闐の節・増殖 其之壱『苗床は潤い』
まえがき
のどかなのか悲惨なのか。
どんどんエラいことになっていきます。
闐の節 増殖
苗床は潤い
Side Kensei
カチリ──金花家の玄関の鍵が解かれた。
顕醒は堂々と扉を開け、土足で上がりこんだ。
合鍵など持っていない。鍵穴に気を注ぎ込んでこじ開ける、反則ピッキングだ。エントランスの居住者用ロックも、これで突破してきた。
手前の部屋が開いて、男が廊下に出て来た。全裸だった。顔も体も、高校生の子供を持つ親とは思えぬほどに、若々しく引き締まっている。
「なんだあんた! 人の家に勝手に!」
「金花蛍はどこだ?」
「知らん! おい母さん、警察に電話を──」
男は言葉を途切れさせ、床に崩れ落ちた。
顕醒の放った気弾に額を撃たれたのだ。息はある。
「あなたァァァアアア」
後を追って女が出てきた。
その叫び声が、異様な音色に変わる。
腕と脚が大きく膨れ上がって、破裂した。人間の皮が破れて、イソギンチャクが絡み合ったような四肢が現れる。
喉元からも同じものが皮膚を突き破って生えた。もとの頭が残ってるおかげで双頭になっている。胴体だけがヒトの女のままだ。
侵入者がただの強盗なら、発狂しただろう。
だが相手が悪すぎた。眉ひとつ動かさない。
「出テいきなサイヨオオオ──ぐぷッ」
侵入者に襲いかかろうとした直後、女は夫のうえに倒れていた。
顕醒は動かなくなった夫妻を跨いで、彼らが出てきた部屋の、その隣室へと向かう。
『KEI』のネームプレートを確認し、扉を開けた。
Side Kei
ベッドの上で、蛍は快楽の残響を腹に感じていた。
ガチャリと戸が開いて、また男がひとり、入ってきた。
折りたたまれた衣服が、シーツの上に放り投げられた。
これを着ろ、ということだと蛍は理解した。
そして、どこか別の場所に行くのだということも…………
Side ???
腰のホルスターに手をやり、銃がちゃんと納まっているのを確信して、男は気持ちを落ち着かせた。
電気の通っていない廊下は暗く、昼だというのに懐中電灯なしにはほとんど何も見えない。自分の足音は幾重にも響いて、他者の存在を錯覚させる。
院州町観光ホテル──かつてそう呼ばれていた建物に、往年の盛りは今や面影もなく、たび重なる年月と、侵入者達によって刻みつけられてゆく荒廃という名の疵の深さには限りがないかのように見える。
見捨てられ、建築物としての恥をさらし続けるこの廃屋の行方を憂う者など、もはや郷里のなかにさえいない。それでも「不審者有り」との通報を受ければ確かめに入らねばならぬのが彼の(院州町駐在所に勤める警官としての)仕事だ。
地元の不良の肝試しや廃屋マニアであればまだいいが、もし犯罪者の隠れ家や、マフィアの取引先にでも使われていれば厄介だ。
先月にも、警視庁の刑事達がやってきて、この廃ホテルを調べていった。ここ院州町はチャクラメイトの創設者三田衣代の出生地で、その当人は現在、所在不明なのだという。地元に潜伏している可能性を考えての調査だったが、成果は上がらなかった。
ふと、違和感を覚えて、男は立ち止まった。
いつの間にか、空気の埃っぽさが薄らいでいる。それどころか空調が効いているような清々しさすら感じる。
自分の足音にも、砂利やガラス片を踏む音が混じらなくなっていた。懐中電灯で足下を照らし、息を呑んだ。
カーペットが新しいものに張り替えられているではないか。
区画の一部が手入れされている──つまり、ここを利用している者がいる。念の入りようと規模からして、組織的なものの可能性は大きい。
本署に応援を入れねば。
来た道を戻ろうと振り向く。
そこに、女がいた。
ギョッとして半開きになった男の口を、艶やかな唇が塞いだ。
ずるり……女から男へと、何かが入り込む。
「あ……あ、ぐ……」
男は白目を剥き、体を震わせて、その場に膝を突いた。
やがて、首がガックリと力を失った。
「ほほ、危ないあぶない」
神室詠利賀はわざとらしく額を拭った。汗など湧いていない。
「神子の産まれる小屋は、粗末であっても安らかであらねば。そうでしょう、三田さん?」
独り言のように問いながら、神室は警官の頭上に手をかざした。
指を動かすと、見えない糸に操られるように、男は立ち上がった。
「安心してください。たとえヘロデ王の軍隊が来ようと、私が守ってみせますよ」
そう言ったのは神室ではなく、警官だった。
オオン……どこかで、風のうねるような音がした。
Side Shitou
事務室のなかには、濃密な香気が漂っていた。
「じゃぁ」
と、ソファに座ったイルマが切り出す。覆面は外している。遮るもののないその声だけでも、常人は発情してしまう。
藐都というのは、五体のすべてがヒトを籠絡するためにあるような妖種だ。ただ容姿が美しいだけでなく、所作、声、体臭、それらひとつひとつが、相手の心を調伏するための魔力を帯びている。
「あの蟲はオスとメスが呼び合って、フェロモンとはまた違う形で、宿主同士をその気にさせるってこと?」
翔達がこの場にいたら、この色妖の虜になっていたかもしれない。遠距離から素顔を見ただけで、揃って魅了状態に陥ってしまったほどだ。今は医務室に並べられている。
あれはいわゆる面通しで、仕方の無いことだった。自分が気をつけていれば、と紫藤は自分を責める。
とはいえ、朱璃はともかく、凰鵡は仮にも翔の警護担当なのだから、早めに復活してもらいたいところだ。
「ラボの調査結果によれば、そうなりますね」
零子がノートPCを皆に向けながら応えた。画面には例の蟲の拡大図と、グラフや数値が映し出されている。
「白浪氏より摘出された蟲からは、ある種の精神波のようなものが、絶えず発信されているのが分かりました。これが異性の感染者を引き寄せ、同時に宿主の脳にも影響を及ぼして、限定的に機能を破壊すると思われます」
「限定的に破壊?」
維が訊ねた。
「白浪氏の症状を見る限りですが、具体的には理性の鈍麻、記憶や感情の欠落です」
「性欲に支配されちゃうんだ。うえッ」
維が舌を出して、あからさまに嫌そうな顔をする。
紫藤自身、白浪とは何度か会ったことがある。維からの評価は違うようだが、紫藤には快活な男に見えた。自意識の強さも、独立心が旺盛な人間には珍しくない。
それが、維に対する病的なまでの執着と、顕醒への嫉妬に染まっていたと聞いたときには、にわかには信じられなかった。
白浪が半年前からチャクラメイトに所属していた事実は、大鳥が密かに入手した会員名簿で明らかになっていた。
そして大鳥は失踪し、直後に白浪もこちらの手に落ちた。
はたして、このタイミングの良さは偶然だろうか。だが、向こうの誰かが、白浪をこちらに捕らえさせたとして、何のために?
分からないと言えば、チャクラメイト本部の監視を要請していたフリーランスが二人、定期連絡を絶っている。「所詮フリー」などと揶揄されるような業界ではない。何かトラブルがあった可能性が高い。そのことは零子も憂慮しているが、現時点では捜索に向かわせる余裕がないのも事実だ。
「女性に寄生した場合は、卵巣にも影響を与えるのかな。女性の性欲は、そこの状態に左右されるところが大きいから」
「今朝ンなって、よーやくムラムラが治まったんだけど、蟲の力が消えたってことかしら? もうアタシの禁欲解禁?」
「維さん」「維くん」
零子と紫藤の短い諫言が一致する。目を合わせ、互いに気まずい表情になる。
「どうかな。白浪って人、タマちゃん喪くしちゃったんだよね? 無傷なオス宿主と接触してもきみに異常が出ないか、確認してからの方がいいと思うけど」
「ええー。そもそもホントに感染すんの? 男と女で、寄生してるのは別のやつなんでしょ?」
「宿主の性別に応じて形態を変える種かも。なんにせよ、女の宿主を確保しないと」
イルマの言いように、紫藤は不快感を覚える。言っていることは間違っていない。昨夜、顕醒が追跡車を阻止したついでに数名の感染者を捕縛したが、いずれも男性だった。
とはいえ、感染したヒトを実験材料に見ているような冷然さ。協力者とはいえ、結局は妖種ということなのか。
「あんたなら、白浪の蟲をそのへんの人に植え付けかねないわね」
「維さん」
零子が嗜めるも、場の空気がビンッと張り詰める。
「……悪い冗談だね、それは」
数秒の沈黙があって、イルマは応えた。
「あら、興味をそそられて、ここにいるんじゃなかったっけ?」
「研究対象としては申し分ない。けれど楽しいとは思ってないよ」
「ていうと?」
維の問いに、イルマはわずかに眉を上げ、サディスティックな笑みをよぎらせる。
「こいつらを滅ぼしたい」
理解できない話ではない。
「さしずめ、色魔同士の縄張り争い勃発ってとこかしら?」
維も皮肉めいた笑みを返す。が、眼から殺気は消えていない。この色妖に対しては、かなり物思うところがあるらしい。
二人の確執については、衆内でも公然の秘密になっている。身も蓋もない言い方をすると〝痴情のもつれ〟なのだが、維が顕醒に出逢ったのは、それに決着がついたあとのこと。恋人を傷つけた相手を恨む気持ちは分かるが、いまは私情で言い争っている場合ではない。
だが、こういう場合、いつもなら仲裁に入るはずの零子が静観している。なにか思惑があるのだろう。であれば、自分も下手に口出しはしないほうがいい。
「そう捉えていい。美学の行き違いだね」
美学──色妖が口にするには、どこか不釣り合いな言葉だ。
連中は基本的に、標的と性交、あるいは篭絡するためなら手段を選ばないし、〝した〟という結果こそを誇りにする。
「色魔が美学ね」
「この蟲は一種のドラッグだよ。センスや努力を無視した、醜さの極みだ」
だが、このイルマという妖種は、その手段や過程に強いこだわりを持つ。これが、藐都が最上級の色妖と呼ばれる由縁なのだろうか。
「昔のあんたみたいに?」
維がイルマを指差して問う。今すぐにでも、その指で相手の眉間を貫きそうだ。
「そうだね。だからこそ腹が立つってこと、ヒトにも、あるんじゃない?」
「……そうね」
維が指と殺気を引っ込めた。
紫藤は胸を撫で下ろす。鉄のイノシシとも揶揄されるこの女が暴れでもしたら、自分には止める力がない。
零子を見ると「大丈夫だったでしょ」とでも言いたげな表情をしている。互いの本心を出させるのが目的だったか。
「無礼言ったわね。悪かったわ」
「いいさ。口が悪いのは、きみのキャラだろ?」
ムッ、と維が目を吊り上げるが、本気で怒ったわけではないらしい。
「それに、きみの言うとおり、いち研究者としては、最終手段のひとつとして人体実験も考えてはいるさ。けど、顕醒が関係者を捜しに行ってるんだろ? ボクがやらなくても、サンプルのひとりやふたり、お土産してくれるんじゃないかな」
イルマがそう言い終えたとき、零子のスマートフォンが机の上で単調な電子音を奏でた。
「お疲れ様です。状況はいかがでしょう?」
応答する零子の声に緊張が籠もる。
受話口から漏れてくる声で、相手は顕醒だと分かる。
「はい……そうですか。分かりました。すぐに手配します。イルマさん? ええ、いらっしゃいます」
呼ばれた当人が「ボク?」と目を円くして自分を指差す。
顕醒がイルマに何の用だろう。零子の声音からして、いい報告ではないらしいが、通話の詳細までは聞こえてこない。
「イルマさん。早々ですみませんが、回収チームを顕醒さんのもとへ派遣しますので、それに同行を。現地で彼の捜査に合流してください」
Side Shou
医務室のベッドに座り込み、翔は背を丸めていた。
頭のなかは、まだ蛍のことが大半を占めているが、ときおりイルマの姿が割り込んできて翔をぼんやりさせる。
魅了状態は、なかば解けつつあった。が、隣のベッドでは、まだ凰鵡と朱璃が放心したまま横になっている。
医務室を預かる〝タヌキ先生〟によって、軽い催眠術もかけられているらしい。そうしないと、イルマのもとへすっ飛んでいきかねないのだとか。
藐都は雄性の色魔らしいが、同性の自分まで墜とすとは恐ろしい限りだ。
翔だけが早々に支配から脱せたのは、同性というだけでなく、誰かへの強い想いが抵抗力になったからだそうだ。
だとしたら、自分が想っているのは蛍だ。
が、本当にそうだろうかとも感じる。
蛍のことは好きだ。だが、それが恋人としてなのか……ここ一日で、それが少し、分からなくなってきている。
隣のベッドを見た。
凰鵡はとろんとした眼で、医務室の天井を見つめていた。真っ白い天板のキャンバスにイルマの姿でも思い描いているのだろうか。口は半開きで、頬は赤らみっぱなしだ。
数分前まで自分も同じだったと分かっていながら、翔はその姿に苛立ちを感じる。
自分を守ると言っておきながらの、この体たらくめ……という怒りではない。
しかし、だとしたら何なのか。
そもそも、昨日出逢ったばかりの凰鵡のことが、なぜこうまで気になるのか。
「さぁて、できた。これを使ってみようか」
タヌキ先生がフラスコを持ってやって来た。なかに揺れる液体の色は、明るい緑。とても怪しい雰囲気だ。
「それ、なんですか?」
「一種の起付け薬だね。ノーズミントって知ってる?」
「あの、鼻から吸うやつ? お土産で貰ったことあります」
「そうそう。それと似たようなモノだよ。魔除けや覚醒作用のある薬草にハーブ類をブレンドしてる。まずはきみから、ダメ押しでいっとこうか」
フラスコが鼻に近づいてくる。
「かはッ⁈」
翔は思わず首を仰け反らせた。知っているノーズミントの何十倍も強烈だ。メンソールの塊に、鼻から脳天を貫かれた気分だ。眼球が裏側まで冷えて、涙が噴き出てくる。
だが、顔じゅうが刺激まみれの一方で、意識は冴え冴えとしてきた。イルマの顔を思い浮かべても、心が乱されたりはしない(凄い美青年だという評価は変わらないが)。
「ひぅ──いぃぃ⁈」
「は⁈ はぁひ……くッ!」
凰鵡と朱璃も、それぞれに酷い反応を示して跳ね起きた。
「二人ともおかえり」
「ァ……先生ッ、これなんでず……⁈」
咳き込みながら凰鵡が訊ね、先生はもう一度フラスコの中身を説明した。
「みんな、いきなり藐都なんか見ちゃったから、これでたいがいの色妖には動じなくなるだろうね。耐性がついて」
笑いながら、タヌキ先生はフラスコに栓をして、医務室の奥に引っ込んだ。
これが支部のなかで本当によかった、と翔は安堵する。
色妖も様々らしいが、イルマのようなタイプはこうして獲物を籠絡して手篭めにし、霊力を搾り取ったり、子を産ませたりするのだとか。
「翔くん、自分で魅了解いたの? 凄いね。私なんか顔を思い出すたびに、まだクラクラする」
「へぇ、朱璃ちゃんって面食いなんだな」
「勘弁してよ。相手悪すぎて、こっちが食べられちゃう」
二人でクスクスと笑い合う。
ひとり、面食いという言葉が分からないのか、凰鵡だけがキョトンとしていた。
「それにしたって、先生の薬嗅いだときの二人の反応。動画撮っときゃよかった」
「いや。いやだよ、やめて」
凰鵡も朱璃もぶんぶんと首を振る。
蛍の身を案じるさなかにも、こうして冗談を言って、気を紛らわせられる──そういう人がそばにいることを、翔は幸運だと思う。凰鵡と朱璃がいなければ、とてもではないが、こんな状況に耐えられはしない。
だが、ささやかな平穏は、さらなる不穏によって、またたく間に掻き乱された。
「失礼」
ノックをして、紫藤が医務室に入ってきた。
「先生、翔はどうですか?」
「おじさん、オレらなら元気よ」
「魅了が解けたのか、よかった」
翔が手を上げると、嬉しそうにベッドのそばまでやってきた。
「みんな、すまない。私が気付くのが遅れたばかりに」
「いいっていいって。これで耐性が付いたって先生も言ってたし、むしろいい経験になったンじゃね?」
三人を代表して、翔が叔父の謝罪を受け流す。あとの二人もうんうんと笑顔でうなずいた。
「それよか、おじさん。何かオレに用?」
ふと冷静になった翔の表情が、叔父同様に強張ってゆく。
「まさか……」
「翔、どうか落ち着いて聞いてくれ」
さっきまで翔の心に流れていた穏やかな波音が、不気味な凪に変わる。それは、医務室の空気も同じだった。
金花蛍は行方不明──顕醒からの報告を紫藤が伝えたとき、朱璃は息を呑み、凰鵡は唇を噛んだ。先生も小さく唸って「どうしたものか」と言いたげに、額に手を当てた。
ただ翔だけが何の反応も見せず、うつむいたままだった。
「彼女のことは顕醒が追ってくれる。藐都も協力してくれることになった。あの二人なら、必ず見つけてくれる。翔、気を落とさないでくれ」
「ああ」
励ましてくれる叔父への生返事は、自分でも驚くほど冷たかった。