111:悪魔である可能性
「ええ、よろしく。ありがとう。・・・あー、えっと、これで僕の話はお終いなんだけど、最後に関係ない質問を一つしても良いかな?」
僕は一呼吸の間に部屋を見回した後、再び口を開いた。
「僕は今酷いデジャヴュを感じてるんだけど・・・実は前にもこういう事あったりした?」
部屋にいる全員が僕の発言の意図を図りかねているような顔をした。まったくもって正しい反応である。だって僕達は互いの自己紹介をするためにこの部屋に集まっているのだ。以前に顔をつき合わせているなんてことはあるはずがない。
しかしながら僕の中で勢いよく花を咲かせた既視感は、そういった前提や常識を覆しかねない程の力強さを持ったものだったのだ。それぞれが共通点のなさそうな容姿をして、僕と初々しい会話をする、殺風景な部屋に集められた数名の人物たち。こういった断片的な情報の集まりは、僕の心中に「既に一度経験している」という不自然ながら無視出来ない仮定と混乱を惹起させた。実はこのようなデジャヴュを僕はホテルの自室で目覚めて以降、大小の差はあれど既に何度か経験している。コンバットナイフを握った時、モニカの部屋で歓談した時、廊下を歩きながら紺の壁面をなぞった時。様々な時と場、状況において、唐突にそれは現れ、僅かな違和感の針を僕の背中に突き刺した。
「あるに決まってるだろ水臭ぇ!俺達知った仲じゃねぇか!」
「黙ってろよ、ホラ吹き野郎・・・」
モニカが血管の浮き出た拳を握りこみながら、鋭い眼光でバルジンを射抜いた。僕は彼女が早まって服の下に挟んでいる銃に手をかけないように急いで彼女を制した。
「いや、モニカ。彼の言ってることは本当だよ。僕は彼と会ったことがある。前にも言ったろ?」
モニカが短く舌打ちし、血走った目を伏せた。トサカ頭はモニカの威圧的な態度に気圧されながら、小さくなった黒目で僕と彼女を何度か交互に見た。
今回のデジャヴュは今までに無いほどにはっきりとしたものだった。正直なところ僕は今、このフロアに集まっている皆が失われた記憶以前から僕と付き合いがあって、全員で結託して僕を壮大なペテンにかけているのではないかと疑いたい気分だった。勿論僕は既視感というものが「実際に起こったこと」ではないことを知っている。デジャヴュは自分の過去に経験した出来事と類似しているから起こる一種の錯覚に過ぎない。だから、そういった常識と照らし合わせて考えるならば、恐らく一連の既視感は全て、僕が封をされた記憶の果てで似通った経験をしていたがために起きているフラッシュバックのようなものなのだろうということは容易に想像出来る。僕が彼らを疑うのはお門違いで、むしろ僕の記憶の底を刺激してくれる彼らとの出会いに感謝するべきなのだ。僕はモニカを宥めながら、難しい顔をして僕の言葉について頭を悩ませている隣人達に、今言ったことは忘れてくれ、と頭を下げた。
「・・・ええと、では次は僕達が自己紹介する番ですね」
205号室(モニカとキャットの部屋の間にある空き部屋だ)に俄かに立ち込め始めた嫌な空気を切り裂くように、ルピが救いの手を差し伸べた。
「誰から始めれば良いですか?」
「そうだな、じゃあ部屋番号順にお願いしようかな。まずはドゥドゥさんからということで良いですか」
そんな畏まらないでください、とドゥドゥは笑いながら頷いた。僕の隣に控えているモニカが「ナイフは持ってきた?」と小声で耳打ちした。
「名前はドゥドゥ。歳は今年で五十六になります。医者だと勘違いされている方が多いようなのですが、親が医者というだけで、私自身はしがない考古学者です」
「考古学者?」と僕は言った。「それって・・・ピラミッドとかを調べるような?」
「ええ、まさに私の専門はピラミッドですよ。ピラミッドと言っても、エジプト以外のピラミッドをよく調査しています。中南米、アンデス文明のものとか、最近は中国にも関心が向いていますね」
中国にもピラミッドがあるのか。知らなかった。
「皆さんからすると私は年寄りでしょうから、些か話しかけ辛いかもしれませんが、顔は老け込んでいても中身は同じ人間ですので。気楽に声をかけてください。年の功という言葉もありますし、何か力になれるかも」
僕達は各々頷いた。ドゥドゥの話を聞き終わって僕が抱いた彼の印象は「人当たりの良い好人物」だった。丁寧で紳士的だし、加齢による顔の皺の刻まれ方も、笑顔を絶やさない人間がつけるような“善い皺”だと感じた。正直、目の前にいるこの男性がモニカの言うように残虐な殺しを好むとは僕には到底思えない。世界の主要都市でアンケートをとっても、百人中百人が僕と同じ意見を持つのではないだろうか。しかし、それがどんなにありそうもないことであっても、完全に無いと言い切れることなんて世の中には殆どない。蟻と近代兵器を関連づけられてもピンと来ないけれど、蟻が近代兵器よりも恐ろしい殺傷能力を有している可能性は幾らでもあり得る。同様に、初老の男性が地球上に断末魔を轟かせるために降臨した悪魔である可能性だってあり得るはずだ。僕は蟻の言い分も近代兵器の言い分も真摯に訊く心の用意があったし、その気構えはドゥドゥやモニカに対しても例外ではなかった。僕は隣で抜け目無く周囲を窺っているモニカを見てそんなことを考えながら、彼女に声をかけた。
「次は203号室だから、モニカの番だよ」
モニカはキョトンとした顔を僕に向けた。僕は彼女の表情から「私もするの?」という暗号文を解読して苦笑した。
「もちろん」
「イヤよ。こんな嘘つき共に話すことなんかないもの」
「じゃあ、皆の話を聴いて、嘘つきじゃないと思ったら最後に話してよ」
モニカは先程僕が「もちろん」と言った時と同じように肩を竦めてみせた。
「そういうことだから、次お願いしてもいいかな」
「あぁいいとも。俺はバルジン。イスラエルの石油王の息子で十七で企業、ドイツ車を安く売る斡旋業務を裏で取り仕切って二十四で逮捕、内陸の貧民を塩で買収し刑務所を爆破して逃亡、その時ハリウッドスターと恋に落ちた。これでいいか?嘘つきのプロフィールはこれぐらいでちょうど良いだろ?おい」
バルジンはそう言ってモニカの方を睨んだ。モニカはいつでも飛びかかれるように膝を少し曲げ、腰に手を回している。先程のドゥドゥの穏やかな自己紹介によって緩和した空気が、トサカ頭の攻撃的な挑発で再び張り詰めてしまった。
「・・・悪かったよ。なぁヨジロ、別にお前のことを責めたわけじゃねぇんだからな」
バルジンが高まった感情を振り解くように頭を振ると、フっと肩の力を抜いて僕の方に向き直った。
「別にいいよ」
「あー、名前は、もういいな。いかつい名前だが、親父が田舎の武器商やってたからその名残だ。歳は三十二。生まれはパキスタンだが、物心ついてからは中東や東欧を転々としながら生きてきた。特技はこれといってねぇが・・・そうだなぁ、酒は死ぬほど好きだぜ。ヨジロ、お前は飲める人間か?」
「どうだろ」と僕は明後日の方に目を向けて首を傾げた。記憶が失われて以降は一度も飲酒をする機会がなかったので、自分がアルコールに強い人間なのかどうか本当に分からなかった。
「じゃあ今度試そうぜ!このホテルは酒は幾らでも手に入るんだ。安モンだけどな」
そう言ってバルジンは豪快に笑った。
順当に行くなら次は206号室のモウという過眠症の男の番であったが、残念ながら彼は今この場にはいなかった。バルジンが昨日と今日、二度の訪問を試みてくれていたが、二度ともモウからの返答は無かったそうだ。
「残念だな。モウとキャットにも来てもらいたかったんだけど」
「まぁ、キャットに関しては部屋から出ようとしないからな。連れ出せても会話になんねぇし」
「モウさんには次に会った際にヨジロさんの部屋を訪ねるように言っておきましょう」とドゥドゥが言った。
「まぁ、いつ起きるのかマジで分からんがなぁ。隣人の俺でもまだ五回しか会ったことねぇぞ」
バルジンの言葉を聞いたルピが少し身を乗り出した。
「すごい!僕まだ一度だけですよ!」
「なんだか神秘体験について話してるみたいな口ぶりだね」
「えぇ、モウさんに関してはもはやそれに近いと・・・あぁ、すみません、興奮してしまって。次は僕達の自己紹介でしたね」
「そうだね。お願いするよ」
ルピとベルベルには、先日僕と会って話したことは伏せておいてもらうようお願いしていた。彼らは僕のモニカに対しての意図をちゃんと汲んでくれて、今も初対面として振舞ってくれている。
僕はルピが自分とベルベルについて話している最中、今回の顔合わせで感じた諸々のことについて頭の中で整理していた。最も印象的だったのは、このフロアはモニカ以外の客人達の間にも大した交流が無かったということだった。ルピやベルベルのように局所的に良好な関係はあっても、全員の密度の高い結託のようなものは無いようだ。すれ違ったら挨拶をする程度の、カレンダーの日付のようにつかず離れずを守り続ける几帳面な関係だった。やはり機会が無かったというのが最大の理由のようである。
「そういえば今まであまり会うこともありませんでしたね。僕が給湯室に向かうぐらいしか部屋を出ないせいもあるんでしょけど」とルピがドゥドゥに言った。
「私は一階の娯楽室に足を運ぶことが多いので、給湯室も西階段を下りて一階のものを使っているんですよ」
「へえ・・・あぁ、今度皆さんで改めてお茶でもしましょう。ピラミッドのお話なんかも訊いてみたいです」
「モニカ、これで全員の話が終わったわけだけど」
モニカは少しの間僕を責めるような目で見上げ、簡潔に自身の考えを述べた。
「言ったでしょ。嘘つき共に話すことなんかない」