地を見定めた。
「あそこだ」
その一言で、顕醒も察したのだろう。
今、自分達にとって、もっとも目ぼしい建造物──チャクラメイトの本部ビルだった。
「お邪魔します?」
イルマが訊ねると、顕醒は無言でうなづいた。
三〇秒後、二人は本部ビルの屋上に上がっていた。
施錠された扉のノブを顕醒が握る。
その瞬間、音もなく、ノブは砕け、錠は破られた。
イルマは生唾を飲む。何度見ても背筋が寒くなる。相手が生物なら、触れた瞬間、体内をズタズタにできる。イルマ自身も、かつてこの技で地獄を味わった。
階段を降りる。最初の廊下が見えたところで、足を止めた。
「私が先行する。彼女のいる方向を指示しろ」
「監視カメラどうする?」
イルマが問うと、顕醒が廊下に向かって、軽く手を振った。
見えない場所で、何かがバチッと音を立てた。
壊したか、電源を切ったか、とにかく問題のものを止めたらしい。
「なるほどね……とりあえず、この階じゃなさそう。総当たりでいい?」
顕醒はまたうなずく。
七階建ての本部ビルを、最上階からしらみ潰しにすること四階。止めた監視カメラの数、十三台。しかし、人間には一度も出逢わなかった。臨時休業中か──だが電灯は点いている。警備のためか、どこかで保守点検でもしているのか。
「ここ」
ついにイルマがその部屋を発見した。
「妙な気分だよ。気を付け──」
言い終える前に、顕醒が扉を開いた。鍵は掛けられていなかった。
なかはベッドルーム。
誰もいない。が、シーツには少し前まで使われていた痕跡がある。
顕醒がイルマを見る。疑っているのではなく、分析しろと言っているのだろう。
イルマは蛍の靴下を取り出し、あらためてその香りを吸い込んだ。
つぎにシーツを剥ぎ取って、鼻に当てる。
「……匂いが変わった」
鼻のなかで混ざった香りを吟味し、結論を出した。
「彼女の匂いか?」
「うん。こっちだ」
シーツの一部を引き裂いて手のなかに丸め、来た道を戻るように廊下を進んだ。
エレベーターに乗り、地下階のボタンを押す。筺の中のカメラはすでに沈黙している。
「蟲に感染したものは妖種になるって聞いたけど、これはそんなもんじゃない」
「どういうことだ?」
「匂いが変わること自体は珍しくない。妖種に寄生されたり、霊に取り憑かれたり、たんに病にかかるだけでも、ヒトの匂いは簡単に変わる。きみたちは、寄生した蟲が体内で増殖して、宿主を乗っ取るんだと認識していた。ボクもそうだと思っていた」
タン、タン、タン──苛立ちが、イルマの足にリズムをとらせる。
「感染者はヒトのままだ。ヒトのまま、姿形を変えている」
チンッ。筺が地下につき、扉が開く。
女と銃口が、二人を出迎えた。
「ッ⁈」
ダンッ──銃撃と同時に、顕醒が踏み込んだ。
手刀で弾丸をはじき、返す刀で女の手首を斬り落とす。さらに腹へと掌底を叩き込んで、十数メートル彼方へと押し飛ばした。
その間に、二人はエレベーターから脱出したが────
「が──ぁあッ⁈」
イルマが顔を押さえて仰け反り、膝を突いた。
斬られたはずの女の手が、その美貌の中央に突き刺さっていた。
即座に、顕醒がその手を引き抜く。
貫手を作った指は先端で融合して、槍穂のように尖っていた。ひとりでに宙を飛んで、イルマに襲いかかったというのか。
顕醒が気で包んで灼くと、それはパズルのようにバラバラになって、正体を現した。
無数の、小さな蟲の集合体──そのなかに、人間界で知られている種は一匹もいない。
「面白い方を連れておいでですわね。藐都……ですか」
襲撃者の女が立ち上がった。
その顔に、顕醒とイルマは見覚えがある。
チャクラメイトのナンバーツー、神室詠利賀。
「おまぇ、かッむ……ッ」
イルマはその名を言い切れない。血は早くも止まっているが、綺麗な鼻があった場所は、ただの孔と化している。
「喋るな」
震える肩に、顕醒が手を置いた。
それだけで、イルマは立ち上がれなくなる。
「離せ……! こ……してや……! ボクの貌を……ッ!」
息を荒らげ、神室を睨みつける。種族の名に表されるほどの誇りが損なわれたのだから、その怒りは当然である。
「お捜しのものは見つかりまして?」
ゆっくりと、神室が歩み寄ってくる。
「ひとりは見つかった」
顕醒の眼が、女を射抜くように見据える。
「天風鳴夜」
にこり……神室は天使のような笑みを浮かべた。
「コイツが……ッ⁈」
憎悪に歪んで震えていたイルマの眼が、今度は驚愕で円くなる。
妖種達のあいだでも、天風鳴夜の名は知れ渡っていた。およそ半年前に起こった事件の首謀者として、人妖双方からお尋ね者となっているのだ。
だが誰ひとり、その存在を知るものはなく、山野の奥、海の底をさらうほどの広域捜査を行っても消息は掴めず、あげくには衆のでっち上げという意見も出たほどだ。
実際、いま相対している天風鳴夜は、話に聞いていたものとはあきらかに容姿が違う。
「お久しぶりですね、顕醒」
二人から五メートルほどの場所で、神室は足を止める。
「お連れ様のほうは……初めまして」
そして、うやうやしくお辞儀をした。
イルマは焦った。鼻が潰されたせいで、匂いで敵を探ることも、判別することもできない。
藐都にとって嗅覚を失うのは、ヒトが視覚を失うのに近い。
いや……そもそも、あの女は、匂いを発していただろうか? 妖種であれヒトであれ、扉のすぐ裏側にいたのなら、自分には分かるはずだ。
「ここへ攫ってきた人達はどこへやった」
顕醒が神室に問うた。
「これは人聞きの悪い。当方では入会も入場も、希望者以外はお断りしていますよ」
神室は飄々とした態度で、顕醒の問いを煙に巻く。
「今度の目的は?」
少し間があった。
「……ある女性が、子供を産みたがってるんですよ。それを叶えてあげたいんです」
「誰だ」
「守秘義務に反しますので、依頼者のお名前までは」
フッと、その場の空気が変わった。
顕醒が仕掛ける気だと、イルマは悟った。
「試してみますか、今回も──⁈」
すると、鳴夜の足下から、霧が噴き上がった。
「これは……あッ⁈」
硫酸を浴びたように、鳴夜の全身が爛れはじめた。蟲に分裂しても霧の壁を抜け出ることは出来ず、次から次へと燃え尽きてゆく。
顕醒の練気で作られた、光の霧だった。
神室詠利賀の姿が蝕まれ、崩れてゆく。
ぼろり……両脚がバラバラに壊れた。
床に転げて悶え苦しむ神室。
その姿を、顕醒は冷たい眼で見下ろす。
「──ッ」
ふと、腕をひと振りして、霧を体内に吸収した。
「顕醒ッ?」
問い詰めるようなイルマの声を無視して、顕醒は神室のそばに膝を突いた。
ボロボロになった顔の表面を、ゆっくりと撫でる。
「仕留めたのかい?」
イルマも背中越しに、怨敵の死顔を覗き込む。
そして、息を呑んだ。
「どういう……?」
殻が剥がれるように、神室の下から、別の女が現れていた。
「替え玉か」
彼女のことを、顕醒は書面で見知っていた。衆に雇われて本部を監視していた、フリーランスの片割れだ。
両手足は根元から切断されていた。頭は丸刈りにされ、胴体は皮を剥がれ、肉を削がれ、骨を歪められていた──神室の体型に合わせるためだろう。
「お願い……ころし、て……」
そのような状態で、なおも彼女には息があった。
Side Syuri
朱璃は便器に突っ伏し、真っ赤に目を腫らして、嗚咽を漏らした。昼に食べたものをすべて戻したところだ。
震えが止まらない。今しがた目にしたものが、何度もフラッシュバックする。
顕醒に捕らえられた金花夫妻は、白浪と同じく隔離施設に運び込まれた──このことは、翔には伝えられていない。
零子が検視に向かうというので同行を願い出たのだが、これが惨事のもとだった
昨日の今日とはいえ、アレで少しは慣れたはず──自信と覚悟を持って臨んだものの、妻の方を目にした瞬間、己の見立ての甘さを悔やんだ。
イソギンチャクが何本も絡まったような手足と、双頭である。
安全のため、窓越しの見学ではあったが、それを目の当たりにしたショックは、白浪のときの非ではなかった。
だが、それすらも序の口でしかなかった。
彼女は妊娠していた。
それ自体は、運ばれてくる最中に判明していたのだが、問題は下腹部の膨張が眼に見えて早いことだった。
医療班の判断で帝王切開が行われた結果、それは姿を現した。
ヘソの緒だけではない、全身から伸びる何本もの管によって母親と繋がった胎児だった。
その瞬間、朱璃の忍耐は限界を迎えた。
支部長の許可も得ずにトイレへと走り、今に至る。
(ひどい……ひどい! どうして、子供まであんな目に合わなきゃいけないの⁈)
見るんじゃなかったという後悔と、目を背けてはならないという使命感。その軋轢が、哀しみと怒りの火花を散らしていた。
「朱璃ちゃん、落ち着いた?」
扉の外から維の声がする。彼女も検視に同行していたのだ。
涙と、喉に残る酸味を堪えながら、朱璃は個室から出た。
「すみません大丈夫です。維さん、どうぞ」
このフロアのトイレは男女ひとつずつしかない。いつまでも吐き気で占拠するワケにはいかないのだ。
「うにゃ、アタシはあんたの様子見に来ただけ。検視もひととおり終わったしね」
もう終わったのか。いったい何分間便器を抱え込んでいたのだ。
「すみません、本当に……情けないですよね」
悔しくてまた涙が出てくる。
「みんな最初はそんなもんよ。気にしない気にしない」
結局、維に連れられて、地下から這い出るように事務所へと戻った。
「ああ維さん、お帰りなさい。いま、お呼びしようとしてたところです」
零子がデスクの受話器を戻した。応接セットのソファには凰鵡もいる。
「なんかあったんです?」
「ええ。朱璃さん、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫、です」
「つらいなら、医務室で休んでいいんですよ?」
「いえ……なら、ここで。大事な話なら、聞いておきたいです」
顔色が悪い自覚はある。意地が通らないのも思い知った。
それでも、変化し続けるこの状況に、喰らいついていきたかった。
「分かりました。でも、あまり酷くなるようなら、医務室で診てもらってくださいね」
ラストチャンスだと思った。なんとしても汚名を返上しなければ。
「……はい。ありがとうございます」
四人でテーブルを囲む。
「あれ? 凰鵡。紫藤さんは?」
「翔と一緒にいます。零子さんが、ボクのほうがいいって」
翔の警護役に関しては、紫藤がリーダーだ。重要な話であれば本来、彼のほうが呼ばれるべきだと、朱璃も思うのだが。
「今は、導星さんのほうが翔くんを落ち着かせられると思いまして。それに凰鵡くんには、なるべく直にお伝えしたかったので」
「ボクに……?」
「はい。さきほど、顕醒さんから報告が入りました」
零子の言葉で、全員に緊張が走った。
朱璃もまた、目が醒めたように居を正した。
「結論から申し上げます。チャクラメイトの神室詠利賀は、天風鳴夜です」
凰鵡、維、朱璃──三人の時が止まった。
そこに、さらなる事実が追い撃ちをかけた。
「チャクラメイトの……いえ、天風鳴夜の今回の目的は、依頼人に子供を産ませること。その過程で、胎児を用いた呪術を行っているものと思われます」
胎児を用いた呪術──その言葉に、朱璃は打ちのめされる。
赤ん坊を道具にしているというのか。
先刻見た、管だらけの子供……まるでSF映画の、培養器で生み出された人造人間。
ありえない。そんなこと、あってはいけない。
自分の身体を強く抱きしめる。震えが止まらない。涙が溢れてくる。
(許せない……許せない許せない許せない!)
天風鳴夜──自分がここに存在する元凶をつくった妖種のことを、心底から憎んだ。
「朱璃さん」
気が付くと、零子の腕に包まれていた。
「零子さん……すみません、私……」
泣きながら、震える声を絞り出す。
また支部長に、みんなに迷惑を掛けてしまった。
何を見ても、何を聞いても、叫び、怯み、気圧されっぱなしだ。
今でさえ、哀しみと怒り、そして憎しみに押し潰されている。
「それでも、あなたは立ち向かおうとしています。難しくても、そうあろうとしています」
朱璃はハッとして零子を見た。
灰色の眼鏡の向こうから、優しい眼が見つめ返してくる。
「許せないのは、みんな同じです。あなたは間違っていません」
間違っていない……その言葉に、朱璃は心を縛っていた鎖のようなものが解けるのを感じた。
「ここまで来られたんです。もう少し、力を貸してくれますか? 朱璃さんがいないと私、忙しすぎてお茶も飲めませんから」
「……はい」
まだぼんやりするが、朱璃は姿勢を正した。
椅子の上に、自分の重心をしっかりと意識する。
零子が腕を放して微笑む。維が親指を立て、凰鵡も笑顔でうなずいた。
Side Kei
自分が今どうなっているのか、蛍には理性で捉えることが出来なかった。
正気であったなら、とうてい耐えられなかっただろう。
イベントホールのような広い部屋。不自然にせり出した壁に、蛍は埋められていた。
それこそ産婦人科用の検査台のように、股を開いた姿勢で固定されている。
蛍だけではなかった。何人もの女達が、ホールを埋めるように並べられている。壁だけでなく、床も不気味に隆起して、彼女達をさらしものにしていた。
腹に宿ったものは、ある程度の大きさになると男達によって即座に引き抜かれ、真上から伸びてきた長い手に奪い去られた。
吹き抜けになった天井は闇に包まれていて、手の根元は杳として知れない。
また、腹から引き出されたものが闇に消えた。
数秒後、一滴の雫が、蛍の腹に落ちた。
その雫の色は赤かったが、それが何なのかすら、今の蛍にはどうでもよくなっていた。