112:衣食住たちの戦場
「本当に鍵が開いてる。無用心だな」
207号室のドアノブを確かめるように何度か回してから、僕はゆっくりと扉を開いた。
「無用心というより、役に徹しているってことでしょうね」
僕はモニカに発言の意図を尋ねようとして、すぐにその言葉の意味するところに思い至って口を閉じた。この部屋に住んでいるキャットという人物は、どうやら彼女なりののっぴきならない理由によって自身を猫と思い込んでいるような振る舞いをしているらしい。そのため人の言葉も話さないし、人のとるような行動もしないのだ。要するにモニカは、猫に防犯の観念があるのかは知らないけれど、少なくとも扉の鍵をかけたりはしないでしょう、というようなことを言いたいのである。
それにしても難儀な生き方だなぁ、と僕は思った。事実は小説より奇なりとも言うし、もしかしたら「人と猫とが頭をぶつけて中身が入れ替わってしまった物語」の主人公が彼女であるという可能性も0ではないとは思うけれど、しかし十中八九の真実としてキャットはただの人間であろうし、ただの人間が人間以外のものに扮して生活するのは相当なストレスを要することだろう。少なくとも僕には出来ない。僕はフォークとナイフでハンバーグを切り分けたいし、定期的にフローリングを乾拭きだってしたい。
「何度も言うようだけど、会っても得るものはないと思うわよ?」
それに、こうしてモニカと会話を交わすことだって諦められないに違いない。勿論、他の皆や、キャットともだ。
「いいんだよ。こういうのは礼式が大事なんだからね」
ヨジロはやっぱり日本人よ、と後ろで小さく笑う声を聞きながら、僕は207号室の中へと一歩足を踏み入れた。
室内の電気は全て点いていた。前にモニカが一人で訪ねた時は真っ暗だったと言っていたので、恐らくその時彼女が点けて以来ずっと点きっぱなしなのだろう。部屋に入ってまず面食らったのが、室内の散らかり様に対してであった。廊下の両側には冬用に配給される毛布や服が土嚢のように詰まれており、その上にさらに山のような食器類が積み重なっていた。食器は恐らく、定時になると各部屋に配給されるホテル側の用意した食事を載せていたものだろう(各部屋には冷蔵庫の隣にダストシュートのような小さなボックスがあり、定時になるとその中に食事の乗った皿が届けられる。食事後の回収もこのボックスにより行われる。配膳のための業務用エレベーターといったところだろうか)。全て使用済のもので、月日を経て変色した液体を呪いのように器の中に湛えながら土嚢の上に散らばっている。見た目も強烈だが、臭いも強烈だ。僕は本当に戦場に迷い込んでしまったような気分になっていた。モニカは僕の後ろで、帰りたい、と呟いた。
衣食住たちの戦場と、彼らの亡骸に囲まれながら、僕は室内を奥へ奥へと向かって前進していく。このホテルの本棟客室は室内の一番奥まったところにメインの居住空間があり、そこへ向かう短い廊下の途中に風呂やトイレ、洗面所やささやかなキッチンなどが配置されている。「蟻の巣」と説明した方が直感的に想像しやすいかもしれない。僕は細い道を進む過程で小さな部屋を横目に通り越しながら、蟻の巣の最奥にある女王の間を目指して足をいま一歩前に出した。
僕はリビングルームの中央に立って腕を組んだ。ざっと見回した限りでは人の姿は見られなかったが、室内を満たしている強烈な人間の汗の臭いからしてこの部屋にキャットが潜んでいるのは間違いない。まぁ、警戒するのは当然である。記憶もないのに無防備にモニカを自室に招き入れた当時の僕でさえ、彼女がノックもなしに部屋に上がり込んできたとしたら眉を顰めたことだろう。
「・・・どこにいるのかしら」
モニカが鼻を袖で覆いながらあまり呼吸をしないように小さな声で僕に話しかけた。彼女は僕がキャットの居所について腕を組んで思案しているのだと思ったようだが、実際のところはそうではない。僕はこの部屋に立ち込めている異様で不衛生な「人間の汗の臭い」に、それほどの不快感を抱いていない自分自身について思案していたのだ。僕は何故この臭いが平気なのだろう。昔そういう環境にいたのだろうか。もしかしたら浮浪者だったのかもしれない。
「シー・・・」
紙が裁断機で二つにされる時のような音を拾い取って、音のしたと思われる方向に目をやると、ベッドの下でうず高く積み重ねられた布団の山の一つが微妙に上下していることに気がついた。モニカの袖を引きながら、僕は布団の塊の方へ一足分だけ詰め寄り、膝を追って目線の高さを合わせた。よくよく目を凝らすと、布団の隙間から大きな両の目だけがギラギラと輝いているのが窺える。
「こんにちは」
勇猛にも女性の部屋に侵入したはいいが、とくに計画も話題も用意してきてはいなかった僕は、とりあえず敵意がないことを示すために挨拶をすることにした。挨拶は友好を訴える上で最も重要な第一歩である。以前同じようなことをルピに言ったところ、「貴方は面接には強いけど規則には弱いに違いない」とからかい混じりに笑った。彼は若いのに色々なことを知っている。
「僕はヨジロというんだ。最近202号室に引っ越してきたんだ。君の噂は聞いていて、なんというか、きっと僕から行かないとずっと会えないだろうと思ったから訪ねてみたんだけど・・・鍵が開いてるからって勝手に入り込むのはよくないよね。悪かった」
「・・・・・・」
「たぶん記憶がないから色々な社会の常識が抜け落ちてしまってるんだな。でないと人の部屋に勝手に上がりこむなんてことは出来ない。悪さをする人間でもない限りね。まぁ、元々僕が悪い人間だった可能性もあるんだけど。時々自分が想像してるより嫌な奴だったらどうしようって思うことがあるんだよ。一人で、椅子に座ってる時なんかにさ・・・でもこれは記憶障害は関係ないかもしれないな。君もあるかもね」
何の話をしてるのよ、と僕の斜め後ろでモニカが呆れた声を漏らした。
「そうだ、椅子に座ってるって話で思い出したんだけど、この間椅子の背にもたれ掛かって天井を見上げていたらね、一部が軋んだように見えたんだ――」
僕がそこまで言ったところで、キャットが布団の城壁の隙間からゆっくりと頭だけを出した。彼女には猫の耳が生えていた。僕は時折動くそれを眺めながら、想像していたより美しい彼女の容貌について考えた。勿論、髪は落雷にでもあったかのように荒れていたし、口の周りは乾いた液体が幾重にも重なってひび割れていたし、何もかもが砂漠で死んだ駱駝の骨のように不健康な有様だったけれど、しかしそういったものを排除したところには隠し切れない美しさが感じ取れて、まるで夜露の葉の裏に隠れた蛍のように、僕の目の端に錯覚に近い残光を落とした。きっと彼女には最低限の人としての美の観念があるに違いない。僕がこのリビングルームに踏み込んだ時に最も危惧していたのが糞尿の状況だったが、そういった排泄物の類はどこにも見られないことからも、彼女の最低限の個としての矜持を感じられる。もしかしたら排泄の処理も彼女独自の“設定”に則ったものなのかもしれないけれど。
「一応言っておくけれど、あの耳は脳波で動く玩具よ。別棟の雑貨屋で見たことある」
僕の視線を追ったのだろうモニカが僕の疑問を一つ消化してくれた。
「へぇ。凄いものを作る国があるもんだ」
「あなたの国よ」
「ニャア・・・」
モニカはキャットの鳴き声を聞いて驚きで目を見開いた。些か不意をつかれ、僕も少し動揺してしまった。
「ミャウ・・・ニャオニャア・・・」
キャットは更に前傾して肩を覗かせた姿勢をとり、僕と視線を合わせたまま断続的に鳴き声を上げていた。鳴き声は定期的に低い声が混じることで一定のパターンが繰り返されていることが推察できた。
僕はキャットが僕に対して何か大切なことを語りかけているように感じた。この時には僕はキャットという人物の中に人間的な理性の存在を確信しつつあった。
「・・・珍しいわね。初対面でこいつから話しかけてくるなんて」
モニカが少し興味を抱いたように顎に指を当てて、僕の隣に並び立とうと足を前に出すと、途端にキャットが鋭い唸り声を上げた。一瞬静止したモニカだったが、構わずに僕の隣までやって来て、心底不愉快そうに顔を歪めてキャットを見下ろした。
「男好きの腐れ売女が」
僕はモニカに向けられたキャットの目を見た。警戒の唸り声を上げ続けるキャットは一見すると憤慨しているようだったが、僕は彼女の瞳の中に憐れみのようなものがチラついているのを感じ取った。