フルーツ
――二人の行方を、誰も知らない。
***
夕方の日差しを埃と砂塵の混ざった風が遮る。橙色の太陽は輪郭を失くしどこにあるのかさえわからない。
摩天楼で陽の届かない黴のにおいに満ちた路地裏。スパイス・ファイブを隔てその向こう側にはメイン・ストリートがあった。
時間帯によって喫茶店とクラブが入れ替わるスパイスファイブの中に入って、すぐ右手の大通り側には二人掛けの席がいくつか並んでいて、通路を挟んで反対側にはカウンター席がある。
カウンターの向こう側にはハットを被った白髪の男性が立っていてガラス製のカップを白い布巾で拭いていた。
入口からカウンター席を見て右手の奥には3,4人掛けの円卓がいくつかあり、その奥に扇状の小さな舞台がある。
円卓や二人掛けの席には何人かの訪問者が勝手に音楽をかけたり、談笑したり、好きに過ごしていた。
それは混とんとしているけれど、不協和でなく心地好さすらある。
――からんからんとスパイス・ファイブの入口の扉に付けられたベルが鳴り、どたどたと女生徒が中に入ってきた。
「カナイさん!」
白髪の男は声をかけられてから少女に気付き、ほほ笑む。
「やあ」
「昨日の演奏、録ってくれました?」
少女はカウンターに両手をばんとついて身を乗り出しながら男に話しかけた。
けして大きな声ではないが、黒髪の少女のその声は店内によく響き、少女は一瞬だけ店内中の視線を浴びる。
男はにっこりと笑いながら頷きながらカセットテープを手渡した。
「はい、これ。約束の、『クレイジー・ソルト・アンド・ザ・スパイス5』の録音だよ」
少女は両手にテープを抱え、らんらんと目を輝かせる。
「今、聴いていいですか?」
「いいよ」
「やった」
少女はすぐに通学鞄からスピーカー付きのプレイヤーを取り出しテープを中に入れ再生ボタンを押した。
「ボルフに向かうパンツァーの音が入ってるね」
「気にしないですよ、別に」
楽器のチューニングの音と、空へ向かう軍用車両の音。
その次に、録音機に近かったのか他の音よりも大きく男性と女性の声がレコーダーの中から聞こえた。
男がちらりと少女を見ると、少女はにやりと笑って少しだけレコーダーの音量を上げる。
「うひひ」
そんな少女を眺めながら男は肩をすくめ、遠くから聞こえる客のオーダーに応えた。
***
ヨーク、憶えていろよ。おれは一人呟く。
彼女との待ち合わせの場所は、近所では有名な店だった。
金持ち達の通る明るい道ルート・ツインと、振るいにかけられた人々が吹き溜まる二つの通りに挟まれたその店の名前を「スパイス・ファイブ」と言う。
夜、その店の扉を開けると右手の奥にあるステージの前の席に彼女が座っていた。
今ならまだ間に合う。そう思って踵を返そうとした矢先、彼女はおれに気付いて手を振り、微笑んだ。そしておれの右手を見て笑顔を冷凍保存するようにかたまる。
おれの右手はがらんどうだ。おれはとにかく仕返しがしたくて彼女の方へ歩み寄った。
「やあ」
彼女と向かい合う席についた。彼女はステージに背を向け、おれはステージと向かい合う。
「久しぶりね」
おれは店内をうろつくウエイターを止めてドリンクを注文した。
「ねえ」
「なに?」
俯きながら彼女は言う。
「約束、忘れちゃった?」
「なんだっけ」
照明が落とされ、ステージの上に五人の若者がのぼった。
歓声が周囲をつつむ。
おれたちは声の音量を上げた。
「テルスに帰ってきたら――」
一瞬彼女はおれをみて、また俯く。
「――帰って、来たら」
「なにさ」
彼女はおれを見た。
楽器の演奏がはじまる。
「帰ってきたら、結婚しようって」
そういえば、そうだった。
誰が悪いわけでもない。誰も悪くない。けれどおれも悪くない。
何年か前、おれはまだ中学生だった。でも進学か軍役かでおれは金が無かった。だから軍役を選び、ボルフ戦線に送られ戦争が終わり帰ってくるとそれを失くしてた。
それだけの話だった。おれみたいなやつやつ、この世にいっぱいいる。
「他愛ない話だよ」
「それを信じてた人は、どうすればいいの」
ずきりと、右腕が痛んだ。
さすろうとしてもそこには何もないのに、指は伸びる。
「おれはもう一生まともな職には就けないし、それに――」
ざざ、と音がして演者のギターアンプがノイズを拾う。昔のTVやCM、ニュースが一度に流れた。
ノイズを聞きながら最後の夜を思い出した。星降る十月の夜におれたちは再会を誓ったけれど、誓いが破られることもある。
ボルフからテルスに帰って、おれはそのままマーニに移住した。ここなら保障や賠償で金がもらえるからだ。
彼女には何も言わずに来た。知っているのは昔の上司のヨークで、そのヨークが彼女にばらして、今日、こういうことになってる。
「それに?」
彼女が訊き返し、おれは首を振る。
「……帰るよ」
「気にしてるの?」
席を立とうと中腰になったおれのがらんどうを彼女が指差した。
その両方の瞳は藍色に輝く。
「私じゃ、貴方の腕の変わりは出来ないの?」
外では犬が吠えていた。
***
そこでテープの再生が終わり、外はもう真っ暗だった。
「……結局、肝心の演奏が」
アンネがむう、と仏頂面で言う。
カナイは何も言わなかった。
「それで、この二人、どうなったんですかね」
テープからはもう何も聞こえない。
「さあねぇ」
深くなりすぎたハットの位置を直しながらカナイはカウンターの下から、アンネに違うカセットテープを差し出した。
「はい。こんなこともあろうかと、もう一本録ってあるんだ」
「わあ! ありがとう、カナイさん」
目を輝かせながらアンネはテープを受け取る。
「今日はもう帳がおりてあるから、帰ってから聴きなさい」
「うん」
そう言うと少女は受け取ったカセットテープとプレイヤーを鞄に入れ、出口の方へ向かった。
「一人でも帰れるかい」
「子ども扱いしないでください」
アンネは口を尖らせ、両手をばっと広げる。
「ほら――」
暗い道は青く照らされていた。
「――今日はこんなにテルスが出てて暗くないから大丈夫ですよ」
「わかった。でも、気をつけて」
「はぁい」
「またね」
頷くと、アンネはどたどたと大通りを住宅街の方に向けて走っていく。
カナイは彼女の後ろ姿を見送った後、茫々と青く輝くテルスを見つめた。