恋の三日目
大きな会議室の中で彼だけが特別に見えた。何の理由もなく、けれど疑いようもなく。
I do not believe in love at the first sight.
昔見た映画の女優の台詞を思い出した。物憂げなその女優の横顔や、少し皮肉そうに唇を歪めた笑顔まで克明に。それから、一度ゆっくり瞬きして、心の中で、今度は自分の声で繰り返した。
I do not believe in love at the first sight.
それでも何か物足りなくて、小さく声にも出した。
「I do not believe in love at the first sight.」
それから、何度繰り返し唱えても無駄だった。
会議が終わるころ、木島佳香は生まれて初めての一目惚れを認めざるを得なくなっていた。
***
一年に一度。各国に散らばる生産管理部門の幹部社員を集めて行われる国際会議は持ち回りで開催場所が変わる。ただ情報交換するだけでなく、各国の事情を肌で感じて互いの理解を深めよという意図なのだろう。佳香が初めて参加したその年の会議はイギリスの片田舎で開催されていた。工場というのは、どんな国でも片田舎に建っているものだ。
「木島さんが来てくれたから、今年は楽だなあ」
その日の会議が終わってホテルまでの送迎バスが来るのを待っている間、先輩の山原が大きく伸びをしてそう言った。山原は四十半ばの中堅社員で、その年頃の社員の中では出世頭の一人である。各国のエースが揃うこの会議に出るのも既に五回目ということだった。
「俺、英語苦手だからさ」
まだ若い佳香が大きな会議に連れ出された理由がこれだ。日本からの参加メンバーの通訳代わりに連れてこられたのである。エース級と言えども英語が堪能とは限らないのが、いかにも生産管理部門というところだ。これが営業部門ならば佳香が紛れ込む隙などなかっただろう。責任を負わされる立場になる前に部長クラスの会議を見学させてもらえるという意味で、今回の抜擢はとても幸運だった。しかも海外出張のおまけつきなのだから言うことは無い。ロンドン観光の時間はないが、空港で紅茶くらいは買えるだろう。
「山原さん、通訳なしでプレゼンされてたじゃないですか。練習の成果出てましたよ」
「そうかなあ。まあ、原稿読むのはいいんだけど。質疑応答はやっぱり難しいよなあ」
大丈夫、完璧でしたと大先輩を励ましていると後ろから声がかけられた。
「山原さん、英語勉強したんですか?」
振り返った佳香はまじまじと相手を見つめてしまった。
彼だ。
四十人を超える参加者の中でたった一人、佳香の目をくぎ付けにさせた男。
「おお、そうなんだよ。この木島佳香大先生に個人レッスンをしてもらってさ」
山原は顔見知りのようで陽気に笑っている。
「途中から俺も山原さん向けに彼女が通訳してるのこっそり聞いてましたよ。いいなあ、サポートメンバーを連れて来られる偉い人は」
彼が自分の声を聞いていたと聞いて、佳香の十本の指の先はすべてに火が灯ったように熱を持った。彼が自分の、と思った瞬間に、声に耳を澄ますという行為がひどく扇情的なもののように思われた。握り拳の中にじんわりを汗をかく。
「いやいや、サポートどころじゃない。この春、唯一本社の生管に追加になった期待の新人だぞ。来年のプレゼンは木島さんが担当になってるんじゃないか。俺のつたない英語を聞くのも今日で最後だ。ははは」
そこまで言ってから山原は二人が初対面であることに気づいて、やにわに二人を向い合せるように立ち位置を変えた。
「うちのホープ、木島佳香さん。で、こっちがオランダ駐在の沖洋史」
佳香は沖を見上げてぴしりと姿勢を正した。心臓が跳ねるように打っていることを気づかれないように表情も引き締める。
「木島です。はじめまして」
「沖です。よろしく」
沖は柔らかな印象の男だった。肌が白く、特に痩せているわけでもないが太ってもおらず、白いオックスフォードシャツが良く似合った。近くに立つと思ったよりも小柄でハイヒールをはいた佳香とは目線が近い。佳香は僅かに上にある彼の目尻の皺や肌のはりを見て、三十代の中頃と見当をつけた。視線はそのままさりげなさを装って左手に下り、薬指を確認する。そこに指輪は見当たらなかった。
男性二人は佳香の視線に気づかないまま話し続ける。
「オッキーは工場時代の俺の後輩だったんだけど、優秀だから先輩追い抜かして駐在員になっちゃったんだよな」
「またまた。山原さんが駐在は絶対やだって言い張るから後輩たちが皆どさ周りさせられてるんですよ。奥井だって、またアメリカでしょう?」
「そうそう。そうなんだよ。今度は西海岸。少しは日本に近づいたなんて言ってたけどな。この調子で定年までには帰国できそうですなんて」
「じゃあ次はハワイ工場ですね」
「そりゃあ、お前。まず建てないとな」
声をあげて笑う二人の隣で佳香も合わせたように笑みを浮かべる。
「お二人は仲が良いんですね」
控えめに声をかけると沖は笑顔のまま佳香を振り返った。それだけで、つられた佳香の笑顔が大きくなる。
「この人には本当にお世話になってるから。良い先輩でしょう? 腹が減ったなあって隣でぼやいたら、飯食わせてくれますよ」
「そうなんですか? じゃあ、今度言ってみます」
軽口ににっこりと返すと、横から山原が割って入った。
「おいおい。手加減してくれよ。うちの娘、今年高校受験でいろいろ大変なんだから」
「山原さん、ごちそうして頂いている時間、お嬢さんにパパ嫌いって言われないための対策、相談に乗りますよ」
山原は気やすい上司だ。佳香がにやりとすると、彼はまた笑って頭を掻いた。
「そう。最近、お父さんうざいとか言うんだよ、あいつ。土曜に俺に塾まで車出させといてよ? ひどいよなあ。それでも迎えに来てって言われたら、『うん』って言っちゃうんだよ。都合のいい男だよ、俺は」
わざとらしく落ち込んで見せる山原を見て、沖も佳香も笑った。
「アッシー君ですね」
佳香が頷くと、沖が嬉しそうに佳香を見下ろした。
「おっ、木島さんでも知ってんだね。バブル時代なんて小学生くらいだったんじゃないの?」
「そうですね。でも知ってますよ。物心つかないってほど小さかったわけじゃないですから」
佳香は会社の中では「まだ」、もっと広い社会的には「もう」二十七歳だ。沖との年の差は大人同士とはいえ、少し躊躇う程度にはあるだろう。それだからと言って一気に幻滅とはならない。山原と沖の会話に適当に相槌を打つ佳香の意識は沖にばかり集中していた。
この症状には覚えがある。これは恋の初期症状。相手の一挙手一投足から目が離せなくなる。そして厄介なことに、そのすべてが良いものに見えてしまう危険な症状だ。
そうやって分かっていても、抗えないのが恋なのだった。
***
やがて送迎バスがやってきて、世界各地から集まった社員たちは一まとめにホテルへ送り返される。現地のメンバーがここ数日ですっかり日が短くなったという通り、外は既に真っ暗で空気も冷え込んでいる。広々とした暗闇の中、眩しく光るライトをつけたバスにだけぎっしりと人が詰まるのは何だか異様な光景だ。バスだけが外と切り離された違う空間であるような。
その異空間へ入り込んで佳香はホテルへ戻る。大事なことは、バスが外界ときちんと繋がっているかではなく、同じバスの中に沖もいるということ。佳香は隣り合わせたラテン男の話に相槌をうちながらも、あらゆる知覚器官を振り向けて彼の存在を確認していた。
バスはつつがなくホテルへ到着し、一人、また一人と乗客を吐き出していく。冷たい夜風を避けてロビーに駆けこむと自然と山原の周りに各地で駐在している日本人社員が集まってきた。明日は会議参加者全体で打ち上げのディナーが予定されている。日本人同士、気楽な内輪の集いをするなら今夜だ。
「明日のディナー、肉だよな。今日は違うもん食べよう。この辺りでおいしい店ないかな」
何やら言い合っている男達を見て、佳香はフロントへ向かう。暇そうにおしゃべりをしていたフロントマンに声をかけて近隣のレストランリストを出してもらう。礼を言いがてら、ひらひらと手を振ってまだ揉めている一団の元へ戻る。
「これ、近所のレストランの一覧だそうです」
A4一枚の紙を差し出すと、山原はにかっと笑った。
「さっすが。気が利くねえ。よし、じゃあこの中から選ぼう」
結局、行き先は中華料理屋になった。佳香は今や本国よりもイギリスの方が店舗が多いとも噂されるインドカレーに密かに期待していたのだが、それはインドの駐在員に却下された。カレー味じゃないものを食べたいという彼の言葉はあまりに切実だった。
三十分後にロビー集合と言われて、佳香は足早に部屋へ戻る。荷物を下ろして貴重品はロッカーへ押し込み、スーツを脱いでもう少し楽な服装に着替える。顔を洗ってメイクは一からやり直し。普段なら、メイクもやり直さず、着る物だってスラックスをジーンズに変える程度だから三十分でも余裕があるが、今はそうはいかない。今夜の夕食には沖も来るのだ。気になる男がいる場にいる一時間と、興味のない人に囲まれている一日では美しく装う価値が違う。
なんとか支度を終えて約束の時間の五分前にロビーへ下りると、三、四名が既に集まっていた。会議のドレスコードがビジネスカジュアルだったので、男性社員たちの服装は先ほどまでとまるで変わらない。いつもならば、男性は出張の荷物が少なく済んで良いと羨ましく思うが、今日は気にならなかった。紺のパンツスーツよりも秋色のスカートとブラウスの方が今の気分に合っている。
わざわざイギリスまできて食べた中華料理はおいしかった。先輩ばかりの中に交じって円卓を囲み、佳香も遠慮なく飲み食いする。海外在住者が多いせいなのか、日本の飲み会のように下っ端の佳香ばかりが注文やお酌をする必要はなく、気づいた順に注文をしてくれる。
「世界中、どこに行っても中華料理屋はあるし、しかもそこそこ美味い。困ったら中華だよ」
ご機嫌の山原は、何度も佳香を褒めてくれた。
「あの人、グルメだから。おいしい食事を食べさせるとポイント高いんだよね」
隣に座っていた沖が小声でささやく。
「確かに、よくどこそこに食べに行ったとか話してらっしゃいます」
「でしょ? だから太るんだよ」
ひそひそ話して、顔を見合わせて笑いながら佳香はどうしようもない幸福感に浸っていた。隣の席をさりげなくキープしたおかげで、夕食の間、ずっと沖を独占できている。話してみれば沖は気さくで、穏やかで、ほんの少し毒があって、気に入らないところが見当たらない。進むビールのせいなのか、急激に育つ恋心のせいなのか、佳香は自分がどこかふわふわとしているのを感じた。熱されて上へ上へと上る空気のように押し上げられる。テーブルの下で足を揺らして、スカートの裾の感触を確かめては女らしい装いに一人密かに満足した。今は誰からもスカートなど見えもしないのに。
何かのはずみで誰が誰の同期かという話になったので佳香はここぞとばかりに問いかけた。
「沖さん、おいくつですか?」
「三十八」
沖は年齢を誇るでも卑下するでもなく、すとんと答えた。
十歳以上離れていたか。思ったよりも年上だったが、佳香はそれを単なる事実として受け止めた。
「私は二十七です」
沖を真似るようにすとんと佳香が言うと、彼はははっと声をあげて笑った。
「え、今何かに挑戦されたの? 若さでは勝負にならないって」
佳香は真顔のまま首を振った。
「違いますよ。ただ申告しただけです」
あなたが年下を好ましく思うのなら、この年の差を私の武器にするけれど。
そう内心だけで付け加える。
「そうかあ。今年の新入社員なんて二十二歳だもんな。人によっては十八か。二十歳も年下の子が会社に入ってくる年なんだよなあ」
佳香の心の声は沖には届かず、彼はしみじみとした調子で言う。
「俺も年をとるわけだ」
「年って。そんな言うほどじゃないじゃないですか。お若いですよ」
「いやあ、木島さんに言われてもね。飛行機に乗れば腰は痛いし、筋肉痛は一日遅れてくるし、若くはないよね」
佳香が何と返そうかと迷っている間に、山原が沖に話しかけたので会話は打ち切りになってしまった。
他の人と話しながらも沖の声に耳を澄ますことをやめられない。初めて姿を見てからまだ十二時間しか経っていないのに、こんな風に夢中になってしまうなんて十代の頃以来だ。凶暴な心を持て余してしまう。明後日には佳香は東京へ帰り、沖はアムステルダムへ帰る。そして次に会える保証はない。それなのに、気持ちにはまるで歯止めがきかない。山原たちと話し込む彼の肩に触れて強引に気をひかない為に、随分と自制しなければならなかった。
***
翌日も会議は続き、佳香は山原をサポートしながら各地の工場の声を生に聞いて学んだ。相変わらず沖のことは気になるが、幸いなことに会議の内容は刺激的で佳香は彼を眺めて上の空にならずに済んだ。
「どうだい、あと半日だけど疲れたんじゃない?」
「まだ大丈夫です。面白いので疲れを感じないというか。すごく勉強になります。法令も国によって違うし、生産スタイルも違うと分かっていても聞いてみて初めて気付くことがたくさんあって」
昼ご飯を食べながら佳香が山原に会議の感想を伝えていると、すっと隣にトレーが置かれた。
「あれ、真面目な話してます? お邪魔かな」
やってきたのは沖と、彼の同僚だというオランダ人だった。
「ああ、どうぞ。平気です」
「ありがとう。今しか時間が取れなさそうだから先週メールしてた急ぎの追加の話をさせてもらいたくて。いいですか?」
後半は山原に向かって訊いている。
「おお、そうだった。そうだった。どうせ会えるから後でっつってそのままだったな」
そこから三人は日本から出荷予定の材料の手配の話を始めてしまい、佳香はついていけなくなった。しかし、それはそれで好都合だった。相槌も必要ないから集中して沖のことを観察できる。彼の喋る言葉の一つ一つや、ちょっとした冗談に笑う笑顔を脳に刻み込む。
まだ恋の初期症状は治まっておらず、通りの良い少し高めの声も、綺麗に切りそろえられた爪も、ケチャップのついた口元を拭うなんてことない仕草までが佳香を引きつけてならなかった。
その晩のチームディナーは席まで決まっていて、佳香は沖の隣に座ることはできなかった。何度か視線を投げて、二回も目が合ってしまったところで盗み見は諦めた。三回目は偶然とは言い張れない気がした。
ディナーが終わった後で、もう少し飲もうかとホテルの近くのパブへ出直すことになった。混み合う店内で人が入り乱れ、大柄なイギリス人のグループに前に入られたら周りも見えない。佳香は人をすり抜けて沖の近くへ寄って行った。ちょうどよい具合に他の日本人はジュークボックスの周りに集まっており、彼の寄りかかっているテーブルには隙間があった。高い丸テーブルに肘をついて、沖はコーラを飲んでいる。彼は下戸なのだそうだ。
「それ、黒ビールに見えますね」
彼のグラスに並べるように自分のグラスを寄せて見せる。本物の黒ビールは滑らかな泡が乗っている。沖はにこっと笑った。
「すり替えないでよ。ビールなんか飲んだらすぐ倒れちゃうから」
「一滴も飲めないんですか?」
「一滴くらいは平気だけど、1センチ飲んだら真っ赤。コップ半分で限界」
それは大変なことだと言いながらも佳香は遠慮なしにぐびりとビールを飲む。沖の隣に立つ緊張を紛らわすようにぐびぐびと三分の一ほど飲んだところでやっと口を離した。
「良い飲みっぷりだね。羨ましい」
彼が自分の唇の上を指で撫でて見せた。泡がついている。そう言いたかったようだ。佳香は案の定濡れていた自分の口元を拭う仕草に紛れて俯いた。心臓が跳ねている。あの指先は何の他意もないものだと分かっているのに。その手で直接に触れてくれたらと思ってしまった欲望に動揺する。慎重に箱にしまって蓋をした感情が暴れ回る。
駄目だ、駄目だ。黙って日本に帰るのだから。絶対にうまく行きっこないのだから。
自分に言い聞かせる声は頼りない。理性の踏ん張りが効かない。恋は落ちていく最中が一番パワーを持っている。理性はその勢いに引きずられるばかりだ。佳香は沖を見上げてひゅっと息を吸った。
「沖さん」
呼びかけに、穏やかな視線だけが返ってくる。何を言おうか考えて呼んだわけではなかった。でも彼と目があったら、自然と言葉が口をついて出た。
「私、やっぱり沖さんが年だなんて思わないです」
佳香はそれ以上言わなかった。しかし、沖には言葉にならなかったものまで伝わったようだった。困ったように目尻を下げて佳香を見下ろす。
「うん、ありがとう」
沖もそれ以上言わなかった。
やがてやってきた他の社員に紛れ、二人は離れ離れになった。佳香はふらふらとカウンターに歩み寄り、スコッチを要求した。ストレート、ダブルで出してもらったシングルモルトを水割りみたいに飲んだ。ハイヒールの足がふわふわする。
私はさっき何を言った?彼はさっき何と言った?あれはどういう意味だった?
片肘をカウンターに預けて息を吐く。あっという間になくなってしまったウィスキーのグラスを返して、今度は炭酸水を貰う。パチパチと喉の奥で弾ける感触ばかりに気がいって何も考えられない。
炭酸水が無くなる頃に後ろから声をかけられた。
「そろそろ戻ろうか」
ぞくりと背筋が震えた。沖の声だ。
見回してみると、店はまだ盛況だが一緒に来たメンバーは減っている。気づかないうちに帰った人がいるらしい。
「山原さんに声かけて、ホテルに戻ろう」
佳香は何も言葉が出なくて、黙ったまま頷いて沖の言う通りにした。山原はまだ飲み足りないと、二人についてこようとはしなかった。
***
パブの扉を出た途端、夜風が強く頬を打った。コートの襟を立てて首を埋める。二人揃って急いで両手をポケットに突っ込んだ。
「一気に酔いが醒めます」
体の中ではまだアルコールが燃えているけれど、頭は急にクリアになった。佳香の言葉に沖は「そうなんだろうね」と返した。彼には分からない感覚。共有できないことがもどかしい。
いつの間に雨が降ったのか、路面は濡れていて街灯の灯りが丸い輪を描いている。黒い夜空と星灯りを地面に映しとったような道に二人分の足音が響く。冷たい風が吹くたびに二人は少しずつ近づいて寄り添うように歩いた。
石畳にヒールがひっかかり佳香がよろけたところで沖の手が佳香の肘にかかった。そのまま滑り降りてきた手がよろけた拍子にポケットから飛び出した佳香の手を摑まえる。控え目に包み込まれた手に彼女は顔を上げて沖を見上げた。手は離れて行かない。
「飲んでないのに酔ってるんですか?」
冗談にしてしまおうかと笑って問えば「うん、恋の予感に」と歯の浮くような甘い言葉が返ってきた。近くから聞こえる彼の声がくすぐったくて恐ろしい。佳香は食い入るように沖を見つめた。決定的な言葉を待っていた。
「こんなに一生懸命に見つめてもらうのなんて、何年振りだろう」
静かな声で沖は言う。
「なんて。良く目が合うと思ったんだけど、俺、勘違いしてる?」
佳香は前を向いたままの沖の横顔を見つめた。勘違いじゃないと言ったら、彼は割り切った一夜の恋をくれるだろうか。自分はそれが欲しいのだろうか。
「沖さん、明日にはオランダですよね」
返事をはぐらかすと、彼はちらりと佳香を見下ろして頷いた。
「木島さんは東京だね」
「次の会議は、来年ですよね」
「他の仕事で日本に行くことはあるかもしれないけどね。正月に実家に帰ったり」
佳香は反対の手で、繋いでいる沖の手の甲を抓るようにつまんだ。
「沖さん、ずるいです」
そうやって、期待をもたせるようなことを言って。でも、決定的なことは言わないで。すると沖は手を解き、顔の前に手の甲をかざして目を細めた。暗がりでは赤くなっているかどうかなど見えないくせに。
「ずるいか」
彼は手を下ろして佳香を見やる。その顔にふっと浮かんだ微笑みは佳香が欲しかったものではなかった。若者を慈しむ年長者の顔。
「やっぱり、少し年をとりすぎたかな」
彼はもう手は繋がずに、そのまま真っ直ぐに歩き出した。その一歩後ろを追いかけながら佳香は泣きたい気持ちになった。思わせぶりなのは自分も一緒。それなのに沖だけを責めて、結果、彼の手は離れて行ってしまった。まるで、そんな子供の相手はできないとばかりに。
佳香は二、三歩小走りをして沖に追いついた。ポケットに戻されることなく揺れている手の中に今度は自分から手を滑り込ませる。
沖は佳香を振り返りもしないで小さく笑った。
「ずるいなあ」
呟いた沖の声はどこか楽しそうだった。
***
同じ会社の人間だから、探せば連絡先を手に入れるのは簡単だし、山原に聞けばプライベートの連絡先も知っているだろう。でも、佳香は沖に連絡をしなかった。沖からも連絡はなかった。お互いの何も知らないままに恋に落ちた。お互いに決定的な言葉を告げなかった。短く淡い綿菓子みたいな恋。けれど綿菓子は融けて消えてはくれなかった。喉を焼くような甘い感情を体中に張り巡らせて、佳香を縛り続けた。
今年の会議の開催地はカナダ。参加者リストを眺めて佳香は息をつき、震える手を握りしめた。
この恋に三日目は訪れるだろうか。