腫の節・具現 其之壱『欲望は蝕み』
翔宅、脱出します
腫の節 具現
欲望は蝕み
3日目
Side Yui
広い胸板に頭を横たえ、維は顕醒の匂いを吸い込んだ。それだけで芯がうずく。
出逢ったときからこうだったろうか。年々、色香を増している気がする。三〇を過ぎているから、ひょっとしたら加齢臭かも。
だとしたら、歳を取ってもらうのも悪くない。
添い寝くらいなら、と、部屋に押しかけて折り重なってみたが、逆効果だった。
周期はまだのはずなのに、月の直前のように体が飢えている。
(……白浪)
布団から抜け出して、服を着た。
「ごめん。ちょっと、ついてきて」
顕醒が珍しく、怪訝な顔をして体を起こす。それくらい唐突だという自覚は維にもあった。
タンクトップとスウェットパンツの維に対して、顕醒はしっかりと道着を着込んだ。その油断のなさが維には嬉しい。
まず、二人で事務所を訪ねた。
零子はまだ起きていた。朱璃は寝たようだ。よかった、と維は安堵する。
「隔離室に同行してもらって、いいですか?」
「理由をうかがっても?」
さすがに怪しまれる。
「うーん、確証が無いンだけど……」
「私が責任を持ちます」
答えあぐねいていると、顕醒が助け船を出した。
「……わかりました」
これが人望の差かと、維は膨れっ面になる。だが今は甘えておくことにした。
三人で静かな廊下を進む。医療棟へと渡り、階段を降りる。ひと言も喋らなかった。
目的の隔離施設は地下にある。時間が時間なだけに当直の看守も驚いたが、支部長と顕醒がいることで、スンナリ通してくれた。
入口の扉は、維でさえ破るのが難しい。そこを抜ければ、長い廊下に出る。鉄扉と強化ガラスの窓が、等間隔に並んでいる。
そのひと部屋に、白浪は放り込まれていた。ベッドの上で、呼吸器と心電図に繋がれている。昏睡状態が続いているらしい。
「アタシひとりで会うわ。声だけ繋いどいて」
顕醒のスマートフォンと通話を開く。地下だが電波は届くようになっている。
二重扉を通って、室内に入った。
「やっぱり来たな」
途端に、白浪がむくりと起き上がった。
「ええ、来てやったわ」
「言ったろ──お前はオレのものになるって」
繋がっている機器を自分で外し、ベッドから下りた。
「来いよ。そこにいる野郎に見せてやろうぜ」
「あんた、可哀相な男ね」
「あ?」
「こんな遣り方しないと女にありつけないんだ? 玩具になって欲しいンなら、人形でも、抱いてなさいよ、ばーか」
わざとひと言ずつ、区切って、強調する。
白浪が顔を歪める。
維はさらにたたみ掛けた。
「もともとバカだったけど、さらに、ホントつまんない男になっちゃって。その歳で誰に甘やかされて、そんな残念クンになったの? ヨシヨシして欲しいンなら、ママのお腹に帰んな──」
「クソ女がぁぁああ!」
白浪が飛び掛かった。
「うるせぇぇぇえええ‼」
ドンッ──フロア全体を揺るがす、渾身の踏鳴。
維の脚が、入院服の股間を蹴り上げた。
白浪は頭から天井に激突して、ベッドに墜落し、ピクリとも動かなくなった。
蹴られたところから、服とシーツが真っ赤に染まってゆく。
(よっしゃ)
維は心でガッツポーズを決めた。「キンタマ粉々にする」と宣言していたのを、見事に果たしたのだ(ついでに顔のほうも若干つぶした)。
「ゆいさんッ‼」
飛び込んできた零子の怒号が飛ぶ。
「うへッ。コレには事情が……!」
「ええ! 当然、説明していただきます! 顕醒さんも知ってのことですか⁈」
あとから入ってきた顕醒にも、鋭い剣幕で問い糾す。
が、詰問された方は無言でベッドに近づき、白浪の服の裾をめくった。
零子が顔色を変え、スマートフォンを耳にあてた。
「こちら麻霧。緊急です。白浪氏の部屋へ、接触感染対策でお願いします」
支部長の声が響くなか、顕醒は眉をひそめて維を見る。
維も見つめ返して、うなずいた。
半分ミンチになった白浪の股からは、ミミズか蛆に似た、全長二ミリほどの小さな蟲が、何十匹と這いだしていた。
「こいつら、宿主同士を発情させるみたい」
生きていたら、どんな作用があったのか──イルマの問いに対する解答がこれだ。
さっき、わずかではあったが、嫌悪しているはずの白浪を、維は間違いなく求めていた。
「はい、麻霧です」
また零子が端末を耳に当てる。こんどは着信らしい。
「…………わかりました、今すぐ手配します。どうかお気をつけて」
少し不安そうに、通話を切る。
「顕醒さん。導星さんからの応援要請です。彼らに合流し、支部までの移動を支援してください」
Side Shou
──翔──
鸞の声がする。
いつも後ろから出てきて、こっちを驚かせる。小さくて、仔猫みたいに目が円くて、ときどき女みたいに思えて……幼馴染みだっていうのに…………
「翔、起きて」
ベッドの横に凰鵡がいた。
「ん……いま何時?」
寝ぼけ頭で訊ねる。
カーテンの隙間はまだ真っ暗。雨音も止んでいない。
変な夢を見た気がするが、思い出せない。
「一時半。ごめん、今すぐここを出よう」
「でる?」
「家が囲まれてる」
眠気が吹っ飛んだ。
凰鵡の服が、最初の袖なしパーカーに戻っているのに気付いた。臨戦態勢か。
「紫藤さんから聞いたけど、外のカメラ、スマホで見れるんだよね」
「あ? ああ」
玄関に設置された防犯カメラは、スマートフォンにリンクさせることが出来る。
「……ぅ」
アプリケーションを開いた翔は絶句した。
リアルタイムで送られてくる外の風景。雨の深夜とあって視界はよくないが、それらを捉えるのに、カメラは充分な性能を発揮してくれていた。
傘もささずに立ち並ぶ、何人もの男達。しかも、少しずつ別所から合流してきている。
翔は音を立てないようベッドを抜け出し、服を着た。普段から下着で寝ているおかげで、シャツとジーンズを重ねるだけで済む。
「突入してくっかな?」
「分かんないけど、そうなったらお家メチャメチャになっちゃうから、逃げたほうがいいって紫藤さんが」
「確かに。おじさんは?」
うなずきながら、財布とスマートフォンをポケットに突っ込んだ。
「ここだ」
部屋の戸が静かに開かれた。
「応援を要請した」
「それまで、待ちますか?」
「いや、連中に先手を打たれると逃げ場がない。早急に脱出して、逃走しつつ合流したい」
三人で額を合わせるように、部屋の中央に座り込む。
「どうやります?」
「私の車を使いたいが、問題は駐車場まで二ブロックある」
「だからウチの使っていいって、いつも言ってンのに」
几帳面な叔父は「家族でない者が使うのは気が引ける」と言って、一台ぶんしかない家の駐車スペースに駐めるのを拒んでいる。世帯主が急に帰ってきたときに場所がないから、というのも理由らしい。
「今日ぐらいはそれでよかったかもな。よし…………」
それから一分後…………
バッ──翔の部屋の窓が勢いよく開かれた。
「やぁッ!」
凰鵡が飛び出した──しかも、背中に翔をおんぶして。
(マジかよッ⁈)
六〇キロを超える人間ひとりを背負っての、軽々とした跳躍。事前に「大丈夫」と聞いていても、仰天せざるをえない。
凰鵡はそのままアスファルトに着地するや、地面をもうひと蹴りする。
包囲網を跳び越えた──と思った矢先、翔の足に何かが巻き付いた。
「つぅッ!」
空中でバランスを失い、二人は墜落した。凰鵡が下敷きになる──自分からクッションになったのだ。
「凰──のわ⁈」
凰鵡の心配をする暇もなく、翔は足を引っ張られる。
男のひとりの口から伸びた芋虫が、先端の触手を絡めていた。
「翔!」
凰鵡が居合のように腕を振り抜いた。
バンッ──芋虫の根元で、光が弾けた。
「あがっ!」
悲鳴とともに触手がほどける。
「走って!」
翔は言われるままに立ち上がり、走った。
(今、何したんだ──⁈)
不動の絶技、《気弾》については何も聞いていない。
その背を追いながら、凰鵡はパーカーのポケットから金剛杵を出した。
宝剣・倶利伽羅竜王──片端は五鈷杵、もう片端は龍頭という奇妙な金剛杵だ。
二人に追いすがってくる男達の口から、次々に芋虫が吐き出される。
(唵──!)
凰鵡が鈷杵に念を伝えた瞬間、龍頭が顎を開き、光を吐いた。
「ぎゃぁ!」「ああーっ!」「いてぇー!」
光が刃となって蟲を斬り裂いた。
だが、斬られて足を止める者はいても、無傷の者達は依然として追ってくる。
今度は、何人かが突然、四つん這いになった。
バキィッ──その手足が、いびつに折れ曲がる。
「うぇ!」
振り向いた翔と凰鵡は、揃って顔を歪めた。
四本脚で走ってくる連中の関節は、ヒトや獣ではなく、蜘蛛のような曲がり方をしていた。
しかも速い。翔の足では数秒で追いつかれかねない。
「クソッ」
ふたたび凰鵡が腕を振り抜く。
しかし、撃ち出された気弾を、蜘蛛人間は素早い動きで避けた。
「翔、こっち!」
凰鵡が前に出て手を引っ張り、角を曲がった。
道幅二メートル弱の狭い路地──旧市街の時代から区画整備されずに残った道だ。
そのぶん、追ってくる蜘蛛人間達にも、左右に避ける余裕はない。詰め寄せた先頭集団が、渋滞を起こす。
そこに凰鵡は気弾を、連続で撃ち込んだ。
一体の肩と、もう一体の顔に当たる。
「あああああ痛いいいいいい!」
周辺住民が跳ね起きそうな叫び声を上げて、二体は引っくり返り、脚をバタつかせた。
それでも後続は怯まず、仲間を踏み越えて追いかけてくる。
しかも、本物の蜘蛛のように民家の壁を這い始めた。
「く……ッ!」
凰鵡は気弾を諦めた。外せば家を傷つけてしまう。
その間にも、蜘蛛人間達は数と速さにモノを言わせ、後ろと上から、二人を包囲するように迫ってくる。
「ごめん!」
「わっ⁈」
宝剣の光を納め、凰鵡は翔を抱きかかえた。両腕が塞がってしまうが、本人に走らせるより速い。
隘路の終わりは近い。この先は大通りに出る。
その瞬間、行く手の歩道沿いに、一台の車が滑り込んできた。
「おじさん!」
黒のコンパクトミニバン。翔も見慣れている紫藤の愛車だ。凰鵡達が集団の気を引いているあいだに確保していたのだ。
後部座席のスライドドアは、すでに開け放たれている。
「そのまま飛び込め!」
全開にした運転席の窓から紫藤が叫ぶ──輸入車をそのまま使っているため、ハンドルは左側だ。
「翔! 体、丸めて!」
言われるまま、翔は凰鵡の腕のなかで身を縮める。
その刹那、真上から飛び掛かってくる蜘蛛人間達が見えた。
(あぶない──!)
口にしようとした途端、そいつらは殴られたかのように、次々に空中で体勢を崩して、ふたりの背後に墜落した。
さっき見た凰鵡の技とは違う──直感的に叔父の方を見た。
窓から突き出た、消音器付きの拳銃。
それを握る紫藤の手。
嘘だろ──驚くと同時に、翔は凰鵡と一緒にリアシートにダイブしていた。
アクセルが踏み込まれ、車が急発進する。
ドアがスライドするよりも早く、凰鵡が手動で閉めに掛かる。
──が、閉め切るより先に、蜘蛛人間が一体、ドアに取り着いた。
口から出た芋虫が凰鵡の腕を絡め取り、車外へ引きずり出そうとする。
「うわッ!」
「くそッ!」
すかさず、翔が逆の腕を掴んで阻止する。
だが、そのせいで凰鵡は両手を塞がれてしまった。
「翔、離して!」
(ッて言われてもよ──!)
翔が逡巡しているあいだにも、二人は徐々に外へと引っ張られてゆく。ものすごい力だ。
「ふたりとも動くな!」
紫藤が銃を握った左手を窓の外に出し、右手でバックミラーを傾けた。
(おじさん手放し運転──⁈)
この状況での蛮行に仰天する翔。
そして、またも不思議なことが、目の前で起こった。
ミラーに映る叔父の眼。深いブラウンだったその瞳の色が、銀色に輝いた。
バスッ──銃口が火を噴く。
触手が凰鵡から離れ、二人は車内に倒れ込んだ。
バスッ──二発目。蜘蛛人間がドアから剥がれ落ちた。
その隙に、今度こそ凰鵡はドアを閉めた。
(いま、おじさん何を……)
あそこから弾を当てた? そんなはずはない。銃口は明後日の方向を向いていた。魔弾の射手とでもいうのか。
「つ……!」
紫藤が目頭を押さえて呻く。一瞬の街灯に照らされたミラーのなかの瞳は、茶色に戻っている。
「おじさん、その目──」
「あぶない!」
ガァン──後部のガラスが叩き割られた。
「あぐ……ッ!」
破片が車内に飛散するなか、翔をかばった凰鵡の首に、触手が絡みつく。
蜘蛛人間だ──もう一体取りついていたのか。顎が外れたような大口から、今度は一本だけでなく、十本近い芋虫がうじゃうじゃと伸びている。
「凰鵡!」
翔はとっさに触手を掴んで、引き剥がそうとする。だがゴムのように柔らかくて、引きちぎることも出来ない。
凰鵡も手を絡め取られて、身動きが取れない。
悪戦苦闘しているうちに、蜘蛛人間の頭が窓から入ってきた。
「翔、これを!」
叔父の声に振り向いた翔は、目を瞠った。
後ろ手に差し出された、拳銃──しかし、さっき叔父が使っていたものより、ひとまわり小さい。
「オレ、じゅ──づぅッ⁈」
銃なんか使えない、と言おうとした途端、強烈な頭痛が襲ってきた。
取れ、握れ、撃て──痛みの奥で、何かが叫んでいた。
(なん、で……!)
出来る──凰鵡を助けろ。
衝動的に、翔は銃を手にした。
流れるような指使いでセイフティを解除。コックを引いて初弾を装填。左手を添え、迷うことなく引金を絞った。
パンッ──ささやかな銃声が車内に響き、蜘蛛人間の額が破裂した。
凰鵡の体から触手がほどけ、本体と一緒に車外へと消えた。
アスファルトに転がった歪な人影が遠ざかってゆく。もう、動く気配はない。
「…………ッ」
ぞくり。真夏の夜とは思えない寒気が翔を襲った。
撃った──人を──人に化けた妖種だったのだろうが、それでも人の顔をした者を、自分は──凰鵡を助けるためだったとしても──躊躇わずに、撃ったのだ。
(なんで、オレは……⁈)
震える手は、握った拳銃の形と重みを、間違いなく知っていた。
なぜ、出来た?
まるで自分のなかに、平気で人殺しも出来る別の自分がいて、そいつが拳銃を握った途端に現れたかのようだった。
「翔……」
凰鵡の手が、翔の手を包んだ。
硬い。華奢な見た目からは想像もつかない硬さの肌だ。
「翔、ありがとう」
「ああ……」
凰鵡を見返しながら、翔は不思議な気分に浸っていた。覗き込んでくる円い目は、哀しさと申し訳なさを瞳に湛えつつも、恐れを浮かべてはない。
この銃を取るときに感じた、凰鵡を救いたいという強烈な衝動は何だったのだ。
「突然のことですまない」
紫藤が言った。車はいつの間にか、ハイウェイに上がっている。
「目的地に着いたら、ちゃんと説明する。それは、いったん預からせてくれ」
出来るなら今すぐ教えてほしかったが、翔はおとなしく拳銃を返した(丁寧に、セイフティをかけて)。叔父は、約束を守る人だ。
「連中……もう来ねぇのか?」
「いや。車で追ってきている」
翔は弾かれたように背後を見た。
ワゴン車が二台、ついてくる。こちらのスピードは百十キロ。真夜中の雨道で出していい速度ではないと、免許を持ってない翔でも分かるが…………
「考えすぎじゃねぇの?」
不安が見せる幻覚というのもある。
「んーん」
凰鵡が首を振った。
「片方の助手席にいる人、さっき家を囲んでるなかにもいたよ」
あの状況と暗闇で、全員の顔を覚えていたのか。
「マジかよ……どうすんの?」
「問題ない。応援が来た」
「あ、兄さん!」
前に向き直った凰鵡が嬉しそうに叫ぶ。
視線の先を追った翔の目にも、その人影が見えた。
オールバックで革ジャン姿の大男──あろうことか、車線の中央に突っ立っている。
その横を通り過ぎる瞬間、紫藤と大男のあいだで視線が交錯する。
「生身⁈」
「大丈夫、兄さんなら」
紫藤達を見送った場所から一歩も動かず、男は掌を前にかざした。
そこに、追跡車が突っ込んでくる。
ガガァン──天を衝くような轟音を上げて、二台のワゴンは両方ともクラッシュした。
前半分がペシャンコになっている。見えない壁に衝突したかのようだった。
「うそぉ」
翔は唖然とした。
「ね」
凰鵡が自慢げに微笑みかけてくる。
(あれ、お兄さん? 似てねぇ……)
どんな魔法を使ったのかより、まずそこが気になった。
(まぁ、今は……いっか)
脱力して、シートに身を預ける。
雨のなかを走り回って、服も髪もずぶ濡れ、車内は泥だらけだ。
(疲れた。寝たい……)
だが、眼を瞑ってみても、中断された夢は戻ってこない。
額の奥が、鈍く痛む。