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BLUE  作者: 数科 学
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 鍾乳洞、とまでは言えなくても、切り立ち、またつららのように垂れる岩石が匍匐植物のごとく蔓延るようにして嘆きの洞窟内を飾っていた。岩肌に空いた、人一人通るのがやっとな入口からの微細な光量以外ないはずなのに、洞窟内は変に青色とした光で満たされていた。不思議と、昔聞こえていた女の啜り泣きはなくなっていた。

 外気から隔離され冷気さえ感じる洞窟内ではあったが、不気味さはなく、むしろ神秘的な雰囲気に充ち満ちていた。

 ユウちゃんはずんずんとその中を進む。一心に前を向いて歩いていた。僕の方も、さっきまでの疲労を嘘のように忘れ、ユウちゃんの後ろにぴったりとついて行った。ときどき、ユウちゃんの苦しそうな声が洩れる。その度に右腕をじっと押え「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と自分に言い聞かせながら軽くうずくまりしばらくすると、また脚を進める。どうしてか、声をかけてはいけない気がしたので、始終僕は黙っていた。それを幾度か繰り返して、ひとつ大きな傾斜の前に出た。それほど高さがあるわけじゃないけど、僕の身長でもその先に何があるかは見ることができなかった。

「ユウちゃん、ここ?」僕をどこに連れて行きたいのかは分からないけど、ユウちゃんはここで歩みをとめた。

 ううん、この先、と苦しそうな声を上げる。喘ぎとともにユウちゃんは膝を折って地に伏した。右腕をいままで以上に押さえていた。

 大丈夫? と僕は彼女の隣に駆け寄る。青の世界にあって白い彼女は一種異様な感じがした。見せてごらん、と促し彼女の左手を剥がす。驚くことに、抱えていた右腕は、昼間と違い黒々として、腕が変な方へ曲がっていた。いや、折れている、と言った方がいい、それぐらいの曲率だった。どうしたの、っていう言葉がのど元まで出かかっているが、声にすることはなく、かわりに口腔に溜まった唾を嚥下した。陽の下からの変わりよう、その異形ぶりに僕は静かに驚いて、同時に背筋を冷たいものがなめていった。スグルちゃん、息も絶え絶え彼女は言葉を続ける。スグルちゃん、今日は一日楽しかったよ、本当に楽しかったよ、こんな時間がこれからもずっと、ずっと、続いたらいいなって思ったけど、でも、そんなわけにもいかないんだ、どんなにスグルちゃんともっと遊びたいって思ってもね、時間がそれを許さないの、あたしはずっとあたしのままだけど、でもスグルちゃんはずっと成長していっちゃう、駅前で会った時、スグルちゃんが大人になってて、一瞬誰だか分らなかったけど、でも、すぐにスグルちゃんだってわかったの、だってスグルちゃんの目はとても優しい目をしてるから、いつもいつもあたしを気遣ってくれるとても優しい目をしていたから、と半分声にもなってない掠れたヒュウヒュウという声で彼女は続ける。僕はいまいち状況が呑み込めないでいる。何を言っているのだろうか。彼女は、信じられないって顔をしてるね、でも、と言って涙で濡れる瞳を僕に向けた。その双眸は何かを訴えていたけど僕にはわからない。彼女の唇が震えながらも形を作った。き、い、て、という形だった。僕は頷くと、顔を彼女のそれに近づけた。吐息の交わる距離に近づいたけれど、そこには僕の息吹しかなかった。目の前の女の子がゆっくりと目を閉じると、強烈な真っ白な光が僕を、僕の意識を呑み込んだ。


* * *


――優なんてもう知らない! 絶交だ!

 全身の皮膚と言う皮膚が泡立った。怒りのためではなかった、恐怖と悲しみによってだった。

「すぐるちゃん、待って……!」

 優は僕を追いかけようと立ち上がったけど、変な座り方をしていたせいで足がしびれたのか(もつ)れてしまい、板張りの床に顔から激突してしまう。とても痛そうだった。

「う、うぅっ……」

 優は泣きだしたが、すぐさま「スグルちゃんがいつも言ってた。泣いちゃだめだよって、優は笑顔の時が一番かわいいって」と誰もいない部屋で一人自分を鼓舞するように呟き、涙をこらえていた。右腕にまかれた包帯がはだけ、その下からは黒々とした痣がいくつものぞいていた。痛みを耐え、しばらくすると、優はよろよろと玄関を出て行った。僕を追いかけて、ゆったゆったと早歩きをしている。さっき転んだ時に包帯を巻いた腕を思いのほか痛めてしまったんだろう、それできっと走ることができないのだと、その姿から想像できた。

 ゆったゆったと早歩きをしていると、向こうから信吾がのそりのそりとやってきた。瞬間、優の背がすこし縮こまったように見えが、それでも意を決したように優は信吾に声をかけた。

「ね、ねえ、スグルちゃん、知らない……?」

――あぁ? スグルぅ?

 信吾はいかにも面倒くさいという顔をしたが、何かを思いついたのか、すぐにニタァという悪巧みをする顔になった。

――知ってるぜ。スグルなら、嘆きの洞窟に行った。俺は見た、たった今な。

 優の顔色がみるみる青くなっていった。ダメだ、奴の言葉を信じちゃいけない。

 優は一心不乱に浜辺へ、岩場へ、嘆きの洞窟に向かっていった。

 ダメだ、いっちゃいけない。心の叫びに共鳴してか、優を中心にして、また白い光が強烈に全てを包みこんでいった。


* * *


 意識を侵していた光が徐々に退()いていくなか、唇に確かなぬくもりがあった。僕は優を留めようとその小さなつぼみに口づけをしていた。その感覚があった。ゆっくりと目をあけると、僕は虚空を抱いているだけだった。

 蒼い世界のなかで、唇に残ったかすかな湿り気が炎症を起こしたように熱かった。

 傾斜の先に何があるのか。予感はあった。でも一歩を踏み出すことができない。優の存在を噛みしめるようにゆっくりと立ち上がるけど、僕の脚は前には出ず、逆に後ろ退った。その先にあるであろうものを直視するのが、この上なく恐かった。僕は、僕は。

 逃げ出そうとしていた。

 その瞬間、何かがパチリと音をたてた。そうだ、僕は逃げていたんだ。すべてから逃げていたけど、それはたった一つ、優から逃げたことから始めっていた。

 僕は自身の突然の転校のことを知って、僕が居なくなったら優がどうなるか、想像するのが怖かった。だから、あんなにむきになっていたし、優には最低でも一人で信吾に向き合えるようになってほしいという、焦りがあった。最終的にはそれらすべてを見ないようにして、僕は優から逃げてしまったのだ。

 だから、今度こそは逃げてはいけない。何が待ち受けていようと、受け止めなくてはいけない。強く、強く僕はそう悟った。

 僕は一歩を踏み出した。一歩一歩と傾斜をのぼっていく。登りきると、そこにはすり鉢状の、どこまでも透き通った青の湖があった。天井からは一条の光が降り注いでいる。湖には静謐な波をたたえ、清浄な光を拡散していた。

 そのほとりに、人影を見た。僕は登りよりも急な斜面を下りて、彼女の隣に寄った。

 白いワンピース姿をした、白い小さな(むくろ)が、静かな青にたゆたっていた。

 僕は、優しく、痛々しく変形した右手を、彼女の頭を、撫でてあげた。「ごめんな、ごめんな」と何度も何度も、震える唇から洩らしながら。幾条も幾条も頬に涙の軌跡を重ねながら。

 そして、僕は優の亡骸に、これからは逃げないよ、と静かに、けれども強く確かに誓いを立てた。

 仕事からも、茉莉花からも。

 一通り、感情の整理をつけてから、僕は長谷川さんを呼びに戻った。

 ふと、


――ありがとう。じゃあね、スグルちゃん。


そんな風の声が聞こえた、気がした。


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