5
浜辺を西に向かうと、岩場がある。小さな入り江であり、引潮の時は天然の岩礁が潮溜りろ作り、様々な生き物で賑わう。そこは子どもたちの絶好の遊び場であり、そして子ども心をくすぐる危険とスリルに満ちた別世界でもあった。ユウちゃんは一心にそこに向かっていた。
「ユウちゃん、どこ行くの」
不整地を革靴で行く僕を尻目にユウちゃんはすいすいと先へ行ってしまう。ときどき立ち止まり、振り返りってはちゃんと僕がついてきてるか確認して、待っていてくれる。たまに、しゃがみ込んで潮溜りの中を観察したりすることもあった。
「ねえ、どこへいくの」
とうとう僕は靴を脱ぎ靴ひもで首にかけ、ついでに上着も肩にかけて腕まくりをして目の前を行く小さな冒険者のあとを追った。
ユウちゃんはどんどん奥の方へ足を進めるけど、この先はさらに険しい岩場しかなく、その先には嘆きの洞窟ぐらいしかない。嘆きの洞窟というのは、洞窟内から女の啜り泣きが聞こえるとして、僕ら小学生がそう呼んでいた、所謂肝試しスポットの一つだった。洞窟と言っても岩肌に亀裂が入っていて、そこから空洞が広がっているらしという程度のものだった。不気味がって誰も中に入った者はいなかったのだ。けれど、多感な小学生、話に尾ひれ背びれがついて、いつの間にか、洞窟の奥には幽霊がいて毎日啜り泣いているんだ、なんて噂になった。最終的には、啜り泣きを聞いて興味を持ったり心配したりして洞窟に入った者を食べてしまうという、そんな恐怖話にまで膨れ上がっていた。
荒唐無稽もいいところだ。けど、当時小学生だった僕らには必要以上のリアリティを持っているように思えてならなかった。
ユウちゃんの進む先には何があるのだろうか。もしかして、この先にユウちゃん家があるのかもしれないと一瞬思ったけど、周りの景色は人の居住を頑なに拒んでいるようなもで、僕はすぐにその莫迦げた考えを捨てた。そうすると、この先にはもう嘆きの洞窟しかない。
やっとの思いで追いつくと、ユウちゃんはしゃがみ込み、右腕を抱えるようにして潮溜りに目をこらしていた。
「なにか、いた?」僕は膝に手をつき肩で息をする。
「なにもいない」
なんにも。つまらなそうに、あるいはなんだか悲しそうに、ユウちゃんは呟いた。
「ねえ、スグルちゃん」
「なに」
ついと顔をあげたユウちゃんの黒檀の瞳には、新しく寂しさと言う色が加わっていた。
「今日は、あたしに付き合ってくれて、ありがとう」
「突然どうしたの」僕は近くの適当な高さの岩に腰を下ろす。
「スグルちゃん、スグルちゃんは毎日が楽しい?」
弱々しい声音だった。
「楽しい、のかな……」
「さっき、大変って言ってた」
「そうだね」じっと、ユウちゃんは僕を見ている。「大変だね」逃げ出したいほどに。
「もし、もしよかったら、あたしと――」ユウちゃんは何かいい淀み、必死に次を紡ごうと、けれどそれを言わないようにと、背反する二つの事柄を口いっぱいに含んでどうしたらいいのかと悩んでいるように苦悶の表情を浮かべる。
今度は僕の番だ。辛抱強く次の言葉を待った。
「もう少し、いっしょにいてくれる。あと少しだけ」何とかそれだけ吐き出すと、ユウちゃんはしっかりと僕の目を見て答えを待った。
「もう少しどころか、お母さんが見つかるまでいっしょにいてあげるよ」
「そう」と顔を伏せて「あたし、お母さんには会いたくないな」
「それじゃあ、お父さん?」
「お父さんも、いやだな……」
ユウちゃんは抱いている右腕をギュッとした。
この様子だと、何かあるのかもしれない。もしかしたら、迷子でなくて家出なのかもしれない。
「お家には帰りたい?」
ユウちゃんは首を横に振った。
「帰るお家は、もう無くなっちゃった」
なんだか複雑なようだった。これ以上は踏み込んではいけないような気がして、僕は黙りこむしかなかった。僕が言葉を探す番だった。
「いっしょに、いてあげる」言葉を探しながら僕は言う。「そう、ユウちゃんが大丈夫だって思えるまで、いっしょにいてあげる」
「あたしと、いっしょに……」
「うん」
「スグルちゃんには、いま、お家、ある?」
「あるよ」
「お母さんは?」
「うーん、いま住んでるところいはいないかなぁ」
「お父さんは?」
「いないね。でも」ちょっとためらいつつも「恋人ならいるよ」
ユウちゃんはさっと面を上げて、例のまん丸の目をさらに見開いていた。今日一番の衝撃だったみたい。
「さっき、あたしと結婚するって言ったのに……。二股良くない」
そんなこと、言ってないんだけどなぁ……。
「そうだね、ごめんね」今度は真摯だったと思う。
「けど、彼女であって、奥さんじゃないんだよね?」
「う、うん……」痛いところつかれた。そのことで、いろいろと悩んでいたりするんだけどな。
「スグルちゃん、その人、好き?」
「好きだよ」
「あたしとどっちが好き?」
ちょっと僕は言葉に詰まる。
「ううん、ごめんね、なんでもない」
スグルちゃんはとっても優しいから、特別に幸せになってほしいな、ともう一度俯きながら。
ユウちゃんの言葉を聞きながら、僕は胸がちくちくと痛んだ。
――とっても優しいから。
本当だろうか。僕にはどこか現実感を欠いた感想だった。優しい、か。優しくなんてない。僕は全然優しくなんてない。茉莉花の気持ちをわかっていながら、こうしてまだ逃げ続けている。茉莉花だけじゃない、仕事からも、自分からも……。
空を仰ぐと、だいぶ日が傾いでいた。それでも蒼さは変わらず、堂々としている。
どうして、僕はここ大事な局面で逃げ出してしまうんだろうか。
素直な疑問という気持ちが僕の心の深奥から漏れ出た。そう、どうして僕は逃げ出しているんだろうか。
そのさらに奥底に、なにか重要な何かがまだ隠れているような気がした。それを掘りだそうとぼんやりと空を眺める。けれども高くそびえる入道雲は答えを教えてはくれない。
「あたし、もっとスグルちゃんと一緒にいたいと思っちゃったけど、でもスグルちゃんにはスグルちゃんの道があるんだと思う」
だから――。
ユウちゃんは立ち上がって、歩みを再開した。答えがいだせない僕は、粛々とした気持ちで、そのあとをついていった。
嘆きの洞窟までは、ほんの少しだった。