9.呪痕
翌日は朝目覚めた際から調子が悪かった。
都に来て三日目。
はしゃいでいた疲れが出たのと、都の気候が涼しい宮での暮らしに慣れていた身に堪えたのとが原因かもしれない。都は盆地になっており、気温が高く、何より太陽が昇り切ると蒸すように暑くなってくる。
何かするにも酷く億劫で、暑気あたりの軽いものだと思っていた。
体におもりがついたように感じる。
着替えようとして気づく。
右腕の呪いが濃さを増し、右腕から手首にかけてその範囲を広めていた。
急ぎ精霊石を取り出し願うも、あまり結果は変わらない。
宮から出ているため、神力を借りることができないのが大きいのかもしれない。呪いの力が増しているとは考えたくなかった。
都での滞在日数はまだ大分残っている。
明日も悪くなるようであれば、残念だが何とか理由を付けて早めに宮に戻るしかないだろう。
宮を出てすぐこんな風になるなんて、憂鬱さが増す。
あまりうまくはないが、片手で右腕にさらしを巻く。
ひとまずはそれで隠すことができるだろう。
気分を変えようと、庭に出た。
庭の池に魚が放されていることに気付き、餌をやることにした。
午前中、まだ涼しい時間のため、魚の食いつきも良い。
寄ってくるのは黒はもちろん赤や白、まれに金混じりの魚もいる。
楽しく眺め、餌を撒いていると、家司がやって来た。
来客らしい。
近くを通りかかった高貴な方がお目通りを、ということだが、誰かは名乗らない。だが断ろうとすると主の権力をちらつかせ断ることもできないと泣きつかれ、うんざりしつつも会うことにした。
* * *
支度に時間をかけ、ゆっくりと寝殿へ向かう。
予定外の面会に、一応迅を控えさせようと探させたが、見つからなかった。
居ないのは仕方がないが、他の者には一応探して、見つけたら呼ぶように伝えている。
どこに行ったのやら、肝心な時に居ないのだから。
「ご機嫌麗しう。この度はお目通りをお許しいただき誠にありがとうございます」
まさかと思っていたが、右大臣だった。あちらは特には驚いていないようで、沙羅がいると知っていて押しかけて来たに違いない。
「都に来てまでお会いするとは思いもよりませんでした。いつもこのように新たな家に挨拶に回られているのでしょうか?」
「たまたま姫君が都へ参られるという話を耳にしましたもので、まさかと思いながらの訪問でした。こうしてお会いすることができて僥倖です」
沙羅の動向を知るものなどそう多くはないはずだが、いったい誰に聞いたのだろう。
「わざわざ挨拶に来ていただきまして、申し訳ありませんが、あいにく何のおもてなしの用意もしておりませんの」
「いえ、結構。そのようなつもりではありませんから。これから言うことはお気を悪くされるやもしれませんが、知っていて後に何かあった際に、申し訳もたたないので、本日は伺いました」
「どのようなことでしょう」
「お人払いをお願い頂けますか?」
本音では嫌だが、仕方のないことだろう。一応控えてくれていたこの家の家司に頷くと、全員退出する。
「大声で言うのははばかりがありますので」
人払いをした上で、御簾の近くににじり寄ってくる右大臣に、そのままで良いからと言いそうになる。不快な甘い匂いがそちらの方から漂ってくるので、扇で深く顔を隠す。
「昨日、偶然呪い師を連れてこちらの前を通りかかったのですが、その際、そやつが少々ご不快に思うようなことを言うのです」
右大臣は言葉を溜めた後、沙羅を見つめて囁いた。
「こちらの屋敷から、呪いが見えると」
言葉を無くした沙羅を、右大臣は目を眇めて伺っている。
疑われているだけで、沙羅が呪われているとは言っていないが、生きた心地がしない。
「この家で、どなたかご不調な方はいらっしゃいませんか?」
「まだ来たばかりで、存じません。その方は、どなたが、その、ご不調に陥っているなどはわかりませんの?」
「さすがに、そこまでは。直接見ればわかると申しておりましたが。何やら証が出る、と」
びくり、と体が震える。このような時に、本当に迅はどこに行ったのだろう。早く来れば良いのに。
「姫様、もしやそれは」
右大臣の視線が御簾ごしに沙羅の右手首に行っている。
つい右手で扇を持ってしまっていたため、着物の袖口からわずかに呪いの影が見えていた。
きつく巻いたつもりだったが、片手でのこと。隠すために巻いていたさらしが緩んでしまっている。
迂闊だった。
「なんでしょう」
「その右腕の。呪いの証ではありませんか?」
「貴殿には関係のないことです」
「いえ、こうして目にしたからには、そういうわけにもいきますまい。幸い、といってはなんですが、我に仕える呪い師は腕が良い。よろしければ、それもなんとかできるのではないかと」
「結構です」
「ですがそのままにされてはお命が危ない」
不必要なところばかり聡い。
この呪いはもとは帝の命を狙ったものなのだから命を危うくするのはその通りだろう。だからと言って右大臣にそれを願うのも嫌だった。
「右大臣殿のお手を煩わせるほどのことではありません」
「相当おつらいはずです。我が屋敷に来ていただければすぐにでも助けて差し上げることもできましょう」
「お断り申し上げています」
「そうご遠慮なさらずとも。屋敷はすぐそこですので」
そう押し問答しているうちに、本格的に気分が悪くなってきた。
「大丈夫、姫君は何もご心配されることはございませんから」
いつの間にか更ににじりよっていた右大臣に御簾の端から手を入れられ、右腕をつかまれる。
触らないでほしいと不快な気持ちが溢れるが、どうしてか激痛が走り、沙羅は声を出すことなく意識を失った。




