腫の章・具現 其之参『焦燥は募り』
まえがき
起承転結の承の部分の終わりです。
焦燥は募り
Side Ormu
「《チャクラメイト》のはじまりは二年前。当初は創設者の三田氏と、助手の神室氏の二人だけで運営される、小さな組織でした」
向かいのソファに座った零子が、翔に向けて状況を説明していた。
事務所の応接間。凰鵡には見慣れた光景だ。
もっとも、最近は正面に朱璃がいることも増え、気恥ずかしくて目のやりどころに困ることもある。
「ですが昨今、規模が大きくなるにつれて、いくつかの怪しい点が見られるようになり、警視庁公安部の監視対象となっていました」
凰鵡はそっと、隣に座った翔の顔を覗う。
(……大丈夫?)
心のなかで問う。
翔は落ち着かない様子だ。呼吸が早い。視線はテーブルに落ちていながら、何も見ていないようだ。
昨夜は、父親や妖種の話を聞かされても冷静だった。ついさっきも、自分や維と一緒に食堂で和やかに朝食を摂ったというのに。
「ひとつには、創設者の三田衣代氏の所在が、半年ほど前から確認できなくなっていることです。外部に姿を見せることはなく、メールへの応答や、会誌への寄稿は本人の名義で行われているものの、本人という確証は得られていません」
零子の話にも、どこか上の空の様子だ。
あらためて父親の状況を聞かされて、心配になったのだろうか。
「公安の粘り強い調査の結果、ある一定のグレード以上の会員に、意識操作を施された痕跡が認められました。また、その中心にいたのは三田会長ではなく、助手であり、会のセラピストチーフである神室詠利賀であることも判明しました」
「洗脳ってことですか?」
翔が訊ねた。
聴いていないわけではないらしい。
が、かろうじてこの部屋に、心を繋ぎ止めているようにも見える。
「はい──それも、人智を超えた力で。信じられないかもしれませんが、超能力や魔力で人を操っていた犯罪者や組織には、いくつもの前例があります。今回、警視庁は〝神室が何らかの超常的能力によって、チャクラメイトという組織を三田から簒奪した〟と仮定して、我々に調査を依頼して来られました」
自分のように、目のやり場に困っている? それとも、トイレに行きたい?
(それはないか……)
ふたつとも否定する。
「無論、我々にはそうした超常的な洗脳に対処するノウハウがあります。そのうえで、経験と実績を考慮して、私が拓馬さんに潜入捜査をお願いしました。ですが、このようなことになってしまい、本当に申し訳ありません」
零子が深々と頭を下げた。
「支部長のせいではありません」
紫藤が反論した。
「翔……零子さんは止めたんだが、拓馬が志願したんだ。いつだって無茶をやるやつで、一度や二度のことじゃない」
「それでも、最終的に判断を下したのは私です」
いつの間にか、責任の奪い合いになっている。渦中の翔は煩わしそうに瞼を閉じ、拳を額にあてている。
「あの、すみません」
凰鵡は手を上げた。
「はい、凰鵡くん。どうなさいました?」
「ボクというより……翔、大丈夫? 落ち着かないみたいだけど?」
翔がハッとして凰鵡を見て、溜め息を吐いた──それが安堵から出たものだと、表情で判った。
どうやら助け船になったらしい。なにか、心に思うところがあったのだろう。
「いや……でも、オレのことじゃないし…………」
なおも逡巡する。
皆が首を捻るなか、凰鵡はあることを思い出した。
「昨日言ってた、彼女さん? まだ連絡無いの?」
そういえば食事中にもたびたびスマートフォンを確認して、眉根を顰めていた。
「……ああ」
応答の歯切れが悪い。
「翔くん、あなた──!」
唐突に、朱璃が立ち上がって声を上げた。
「今は、大事な話の途中なんだよ⁈ お父さんより、彼女のほうが大事なの⁈」
「朱璃さん!」
零子が静止しようとする。
が、朱璃の勢いは止まらない。
「お父さんのこと心配じゃないの⁈ きみ自身だって狙われたんだよ! それなのに彼女彼女って──」
「──ッ‼」
翔が立ち上がり、朱璃を睨みつける。
だが、そのまま口も手も出さぬまま、数秒が経つ。
凰鵡はただうろたえ、視線をさまよわせるしかない。
翔も朱璃も、自分にとっては大切な友達だ。その友達同士が睨み合っている現実は、まるで目覚めたあとの、実感のない悪夢のようだった。
「……いや、オレはいいんだ」
苦虫を噛み潰したような表情で、翔が目を逸らす。
「おじさん、オレのスマホは使えないんだよな? どうやったら使える? せめて、あいつが学校に来てるかどうかだけでも知りてぇ」
「翔どうした? まずは落ち着くんだ」
父親を捨て置くかのように、恋人に固執する翔。その慌てようの裏に特別な理由があると、何人が察しただろう。
少なくとも朱璃はそうでなかったらしい。
「バカらし。どうせスマホ壊れたとかでしょ。それか無神経なこと言って嫌われ──」
「金花の親は、そのチャクラメイトに入ってんだ!」
凰鵡の背筋が一気に冷え、部屋の空気が変わる。誰もが目を見開いて固まっていた。
そういえば……と、凰鵡は今さらながら思い至る。翔の顔色が変わったのはチャクラメイトの名を聞いてからだ。なぜ、もっと早く気付かなかったのだ。
「本人がそう言ってた。嫌な予感がずっとしてて……無事だったらいいんだ。嫌われてても、オレがバカでも、あいつが無事だったら、それで……」
指を頭に押しつけ、今にも搔きむしらんばかりに、苦しげに、翔は言葉を吐き出す。
また、頭痛がするのだろうか。
「スマホが使えたら、クラスメートに連絡して彼女さんの状況を確かめられますか?」
零子がソファを発って事務デスクに向かう。
「今は授業の合間だし、オレらのことを知ってる奴に送れば、なんとか」
「分かりました。これをスマホに挿してください。翔くんからでも、送信ができるようになります」
戻ってきた零子が、小型のモデムを差し出す。
翔はそれを受け取って自分の端末に接続した。目付きを変えて文字を打つ。送信すると、端末の角を額に当て、祈るように目を瞑る。
(……ッ)
胸から込み上げる何かを止めるように、凰鵡は唇を噛む。
不安と、嫌な予感。
それだけではない。翔を真剣にさせる、金花という人への嫉みもある。
すぐに、翔のスマートフォンが返信を告げた。
「クッソォッ!」
父親を彷彿とさせる悪態を吐いて、膝に拳を打ち付ける。
それだけで、翔を見守っていた全員が、金花蛍の欠席を察した。
「朱璃さん、すぐに顕醒さんを呼んでください」
「は、はいッ!」
すぐさま零子の指示に従って、朱璃がタブレットで当人を呼び出す。
「翔くん、彼女さんの住所は分かりますか?」
「支部長、翔のクラス名簿です。金花蛍さんの住所はここに」
その情報をどこで手に入れたのか、紫藤が自分の端末を零子に示す。
にわかに慌ただしくなった事務室のなかで、凰鵡はひとり、ことの成り行きを見守るしかなかった。
Side Kei
時間の感覚は、とうに失われていた。
暗く閉ざされた部屋。
その異変は、ふとした瞬間に訪れた。
──自分のなかに、何かがいる。
心ではなく、体のなか……直截に言うなら、腹のなかだ。
(うそ……?)
初めてのこととはいえ、その感覚がなんであるかは、直感で理解できた。
信じられない…………早すぎる。
(私、どうなってるの……?)
──ずっ。
闇のなか、蛍の胎に入り込んだものが、それを掴んで、ひと息に引き抜いた。
蛍の絶叫が部屋を満たした。
痛みによる悲鳴ではなく、歓声だった。
Side Shou
ガラス張りの向こうは、支部の正面玄関と、曇天の街並み。
事務室のそばのラウンジ。窓付けのカウンター席に座って、翔は灰色の景色を眺める。
心はひたすら、蛍の無事を願っていた。
先だって、零子の指令を受けた顕醒が、金花家へと向かった。今はその報告待ちだ。
好きなところで休んでいいと言われて、とりあえず事務室は出たが、宿泊室に帰るのも億劫なため、ここに居すわっている。
隣の席には凰鵡がいて、一緒に外を見ていた。背後のソファでは、紫藤がラックから取った科学雑誌を読んでいる。
二人とも無言だ。こっちの陰鬱に寄り添ってくれていることを、翔は嬉しく思い、同時に申し訳なくも思う。
昨夜の時点で、叔父がチャクラメイトの名を出してくれなかったことを、根に持っていないと言えば嘘になる。が、組織名を知った遺族が報復に向かう場合があると言われれば、伏せられた理由に、納得も出来てしまう。
むしろ、憎らしいのは今朝の自分だ。起きた直後に、零子の話を聞いておけば…………
「翔くん」
テーブルに紙コップが置かれた。ラウンジにある自販機のものだ。職員であれば無料だとか。さっき、翔も叔父にコーヒーをもらったが、飲み干して久しい。
今度のはコーラ。差出人は朱璃だった。
「嫌いだったら、ごめんなさい」
凰鵡の前にも、コーラを置く。
「ありがとう」
翔と凰鵡の声が重なった。笑えるほどではないが、少し気分がよくなった。
「となり、いい?」
翔がうなずくと、朱璃はスツールに腰を下ろす。
「さっきはひどいこと言って、ごめん」
「ああ……いいよ。オレは気にしてない。半分は当たってるし」
朱璃の目が円くなる。
「今でも、まだ親父のことは危機感が薄いんだ。あの親父なら、どうにかなるだろうって、どっか突き放して見てる。あんまし家にいなかったり……こういう世界の人間でしたって知ったのも、あるかも」
「そうなの……」
「金花のことにしたって、知らなきゃ仕方ねぇよ」
翔は深呼吸して、カップのなかのコーラを半分、一気に喉へと流した。
蛍のことで責められたとき、本当は喉元まで出ていた言葉がある。
──お前に何が分かる──
朱璃の讒言は明らかに、自分と蛍の関係を侮辱するものだった。だから翔には、その言葉を口にする資格があったかもしれない。
だが耐えた。
翔は、あの言葉を呪いだと思っている。意思疎通の望みを断ち切って刃を向け、同意を強要する。使っていいのは〝分かり合う価値のないもの〟に対してだけだ。
〝分かり合えるかもしれない相手〟や〝分かって欲しい相手〟には決して使いたくない。
「でも、ありがとうな」
「え?」
朱璃の疑問を、翔は笑ってごまかす。
現金な話だが、気にしてないとはいっても、謝ってくれたことは嬉しかった。本気で謝るのは勇気の要ることだ。その勇気を、朱璃は自分のために使ってくれた。だから、いい人だと感じる。
彼女のことはまだよく分からないが、もっと知ってみたいと思った。
「朱璃さん、そういえば零子さんのお手伝いはもういいの?」
翔越しに凰鵡が訊ねた。
「うん。私も休憩もらった」
「あれ? そういや朱璃さんの親御さんは?」
何気なく、翔も訊ねた。
凰鵡が捨て子で、顕醒に拾われて養育されているという話は、朝食のときに聞いた。
朱璃の方は、零子と一緒に事務室に詰めていたため、ろくに話も出来ていない。
「死んじゃった」
事もなげに朱璃は答えた。その明るさが、かえって翔を申し訳なくさせる。
「ごめん。ヤなこと訊いたな」
「気にしないで。親かどうかもよく分かんなかったし」
かなり事情が深そうだ。だが、いま踏み込んで訊ねる気にはなれない。
ふふ、と朱璃が微笑む。
「これで、おあいこ……えッ」
とつぜん、朱璃が表情を険しくして、窓の外に顔を向けた。
「妖種──!」
凰鵡も弾かれたように朱璃と同じ場所を睨む。
「まじ⁈」
翔は二人の視線を追う。見下ろす先は、正面玄関。
そこから、得体の知れない風体の人物がひとり、堂々と敷地内に入ってきた。
(なにアレ?)
それが翔の素直な感想であり、若者三人組の総意だった。
医者が着るような白衣。その下はフリル付きの派手なシャツと、黒のスラックス。かかとの高いブーツはよく磨かれた革か、エナメルか。
極めつけには、頭からスッポリと覆面を被って顔を隠している。あの悪趣味なファッションで街中を歩いて来たというのか。
(え、妖種ってことは──!)
自分を狙ってきたのか? だが当の侵入者は諸手を上げて、敵意がないことを示している。
「ボク行ってくる! 翔はここにいて!」
「いや、大丈夫だ」
背後に来ていた紫藤が凰鵡を止めた。
「藐都だな。やはり来たか」
「あれ……あの人が……!」
朱璃が声を上げる。
「知ってるの、朱璃さん?」
「うん。維さんから聞いた。妖種のお医者さんだって」
「へぇ、妖種にも色々いるんだな」
「なかでも彼は、ちょっと変わり種だがね」
そうこうしていると、支部の玄関から、ふたりの男女が来訪者を迎えに出て来た。ひとりは警備員、もうひとりは維だ。
互いに足を止めたところで何かしらの話をはじめたのが、わずかな身振りで分かった。
すると、妖種が自分の覆面を掴んだ。
「ッ! ──見るな!」
いきなり紫藤が叫んだ。
遅かった。
「え?」「あ……」「──ッ!」
三人組の眼が仲良く、彼の素顔に釘付けとなった。
藐都──〝すべてにおいて美しい〟という種名の意味を知る前に、翔達はその力を目の当たりにしたのだった。