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俺の名前は小津シンジ。今日は記念すべき社会人1日目。地下鉄に乗って、職場がある銀座に向かっているところだ。田舎生まれ田舎育ちの自分が、まさか銀座で働くことになるとは。人生何があるか分からない。
俺が映像制作会社から内定をもらったのは、大学4年の2月。ここがダメなら実家に帰って、地元で就活をやり直そうと、半分ダメ元で選考を受けた会社だった。
大学では広告やマスメディアについて広く勉強した。と言っても、通っていた大学は有名な私大でもなければ、日夜熱心に研究に取り組んでいたわけでもない。だからもし、「この4年間で身についた知識は何か」と聞かれても、自信を持って答えられるものは何もなかった。
そんなことを考えていると、電車が最寄駅に着いた。少し遅めの出社時間ということもあって、通勤ラッシュの時間帯からはズレているものの、俺と一緒にスーツ姿の大人たちが一斉に降りた。そして今度は別のスーツ姿の大人たちが電車に乗り込んで行く。あ、ちなみに俺は私服通勤。水色の長袖シャツにチノパンとスニーカー。俺を見て会社員だと思う人はおそらくいない。
地上へ出る細い階段を上りながら、青空が覗く出口が徐々に近づいてくると、さすがに少し緊張してきた。銀座には最終面接で訪れて以来だった。
会社が入っているビルは、駅の出口から10分ほど歩いたところのオフィス街にある。ビルの入口にいる守衛に挨拶をし、通路を進んだ先にあるエレベーターで5Fへ上がる。エレベーターの扉が開き、目の前の壁に書かれた社名が目に飛び込んでくる。エレベーターを降り、一度ここで深呼吸をした。よし。
事務所のドアは解放されていて、入口のすぐ目の前にあるカウンターの中で、女性が何やら作業をしている様子だった。俺はそのカウンターの中にいる女性目掛けて歩きながら、少し背筋を伸ばして、口角に力を入れた。
「おはようございます!」
顔を上げた女性と目が合った。
「あ、おはようございます」
女性は笑顔で立ち上がり、軽く頭を下げた。その女性は事務の中山さんだった。中山さんは、選考に関するメールのやり取りや、内定後の手続きについて色々連絡をくれた人だ。
「今日から入社いたしました、小津です。よろしくお願いします」
俺も頭を下げる。
「中山です。よろしくお願いします。まだこの時間は誰も来てないんだけど、今日は入社初日だから小津君には30分早く出社してもらいました。小津君の席はこっちです」
そう言うと、中山さんは席を案内してくれた。俺も中山さんに続いて中へ入って行く。
パーテーションでいくつかの島に仕切られているフロアには、それぞれの席にモニターやノートパソコン、資料らしき大量のプリント類などが置かれていて、綺麗に整理整頓されている席もあれば、いかにも制作会社といったような乱雑な席もあったりとバラバラだった。座る方向も席によって違っていた。
そんなフロアの中で、俺の席はちょうど入口に背を向けるかたちで座る、言い換えれば入口から丸見えの席だった。
「小津君の席はここです。ある程度の文房具とかは揃えておいたので、自由に使ってください」
そう言われて机の上を見ると、確かにペンやハサミやホチキスといった文房具が入ったペン立てと、ノートパソコン、モニター、ブックスタンドが置かれていた。
「ありがとうございます!」
大したことではないと思うけど、文房具が支給されていることが少し嬉しかった。
「他の人たちはそのうち来るから、とりあえずここに座って待っててください」
「はい、わかりました」
案内を終えた中山さんは、元いたカウンターの席に戻って行った。中山さんの定位置はカウンターらしい。特にロッカーや荷物置きは無いみたいだったので、俺は鞄を足元に置き、椅子に座った。
改めて今日から自分のスペースとなる一画を見渡してみた。目の前は黒いパーテーション、右は白い壁、左は少し離れたところに誰かの席がある。なんとなく漫画喫茶の半個室みたいだと思った。
じっと座っているのも手持ち無沙汰だったので、とりあえずパソコンを点けることにした。モニターとノートパソコンの電源を入れ、画面が明るくなるのを待っていたその時、後ろの方から「おはようございます」という声が聞こえた。
振り返って見ると、入口に立つ一人の女子と目が合った。
「おはようございます」
中山さんが俺の時と同じように、カウンターの席から立ち上がり、その彼女を出迎えた。彼女は視線を中山さんに戻して続けた。
「あの、今日からお世話になります小野です!」
彼女は、俺にとって最初で最後の同期だった。