110:秘密のある女の子
モニカの部屋の内装はモダンでありながら、同時にエコでもあった。彼女が毎日必要だと思ったものだけが置かれていて、実に無駄がないのだ。改めて見回してみると、部屋全体を満たしている白と黒の鮮やかなコントラストでさえ、デザインの観点から決めたというよりは、余分なものがない調和に魅かれて選択されているようにも思えてくる。女性は即物的であるという社会通念が大手を振って通りを闊歩しているがために、ついつい彼女達は引き算より足し算が得意なのだと誤解してしまいそうになるが、モニカの部屋を見ているとやはり女性は圧倒的に引き算の方が得意な生き物なのだろうなと自分の薄ら揺らぐ考えを新たにすることが出来る。むしろ、男の方が余程過去の足し算ばかりしているに違いないのだ。
まぁ、僕だけは例外みたいだけれども。
僕の提案にモニカは動揺しているようだった。それもそのはずである。モニカは二人でいることで完結している今の生活に僕が満足を覚えていると考えていたからだ。
それに実際その考えは間違っていなかった。モニカと共に過ごす時間はとても有意義だ。まるで毛布に潜り込んだ猫のように僕の心は不思議と穏やかで温かくなる。しかし幾ら今の生活に満足していたとしても、僕はどうしてもこの提案をせざるを得なかったのだ。僕の失われた記憶の奥底には「停滞するということは酷く歪なものだ」という思いが強く根付いていたからだ。停滞してはならない。進み続けなければ破滅する。自分の過去にいったい何があったのか僕には知る由もないが、僕は僕自身である限り、この強迫観念を決して無視することが出来ない立場にいた。これを無視したら僕は僕自身ではなくなるという強い確信があった。
「・・・本気?」
「ああ、本気だよ。自己紹介をする。このフロアの人間全員集めてね」
それに、僕がモニカにこの話を持ちかけたのは何も自己保持だけが理由ではなかった。僕はモニカに周りの人間をより正しく認識出来るようになって欲しかった。勿論彼女がベルベルやルピ、あるいはバルジンについて僕より正しい認識をしている部分だって沢山あるだろう。だけど、それと同じぐらい間違った認識も持っているように僕には思えるのだ。自分自身のこととこのホテルのことについて正しい知識を得る。これが僕がこれから歩く予定である当面の人生の道程だったが、モニカが僕以外の人間に閉ざしている心を何とかするという道も、同様に僕は歩んでいきたいと考えていた。モニカは僕の他にも味方を作らないとならない。そうじゃないと、もし僕がこのB級映画じみた物騒なホテルで殺されでもした時、彼女はまた一人ぼっちになってしまう。
「で、でも、どうして急にそんなこと」
「ねぇモニカ、一つ質問しても良いかな?たぶんこの質問の答えが、そのまま君の疑問の答えになると思うんだけど」
「良いわよ」
「君はベルベルとルピのことを説明する時、こちらに危害を加えるかのような言い方はしなかっただろ?二人とも落ち着いていて、互いを守り合って生きている。解説はそれだけだった」
そうだったかしら、とモニカは小首を傾げた。
「なのにどうして、君はベルベルとルピを警戒する必要があると考えたんだ?何を理由に二人と距離をとるべきだと判断したの?」
モニカは言い淀んでいた。朝食のメニューが口に合わなかった子供のように気乗りしない顔をしている。
「僕が思うに、単に争いになったら自分に為す術は無いと思ったからじゃないのかな?つまり、数的不利や性別的不利があったから、たとえ人格的に脅威の見えない相手でも迂闊に近づけなかった」
彼女は何も言わなかったが、彼女の瞳は僕の言葉を肯定していた。
「ねぇモニカ、もう一度考えて欲しいんだ。今君は一人かい?」
モニカは僕の両目を見つめながらゆっくり首を振った。「違う」
「二人だ。僕達は二人だ。今だったらベルベルやルピとも対等に対応出来るんだよ」
「貴方の言いたいことは分かったわ。でもだったら、何も全員と会わなくても、危険度の低いあの二人組だけにすれば良いじゃない」
「君は前にこのホテルで生き残るためにも守りを固めるべきだと言ったよね。でも守りを固める方法は何も一つじゃないんだ。敵を減らすことだって一種の防御策だと思わない?」
「殺せば減るわ」
「いいや、むしろ増えるんじゃないかな」
「・・・でもコミュニティに所属するということはそれだけ隙が多くなるということよ。他人の考えなんて分からない。誰かが裏切ったり失敗したりするリスクを抱え込むなんて、危険すぎる」
「大丈夫だよ」と僕は言った。
「大丈夫だ。そのために僕がいる。生まれた隙は二人で補おう」
「・・・ねぇ、ヨジロ」
不安や悲哀で眼の奥を暗く濁らせながら、モニカが小さく僕に問いかけた。
「二人きりじゃイヤ?」
「まさか。女性と二人きりである以上の幸福なんて、この世にはないよ」
これは本心だった。あえて固有名詞を使わず女性と言ったのは、気障に慣れない僕の子供心だ。
「・・・分かった」
木目の美しい椅子の上でモニカは暫くの間静かにしていたが、目を覚ましたワニのようにゆっくり首を持ち上げると、おもむろに口先を動かした。
「でも条件があるわ。他の人間と会う時は、今後も絶対二人一緒。私と一緒じゃないと会っちゃ駄目」
「構わないけど・・・ねぇモニカ、以前から気になってたんだけど、どうして僕だけ他の人と扱いが違うの?」
僕は思い切って自分の疑問をぶつけてみることにした。モニカは少し驚いたように目を丸めた後、困ったように部屋のあちこちに視線をやった。
「秘密」
彼女の発した台詞は、大事な物を大事な物故に吐き出しかねているようなニュアンスを乗せて僕の耳に滑り込み、僕の脳内で連想を喚起させた。
「・・・駄目?」
「実は僕、秘密のある女の子は嫌いじゃないんだ」