4.水虎
「機嫌が悪そうだな」
実際には聞こえない、脳裏に響く低い声は、笑いを含んでいた。
仏頂面で池に結晶を投げ入れる沙羅を見ての言葉だろう。まさか見られているとは思わず気まずい思いをしながらも、水面の上に現れた水虎に膝を折り挨拶した。
水虎の瞳は神秘に煙る黄金で、深い知性を感じさせる。柔らかそうな毛質の、薄い青色の皮毛には白い縞が入っており、尾は長く今は優美に揺られている。全体的に水を連想させる色彩の彼は、見た目通りに水を司る精霊だ。沙羅は会うたびに撫で回したい衝動が沸き起こる。
「水虎殿。見ていらっしゃったのですか」
水虎との付き合いは、沙羅が宮に来た頃から続いている。気安さもあり声も弾んだ。
十を数える頃より宮に閉じ込められ、退屈のあまり池へ小粒の精霊石で水切りをして遊んでいた。意図したことではなかったが、精霊石の投棄でこの地が急激に聖域化してしまい、様子を見に来た水虎にその価値を教えられたのが出会いだった。
現在は聖域の管理者として水虎が名乗りを上げてくれたために、精霊石で水切りをしても文句は言われない。管理者がいない聖域は悪しき物に取り込まれ災厄をまき散らすこともあり、管理者を置く必要があるのだと教えられた。水虎は毎日のように訪れることもあれば、季節が二つ、三つ過ぎるほど顔を会わせないこともある。沙羅としては、水虎のことを不思議な友人だと思っているので、長く顔を合わせないと寂しかった。
水虎はするりとした身のこなしで三間程の距離を詰め、沙羅にまとわりついてくる。沙羅も抱きつき、その柔らかく暖かい毛皮を堪能した。
「ひさしぶりだわ」
「そうだったか。そう日は空いていないと思うが」
「お月さまが一巡りして半分かけてしまったわ」
わざと拗ねたように言うと、嬉しげに揺れていた水虎の尾がしゅんと下がったのを見て、沙羅も言う。
「む…それは、すまぬ」
「わたしも。わがままをいってごめんなさい。思い出して来てくれるだけでいいと思っているのに。つい甘えてしまうわ」
「わしについてくればさみしい思いなどさせぬが」
「前から言っている通り、それは難しいの。こうして慰めて貰えるだけで充分だわ」
「こんな所、沙羅が望めばすぐにでも連れ出してやるというのに」
気に食わぬ、と唸る友人に笑って言う。
「私は人だもの。連れて行ってもらっても、あなたの重荷になってしまう。こうしてあなたに会えただけで嬉しいわ」
何を思って水虎が誘ってくれるのか沙羅にはわからないが、そう言葉にして言ってもらえるだけで嬉しく思う。沙羅は先帝の娘で、現帝の従妹だ。世間を知らず、今の暮らしを離れて、どのように生きていけばよいのかすらもわからない。会う度に重ねるいつものやり取りを終え、水虎は伺うように沙羅を見る。
「それで、どうしたのだ」
「少し、嫌な客が来ただけ。でもちゃんと追い払えたわ」
「強いな。けれど、それだけでもなかろう?」
心配気な水虎に、沙羅はぽつりと本音を漏らす。
「利用してやろう、という目で見られるのはあんまり気持ちよくなかったの」
「そうか」
水虎のしっぽがたしたしと沙羅の背を叩く。彼なりに励まそうとしているのだと感じられて、沙羅は気持ちが和むのを感じた。
「もう。くすぐったい」
「しっぽは嫌だったか。ならばこうかな」
鼻を沙羅の頬に擦り付け、ぺろりと舐める。沙羅は自然と笑顔になるのを抑えられず、しばしの間水虎とくすぐりあって笑い転げた。
「そういえば、今日はおやつはいつもよりも少ないの。よかった?」
「珍しいな」
水虎が来るたびに、精霊石をおやつとして供していた。初めて沙羅に出会った際に、精霊石がいかに精霊にとって価値があるものか説明したあと、沙羅が池に投げ入れていた精霊石を欲しがったので毎回用意するようになったのだ。だから、水切りをするときは質が悪いものや失敗作を使うようになった。水虎も沙羅が呼吸をするように精霊石を作ることを知っているため、声は心底意外そうだった。
「けが人を治癒するのに使ったの」
「別に構わぬ。沙羅のおやつはわしにとっての楽しみではあるが、たかりにきているわけではないのでな」
立派なことを言っているようだが、尻尾が項垂れている。
「楽しみにしていてくれたのにごめんなさい」
あの日、大怪我をして意識を失った男を治癒するために、沙羅は水虎にと用意していた結晶を使った。通常、精霊は気まぐれでなかなか人の願いなど叶えないものだが、精霊石があれば大抵の願いは叶えてもらえる。
宮から出ることのない沙羅が実際に「お願い」をしたのは、ごくまれに迷い込む小動物の怪我を治すよう頼むくらいで、数えるほどしかない。今回は男が大怪我をしていたため、迷いなく治癒を頼むことにした。
しかし、対価に大粒のをいくつか要求されたため、水虎に渡す分が減ったのだ。大粒の結晶は、それを得意とする沙羅でも日数を必要とする。しかしそれがなければ男は助からなかったため、後悔はしていなかった。
「否。沙羅がその心に従って、石を使ったのだ。気にせずともよい」
「ありがとう」
水虎に渡した石は大粒のものは少なかったが、いつも通りその質には満足がいったようだった。水虎は精霊石を飴のように牙でかじりつつ、何か思案を転がしているようだった。沙羅は、その間水虎の邪魔にならないよう毛皮を堪能することにした。
その後、我に返った水虎にたしなめられつつも、いつものたわいない話をひとしきりして、日暮れ前には水虎は帰っていった。