101:ここは何処だろう
死体を引き摺ってドアの向こうに消えていく男の背を見送りながら、僕はぼんやりとした頭で、ここは何処だろう、と考えていた。もしかしたら先程の男に聞くべきだったのかもしれない。片手で死体の襟を掴み、もう片方の手に硝煙の立ち上がった銃を持った男の去りゆく肩を叩いて、観光客のような笑顔で「ここは何処ですか?」と尋ねれば、教えてくれる可能性も幾分かあったのかもしれないが、しかしその場合殺される可能性も同じぐらいかそれ以上にあったんじゃないかなぁと思う。僕は自分が殺されてまで新天地を観光したくはなかった。
軋む体に鞭打って立ち上がると、僕は扉の周囲を彩る血だまりを避けるようにして仕方無く部屋の奥に入り、一先ず辺りを観察することにした。とにかく頭が痛かったし、体も発掘されたばかりの土器のように古びていて今にもバラバラになりそうだったから、本音を言ってしまえば今すぐにでも横になってとっくりと眠りたかった。そんな僕の旺盛な欲望が押し留められていたのはひとえに常識という観念の存在故であった。普通の人なら、目の前で人が殺された状況で、自分の居場所が分からないのに、翌日の朝食を考えながらスヤスヤとはやれないなぁと思ったのだ。僕は出来る限り常識人でありたかった。結局常識人であることが、人生においては一番楽だからである。
部屋はこじんまりとした個室だった。どうやらホテルの一室のようである。ドアから縦に長く、ベッドがあり、ランプがあり、机や小型冷蔵庫があって、シャワールームとトイレが一緒くたになっているなら、それはもう僕の中では完全にホテルの一室だったし、客観的に捉え直しても一つの概念としてホテルの一室と定義づけてしまって良いんじゃないだろうか。ドア側からやって来た僕の左手側にベッドがあり、右手側に机があって、その間の対面の壁には一つだけ小さな窓があった。全開に開け放しても人間がギリギリ通れるかどうかぐらいの大きさの、ホテルの一室には些か不釣り合いな小さな窓で、おかげで部屋の中は外の光が入らず薄暗かった。僕は窓の向こうを覗きこんだが、どうやらこの建物は漢字の「口」のような形状で、またこの部屋は建物の内側に位置する部屋らしく、見えたのは「口」の内側と中庭だけだった。頭痛が酷いため細かく観察する気にはなれなかったが、ざっと一望した感じでは口の中はあまり衛生的とは言えなかった。
こめかみをさすりながら、僕は木製の椅子に座って机に肘を立て、どうしたものかなぁと考えた。そろそろ部屋の外に顔を出してみても大丈夫だろうか。出来る事なら外に出て更なる新鮮な情報を手に入れたかったが、顔を覗かせた瞬間銃口と目が合うなんて状況はあまり好ましくない。僕は自分のアイデアに逡巡しながら、少しでも時間を潰すために机の抽斗に手をかけた。中には手紙が三通入っていた。僕は永遠に読まれる機会を失った手紙の心情を慮って(僕はこの部屋の居住者が先程殺された男だと仮定していた)、同情して手紙を一通開いて中から便箋を取り出した(これは決して非常識な行いではない。先程も述べた通り、手紙の心情を慮ったのだ)。
「お前は敵対する相手を間違えている」
便箋にはこう書かれていた。僕は手紙を元の形に戻して、抽斗を閉じた。やはり他人の手紙なんて読むものじゃない。メッセージの意味が分かるわけがないし、頭が余計混乱するだけだ。
「おぉ、ヨジロ!生きてたか!」
ドアの方に顔を向けると、扉の縁に手をかけてこちらを覗きこんでいる男と目が合った。とさか頭の男は誕生日でも迎えたかのように立派な笑顔をこちらに向けていた。
「俺ぁてっきり、さっき引き摺られてったのがお前かと思ってたぞ」
酒焼けした声で男がそう言った。僕は男の発した言葉の意味を考えていた。ヨジロ?ヨジロとは、人の名前だろうか。あるいはそれが僕の名前なのかもしれない。
僕は、この部屋のことに限って覚えがないというわけじゃなかった。正確には、何も覚えていないのだ。この部屋にいる意味も、この部屋に来た道程も、勿論、僕自身が何者であるかについても、僕には何一つアイデアがない。切り株の縁の新芽や突然変異した細菌のように、今の僕の頭の中は生まれたてで真っ白なのである。今なら自分が女だと言われても素直に信じることが出来る(勿論、その後に幾つかの確認はする)。
「ん?ヨジロ・・・だよな?」
とさか頭が僕の姿を見て首を捻った。
「それにしては何と言うか、小奇麗というか・・・お前、傷無かったっけ?腕とか、目んとことかにさ」
「どうだろう」と僕は言った。「分からないな」
「まぁ別にいいや。ここでそんな細かいこと気にしてたらやってけないわな」
男は笑いながら部屋に踏み入ろうとして、入口に広がった血溜まりに目をやってゆっくり足を引っ込めた。
「ここも掃除しなきゃな・・・後で手伝いにくるよ」
そう言って男は手を振り、再びドアの向こうに去っていった。僕は誰もいなくなった部屋の中で「ありがとう」と言いながら、一先ずまともな人間の存在を確認したことで胸を撫で下ろしていた。ここは殺人鬼の巣窟で、僕はホラー作品の主人公のように眠らされ誘拐された挙句、狂人達の餌としてこの場所に放り込まれた憐れな子羊なのではないかと心配していたが、どうやらそういうわけではないらしい。少し刺激の豊かなホテルというだけのようだった。
(しかし、血だまりの上でヘラヘラしながら傷や掃除の話をしている人間は果たしてまともと言えるのだろうか)
僕は先程のとさか頭の男に自分の疑問をぶつけるのを忘れていたことを思い出し、溜息をついた。どうも駄目だ。頭も体も破裂しそうで、今のままじゃまともなことなど何一つ出来そうにない。冷蔵庫から飲み物を取り出す気力も無い。僕は一先ず体を休めるのを優先することに決め、備え付けのベッドの上に倒れ込んだ。ベッドの質は良いとは言い難かったが、肌触りは悪くなかった。
記憶はそこで一度途切れる。