Le quattro stagioni - La Primavera -
「コヤマ サチさん、でいいかしら」
「はい」
「入部届、見させてもらいました。うちにはもったいないくらいの経歴をお持ちですね」
「いえ、そんな…」
「個人的には、即戦力で十分やっていけると見てますけど」
「そこは…ちょっとわかりません」
「まあいいわ。そこはじっくり見させてもらうことにします。これからよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
◇
「はいはい、ちょっとストーップ!」
指揮台に立っていた部長から声が飛び、私たちバイオリンパートの演奏を遮る。
つかつかと歩いてくると私の目の前に仁王立ちになり、ビシッと指揮棒を突き付けられた。
「…コヤマさん」
窓から差し込む傾きかけた陽の光が逆光になって、威圧感がハンパない。
「は、はい」
「先走るクセ、まだ治らないみたいね」
「……」
「あなたには期待してるんだから、失望させないでちょうだい」
「…わかってます…」
部長は「しょうがない」という風で小さく溜め息をついて全員に向き直るとパンパンと手を叩いた。
「それじゃ、今日の練習はこれくらいにしましょう。みんな自主練もしっかりやっておいてね!」
「お疲れ様でした!」
音楽室の時計はもうすぐ5時。
帰り支度をしていると、同級生のひーちゃんが声をかけてきた。もう自分の片づけは終わったみたい。
「おつかれさまー。部長、ちょっとカリカリしてたよね」
ひーちゃんの担当は私と同じバイオリン。ただ、メインじゃないのでいくらか気は楽だといつも笑っている。
「なんせ、さっちんは入学早々メイン大抜擢だもんねー」
「もー、そういうプレッシャーかけるのやめてよ…」
「いやいや、ジュニア全国大会銀賞の大天才様には我々ごときでは到底かないませんぞ~」
ぐへへへ、とゲスっぽい笑いを浮かべてみせるひーちゃん。
「だからそういうのやめてってば…」
そうなのだ。
自らもバイオリニストを目指していたという母の教育方針で物心ついた頃からバイオリンを持たされ、言われるがままに弾き続けてここまで来てしまった。
もちろん嫌ならここまで続けられるはずもなかったし、小5の時にジュニアで全国大会銀賞を取ったのはちょっとした自慢ではある。今だって、その実績を買われてひーちゃんの言う「大抜擢」になったわけで。
「でも、先輩たちを差し置いてメインってどうなんだろう…」
特に3年生にとっては、今年の地区合同文化祭が最後の晴れ舞台といってもいい。私が来るまでは現部長のヒダカさんがメインを担当することになっていたと聞くと、やっぱり気が重い。ここ数年、音楽部と吹奏楽部の確執が続いていて自分たち音楽部は弦楽主体で活動している…という話も他の先輩からそれとなく聞かされてはいたし、だからこそ実力ありと見込んだ私にメインを託そうということなんだろう。
そんな事情もあって文化祭での発表曲はヴィヴァルディの「四季」。弦楽曲として有名な曲だし、これまでに何度も弾いたこともあって自分の中でのリズム感も出来上がっている。それがどうしても部長の指揮と合わなくて先走ってしまうのだ。
…そう頭で分かってはいるけど、焦れば焦るほど上手くいかない悪循環でもう心が折れそうだった。
「んん~?ずいぶん深刻そうですな~?」
そんな悩みを知ってか知らずか、ひーちゃんがにこにこ笑いながら覗き込んできた。
「どう、ちょっとカフェでも寄ってかない?」
「ん…今日はいいかな。ごめんね」
「そっかー。じゃあまた明日ね!」
よっ、とカバンとバイオリンケースを肩にかけると、ひーちゃんはパタパタと小走りで駆け出していった。
ひーちゃんの明るさにはよく助けられるけど、今日は一人でいろいろ考えたい…そんな気分。
思い悩みつつ、私もバイオリンケースを抱えて音楽室を後にした。
◇
学校からほど近いバスターミナルで、発車待ちのバスを見つけて慌てて乗り込んだ。車両の中央、窓際の空き座席に座り込んで一息つく。
もう帰宅ラッシュの時間帯だったので、座れたのはラッキーだった。自宅最寄りのバス停まで早くて1時間、市街地の渋滞に巻き込まれると最悪1時間半はかかるのだ。
そうこうしているうちに、他の生徒や仕事帰りのサラリーマンで車内はあっという間に満員になってしまった。
「日も長くなってきたなぁ…」
車内の喧騒をBGMに、うっすらと夕日に染まりかけた空を眺めつつそんなことを思っていると発車のアナウンスがあり、ゴトン、という軽い振動とともにバスは動き始めた。
駅前で大半の乗客を吐き出すと、バスの車内には閑散とした空気が漂う。今日はさほど大きな渋滞もなかったので早く帰れそうだ。
市街地を抜けて北へ進むと、田舎の風景が広がってくる。右手には広い空き地とその先には太平洋、左手には連なった山々が濃緑の壁のように続いていた。
元々バスの路線自体はもっと海沿いを走っていたけど、先の震災による津波で道路が完全に壊れてしまって内陸寄りに再建されたのだそうだ。それが今走っているこのバス路線というわけ。
海沿いの延々と続く空き地もその爪痕、ということらしい。もっとも震災当時は小学生だったし、両親の都合で2年前に東京から越してきた私にはいまいち実感が持てない。
そんなことを思い出しつつ、車窓から薄暗くなりはじめた海の方をぼんやりと眺めていた。
ふと時間が気になりスマホを取り出す。
「5:50か…」
だいたい予想通りかな、と窓の外へ視線を戻した瞬間。
空き地の真ん中に何かが立っているのが目に入った。
絵を描いてる…男の人?
そして、その人と目が合った…ような、気がした。
なぜか、心臓がドキン、と大きく脈打った。
多分、ほんの1秒くらいの間の出来事だったと思う。
でも後になってその時のことを思い返すと、あの1秒は私にとっては人生を大きく変える1秒だったのかもしれない。
◇
翌日の練習も出来は相変わらず、というか先走りがさらに酷くなったりとさんざんだった。
「メインの件、ちょっと考え直した方がいいかしらね」
「す、すみませんっ…!」
ますますやばいことになっちゃったな…と思いつつも、昨日のあの光景が気になって集中できていなかったのは確かだ。
自分の不甲斐なさに泣きそうになったけど、ぎゅっと唇を噛みしめてこらえた。
そう、明日から頑張るためにも今日ちゃんと確かめておかないと。
今日もひーちゃんの誘いを断って(ごめん!)、昨日と同じ時間のバスへ。残念ながら座ることはできなかったので、途中までは押しつぶされそうになるのを我慢するしかない。
いつも通り、駅前で車内が空いたのを見計らって昨日と同じ席へ座る。ちらっと時間を確認すると、ほぼ同じ時間にはあそこへ着けそうだ。
運転席の後ろに掲示されてる路線図を目で追う。あそこってことは…あ、最寄りの停留所は「海岸通り」か。
「うーん、あの停留所からだと結構距離ありそう…」
でも、不思議と「今日行けばまた会える」という確信だけはあった。とにかく行ってみるしかないよね。
バスはいつも通り、市街地を抜けて海と山に挟まれた道へ差しかかっていた。
「次は カイガンドオリ…カイガンドオリ、です」
デジタル合成の停留所アナウンスが車内に響く。それが終わらないうちに私は降車ボタンを押していた。
間もなくガクン、とバスは止まり、圧縮空気の音とともに降車ドアが開かれる。
降りる乗客は私だけ。バスから降りるとき、運転手さんはちょっと怪訝そうな顔をしてた。
「ここ、何もないよね…?」
これが、降りてみて最初に思ったことだった。
バス停の標識と古ぼけたベンチ以外は何もない。なんでこんなところに停留所を作ったんだろう、と不思議で仕方がなかった。
とりあえず、海側の空き地へ降りてみることにする。雑草はまばらに生えているものの、砂浜に近い感じでそれほど歩きづらくはない。
歩くうち、そこかしこに四角いコンクリートが埋まっているのに気づいた。最初は何だろうと思っていたけど、その並びを見て声を上げそうになる。
「あ、そうか…ここに」
ずらっと並んでいたのは、家の土台だった。
しばらく歩いて、昨日のあの場所へ。
…いた。
あの人だ。イーゼルにキャンバスを置いて、夕日に包まれた空を見上げている。身長は私より頭一つ高い、かな?ちょっと年上って感じがする。
「あ…あの…すみません」
「え?」
私の声に、その人はちょっとびっくりしたように振り返った。
「あの…何をされてるんですか?」
言ってしまってから気がつく。何やってるかなんて見ればすぐわかるじゃない!私のバカ!
「んー、そうですね…」
?
「…定点観測、かな?」
「てい…てん…?」
予想外の答えに、今度は私がびっくりする番だった。
「この空を1枚の絵として記録する、のがこの作品」
ちょっとカッコつけ気味にキャンバスを指差す。
「…になるといいかな、と。そんなとこです」
流石にちょっと気恥ずかしいみたいで…。
「そういえば」
「は、はい?」
「昨日のバスの人ですよね」
え、やっぱり見えてたんだ…!昨日の「ドキン」を思い出して脈拍が上がってくるのが自分でもわかる。
「え、えーと、あの……」
「まあ…確かに、変なことやってる自覚はありますので」
「や、あの、そんな…ことは…」
緊張と恥ずかしいのとでわたわたしている私を見て、くすくす笑っている。
「…でも、そういう僕を見にくる人もちょっと変わり者だと思いますよ」
「うう…ですよね……」
ひとしきり笑った後、お互いの自己紹介をした。
彼の名前はユースケさん。都内にある美大の4年生で、卒業制作のために実家のあるこちらへ戻ってきているそうだ。
近くにあったコンクリ土台に並んで腰掛け、ゆっくり夕闇に染まっていく空を見上げる。
「いつ頃から、ここで描いてるんですか?」
「半月前くらい…かな。こっちへ戻ってきたのが今月の頭だから」
私が高校に入ったのと同じくらいか…。でも全然気づかなかった。
「僕は知ってましたよ。いつもバスに可愛い子が乗ってるな、って」
「ふえっ!?」
こちらが気づいてなかっただけだった。恥ずかしい。しかも、か、可愛い、とか…。
もう、ユースケさんに聞こえるんじゃないかっていうくらい心臓がバクバクしている。
話題、変えなきゃ…!
「あ、そそ、そうだ。今日は、絵は、もういいんです、か?」
耳まで真っ赤になってて目も泳いでたけど、なんとか言葉を絞り出す。
そんな私の狼狽えぶりををよそに、ユースケさんはキャンバスの方へ目を向けた。
「そうですね。今日の観測はもう終わりました」
「そ、そう、ですか…」
そういえばどんな絵なんだっけ、と私もキャンバスにちらっと目をやる。
「……?」
真っ白なキャンバス、その左端に紺からオレンジのグラデーションが描かれていた。
「何です、これ…?」
「そう、だから定点観測です」
「よくわからない…ですけど?」
「つまり」
ユースケさんは立ち上がって、イーゼルの横に置いてあったカバンからスケッチブックを持ってくる。
それをぱらぱらとめくって、あるページを見せてくれた。
ページ全体に紺からオレンジのグラデーションが描かれ、いくつもポストイットが貼られている。
「この時間…この夕暮れの空を1年通して描きつないでいったらどんな景色が見えるか、そんな実験です」
うーん。やりたいこと、なんとなくわからなくはないけど…。
「空の色って、そんなに変わらなさそうな…」
「確かに。でも、温度や湿度、音、匂い…それも含めて、僕にはどう見えたか。それを描いてみたいんです」
そこまで話すと、ユースケさんはちょっと悪戯っぽい笑いを浮かべた。
「とまあ、教授にはそんなプレゼンをしました。どんな結果になるかは僕にもよくわかりません。…あ」
「どうかしましたか?」
ユースケさんは私のバイオリンケースを見ている。
「バイオリンを弾かれるのですね」
「あ、はい」
ちょっと考えてたみたいだけど、私の方へ向き直った。
「これも実験ついで、というかコヤマさんがよければですが」
「はい」
「次に来るときは1曲弾いてみてもらえませんか。それをBGMに描いてみたいのです」
「…!」
音、か。確かにちょっと面白そうな気がしてきた。
「わかりました!次はぜひ」
「ありがとう。天気のいい日はここにいると思いますので、お願いします」
そうこうしてるうちに、日も落ちてだいぶ暗くなってきた。山の稜線がうっすらとオレンジに染まっている以外はすっかり夜の世界だ。
「もうこんな時間か…。バス停までお送りしましょうか」
「まだそんなに暗くないから、大丈夫だと思います」
「そうですね。では気をつけて」
ユースケさんは画材の後片付けを始めていた。
「ユースケさん、まだ帰らないんですか?」
「僕はもう少し…日が完全に落ちるのを見届けてから帰ります」
「ん…それじゃ、また明日!」
「明日かどうかはわかりませんが…また次に」
「あ!そうでした。それじゃ!」
ここへ来る前は重かった足取りも、少し軽くなったように感じられた。