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白波が浜辺の砂をあらっている。僕らは浜辺に面した防潮堤から足を投げ出し、ぼんやりと海を眺めた。
「スグルちゃん、元気ないよ。飴玉足りなかった?」
ユウちゃんはワンピースのポッケを弄り飴玉を探すも、もう品切れのようだった。
「ごめんね、あたし全部食べちゃった」唇をとがらせる姿がかわいらしい。
「別に僕は大丈夫だよ。ありがとうね」
「本当?」ユウちゃんは僕の目をじっと見た。自然僕もユウちゃんの目を見る。黒い瞳にはどこまでも深みがあった。深みの分だけ、僕の心ものぞかれている、そんな気がした。
「うん」
「うそ」
即答だった。小学生の真剣な眼差しに一閃されるサラリーマンの図が、ここに成立していた。サラリーマンの敗北の二例目である。
「あたしでよかったら、お話、聞いてあげるよ」
奇妙な感覚だ。いや、小学生に心配されてるってのもそうかもしれないけど、それ以上に優の容貌をした女の子が僕を慰めようとしてくれているというのが奇妙だった。僕はいつも泣き悲しむ優の話を聞いて、慰めていた。時には胸を貸してあげることもあった。だから、いまの、この見た目上の立場の逆転は、なんだかこそばゆいものがあった。
潮騒が二人の間を流れる。太陽は一日で一番高いところから、少し西に向かっていた。じっとりとした汗が全身を蝕む。
ユウちゃんはぷらぷらさせる自身の脚を眺めながら僕の言葉を待っていた。おませさん、て言葉があるけど、大人びてることは決して悪いことばかりじゃない。少なくとも隣に腰掛けるユウちゃんをみてると、そう思えた。いや、見た目以上に大人びてるからいいのかもしれない。見た目通りに大人びていると、どうしても僕は緊張してしまうことがあるからだ。たとえば、茉莉花とか、ね。
「ありがとう」
言いながらも、僕の気分を滅入らせているのは何かを考えた。ユウちゃんはただずっと脚を風に揺らせていた。
なんだろう。僕はどうしたんだろう。
それはここ数年、顧みることのなかった内省でもあった。まず真っ先思い浮かんだのは、僕の胃を苦しめる仕事と、そして恋人とのことだった。
「たぶんね」僕は、自身の内心を観察しながら注意深く言葉を紡ぐ。「いろいろと大変なことがあったんだ」
ユウちゃんは脚をぷらぷらさせるのをやめて僕の方を向いてくれた。
「だから、僕はそれら一切から逃げてきたんだ」
潮の香りが一段と強く吹いてきた。
そうなんだ、と相槌を打ってくれた。なにそれ、とか、どういうこと、とか追及することなく、ただ僕の言葉を待ってくれていた。こういうところは、優よりも茉莉花に似ている気がした。茉莉花はいつも物静かに、僕のそばにいてくれる。それが同級生の女の子とは違っていて、僕は年上の彼女に魅かれていった。そんな彼女も僕を受け入れてくれて、同棲を始めて六年近くになるけど、同じ時間を重ねれば重ねるほど、このままの中途半端な状態に申し訳なく思う僕の心は押しつぶされていった。彼女は、今年で二十九になった。
「ねえ、ユウちゃん」ぼんやりと茉莉花の柔らかい太陽の匂いを思い出しながら僕は「ユウちゃんは結婚するならどんな人がいい?」ポツリと口にした。
「え?」
何の気ない言葉だったんだけど、なぜかユウちゃんは目をいっぱいに開き頬を紅らめていた。なにか僕と彼女の間で意思伝達に齟齬が発生したみたいだ。
「スス、スグルちゃん……」彼女は尻つぼみになりながら何とか言葉を紡いだ。そうしてから息を呑む気配が伝わってきた。変な緊張が二人を包んでいた。ここは年長者の男子として紳士の対応をしなくてはいけない、気になった。社交辞令で「う、うれしいな、ははは」と僕はそう口走っていた。完全に間抜けである。紳士であるかどうかはともかく、真摯な言葉ではなかった。
するとユウちゃんは俯いてもじもじとしながら傾げるように僕に身体を預けて「ありがとうね」と小さな、小さな声で言った。ものすごく感情のこもった声音だった。こらこらこら、おませさん、根本的な誤解をしていっらっしゃいますね。と、いっても小学生に社交辞令を使う僕が悪い。
「でもね。あたし、結婚できないんだ」
小学生の想像力の逞しさに僕は少したじろぐ。早とちりの具合は優に似てるかな。
そうかぁ、と言葉を濁しながら、二人で海を眺めた。
――結婚。
そういえば優ももう結婚してるんだろうな。ウェディングドレスを纏う大人になった優が瞼の裏に現れる。知らない誰かと家庭を築いている優は、どんな女性になっているのかな。幼馴染なのに何も知らないことが悔しくて、なんだか胸の奥が甘酸っぱく締め付けられる気がした。循環器科にも掛かった方がいいのかもしれない。
そんなことを考えながら、段々と僕はまどろんでいった。
* * *
夢の中で小学生の僕は怒っている。目の前の僕は怒っている。
――ねえ、どうして怒ってるの?
「わからないの?」
僕はあちこちに擦りキズをいくつも作っている。ガキ大将の信吾と喧嘩して出来たキズだ。それはそれは大立ち回りを演じて優を守り通したのだ。信吾と拳を交えたのはその時限りだ。喧嘩の始まりは、確か、優が右腕に包帯を巻いてきたことで、信吾がそれについて触れてはいけない領域に踏み込んだのだ。
そのキズの手当を受けに、優の家にお邪魔している。運のいいことに優の両親は仕事でいない。
――ごめんなさい……。
「そういうとこ、すぐに謝るところが信吾たちになめられるんだよ」
斜向かいに座る僕は激昂している。まだ幼すぎる僕は焦りと怒りがコントロールできていないのだ。
優のためを思って、優のために。
けれど、当の本人は全然改善ということをまるで知らないかのようで。僕の怒りのベクトルは信吾にも、優にも向いている。焦りがあったからだ。この日、父親の急な転勤でこの町を去り、遠くの学校へと行ってしまうことになっていた。だから、これから優は誰が守ってやれるのかという焦心があった。
――ごめんなさい。
「だから!」
びくっと身体を強張らせる。その際に塗料のはげかけたちゃぶ台から淹れたてのお茶が目の前の僕に降りかかった。
「あつッ!」
――わっ! ごめんなさい! 大丈夫!?
すぐにぼろぼろの台布巾を僕にあてがう。なんで真夏に、熱々のお茶を出すのか。僕には理解できていない。でも、優の家の冷蔵庫をのぞいてみれば、きっと答えはわかっただろう。
「もう、もう! いいよ! 優なんてもう知らない! 絶交だ!」
僕はキズの手当ても中途半端に優の家を後にした。
――すぐるちゃん、待って……!
背後から掛かる声に抗するように走って、逃げた。
次の日、僕は転校した。
* * *
ひどく懐かしくて、悲しい夢を見ていた気がする。目を覚ますと、ユウちゃんは僕の大腿を枕にしていた。どこか悲しそうな表情で、安らとはいえない寝息を立てている。熱いから当然と言えば当然かもしれないけど、僕は何だか不安になってユウちゃんを起こす。彼女の目尻から頬を一条の滴が伝った。
「うー。おはよう」目をこすりながら上体を起こす。一見すると変化はないようだけど、なぜだか僕は、ユウちゃんが疲れているように見えた。
「大丈夫?」
「うー、なにー」
「あ、ううん、なんでもない」
どれくらい寝ちゃったのかな、と思ったけど太陽は先ほどとほぼ同じところにあるように見えたから、そんなに時間は経っていないのかもしれない。
「さ、いこうか」いつまでもここでうだうだしているわけにもいかない。
「大丈夫ぅ?」
まだ半分眠気が抜けていないユウちゃんが訊いてきた。何だろうと思ったけど、さっきの僕の落ち込みのことをまだ気遣ってくれていたのだとわかると、なんだかものすごくもし訳ない気持ちになった。早く、ユウちゃんのご両親を見つけてあげないと。
「大丈夫だよ、ありがとね」
僕は精一杯の優しさでユウちゃんの頭を撫でてあげた。されるがままに目を細めるユウちゃんは、まるで猫みたいだった。ふぅ、と一通り満足すると、ユウちゃんは一変して真面目な顔で問うてきた。
「スグルちゃん、あのね、スグルちゃんについてきてほしいところがあるんだ」
瞳に映る覚悟に僕は、思わずたじろいでしまった。どこ、と聞く前にユウちゃんは腰かけていた防潮堤からぴょんとおりて、まっすぐと浜辺の方へ行ってしまった。その後ろ姿には、僕がついていくことを微塵も疑わない変な純粋さがあった。
「スグルちゃん、はやくー。置いてくよ」
ユウちゃんはどんどんと浜辺へ降りて行く。
本当に奔放な子だ、と思った。