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逃げるようにして、僕は潮騒に満ちたこの町に帰ってきた。
かれこれ、この町を離れてからもう十五年近くになる。けれども、あの頃の町並みはそのままで、駅舎からのぞく水平線は蒼穹と交わって太陽の金色に輝いていた。ホームは蝉の鳴き声と、潮の香りで満ちている。何もかもが本当にあの時のままで、一瞬だけ、タイムリープをして、幼かった僕に、黄金に輝く水面に負けないくらいに何もかもが輝いて感じられたあの頃に返ってこれたような気がした。
すぐそこの改札に向かうなか、窓ガラスに反射した僕の姿が目に入った。よれよれのスーツに、痩せこけた頬、うっすらと無精ひげをのぞかせて、お世辞にも元気があるようには自分自身でさえ見えなかった。上司に進められるままに休暇を取り、ぶらりと僕はこの地へとやってきていた。同棲している茉莉花と会うのもなんだか気がひけたので、昨日はネット喫茶で一夜を明かした。
なぜ僕はこの町に来たのだろう。生まれてから十年ちょっとしか住んでいなかったこの町に。
自分でもよくわからない。不思議なことに、気がついたら足が向いていたのだ。何かこの地に思い出があるのかと考えてみると、まだガキでしかなかった自分の、どこにでもあるような日常しか思い浮かばない。友だちだった幼馴染と毎日、ガキ大将の目を盗むようにして冒険をしていた、そんな思い出だ。
うらぶれた改札を抜けると、県道のアスファルトを挟んで海が迫り来るようだった。本当に海以外、何もないところだった。別に見栄えのいいところでもない。向こうに見える浜辺のお客はあの時から変化はなく、地元の子どもたちだけだった。黄色い声があたりに響き渡っている。彼らはいまも嘆きの洞窟を恐れているのだろうか。
ふと、駅のロータリーにある大きな一本杉がつくる日陰からこちらをのぞく白いワンピースの女の子の姿が目に入った。友だちと群れるわけでなく、ぽつんと、その真ん円の目をさらに見開いてこちらを見つめている。なんだろう、どこかで――。
僕は、強烈な既視感というものをその時初めて味わった。照りつける陽光よりも強力で、冴えわたる蒼海よりも鮮明だった。幼馴染の優が、幼少期の姿のままでこちらを見ている、そんな感覚だった。心臓が飛びきりのビートをひとつ刻んだ。血液がひと固まり体中をめぐり脳に酸素が届けられると、冷静さが僕に降りてきた。いくらなんでもそれはないな、優は僕と同じ歳になっているんだから。
白衣の女の子はじっとこちらを見ている。女の子の視線を追って僕は背後を見やるが、改札口以外に何も見当たらない。強いて言えば、伊豆下田線の観光促進用の地味な広告が風になぶられているくらいだった。
「スグル……」
名前を呼ばれびっくりして、僕は目の前に向きなおした。ワンピースの女の子が下から僕を見上げていた。濡れ羽色の黒髪からはツンとした鼻梁と蒼穹を入れ込んだように澄み切った双眸がのぞいていた。本当に、優と瓜二つだった。
「えっと……」時間を飛び越えた再開のような出会いに僕は戸惑っていた。いや、本当のところはいきなり名前を呼ばれて驚いていた。どう声をかけたものかと思案する僕。
「スグルちゃん」
どうして名前を、と思ったら、少女の視線の先、スーツの内ポケットに刺繍された名前が風に翻り露わになっていた。
立花優。
『優』と書いてこれでスグルと読む。幼馴染と同じ字なだけに、小学生の時はしょっちゅうからかわれた。僕たちをおちょくる中心にはいつもガキ大将核だった信吾ってやつがいて、「やい、夫婦!」とか言って、僕はムキになって否定したり訂正を求めたりした。名前が同じで夫婦って、といまなら相手にもしないだろうに。でもそれが小学生特有の自意識の塊みたいなものだった。言葉の意味なんかよりも、行動が僕をたきつけるのだった。
それにいつも三対二でこちらが劣勢、しかも信吾個人にも腕っ節じゃ敵わないことを知っていたから、何もできないのが余計歯がゆかった。優はその度に僕の背中に隠れて「スグルちゃん、もう行こうよぉ」と弱々しく主張していた。
「スグルちゃん、スグルちゃんだ!」
花の蕾が開くような力強さで、女の子は目を爛々と輝かせうれしさを全身から放出している。何がそんなに愉快なのか、僕は首を傾げるしかない。
「ちょっと落ち着こうか、ね?」
「うん」
「えーと、ごめんね、君は、その、誰かな?」
「スグルちゃん」
「そうだね、僕はスグルだよ。君のお名前はなんていうのかな」
僕のその疑問に、女の子は眼を見開いて肩を落として「覚えてないの」と言った。僕は頭をひねった。彼女とどこかで会ったことがあっただろうか。
「ユウだよ……」
「ユウ、ちゃん」僕は口の中でその言葉を転がした。どのユウちゃんだろうか、と考えるまでもなく、僕の記憶にあるユウちゃんは一人しかいない。目の前の女の子は容姿こそはそっくりだが、優とは違ってとてもアクティブそうだった。優は外ではいつも僕の背中に隠れて居るような子で、目の前にいる子とは対照的だった。
あれこれ考えていると、いきなり手を握られた。ひんやりと小さく汗ばんだ心地の良い手だった。そして、小刻みに震える手だった。
「まだ怒ってるの?」
え、何を、と僕。女の子はそれっきりじっと黙ってしまった。
何なんだろうか。僕の頭は疑問符で占拠される。このままじゃ埒が明かないと、僕は思い当たる節を片っ端から聞いてみることにした。
「ひょっとして、お家がわからなくなって、帰れなくなっちゃったのかな。迷子になっちゃったのかな」
僕は腰を落として女の子と目の高さを合わせて言った。小さな手のひらが、キュッと握り返してくるのがわかった。
「違う」目に悲しみをよぎらせて女の子は返す。「違うの、あたし迷子なんかじゃないよ」
「そうかぁ」震える手を優しくさすりながら、柔和な声で僕は諭すように言った。いきなり当りだった。「それじゃあお嬢ちゃん、いったいぜんたい君はどうしたのかな? おにいさんに言ってごらん」
心配そうに覗く瞳に、僕は懐かしさに胸を締め付けるのを感じた。本当に優にそっくりだ。だからなのかもしれないけど、なんだか、僕は無性にこの子の力になってあげたくてしかたなくなってきた。ほっておけない気持ちになっていた。
女の子は「それは……」と口ごもったまま俯いてしまった。
「とりあえず、交番に行こう、ね?」迷子ならそれが一番だ。
女の子は静かに僕を見返してきた。その面影は僕をまたもや時間が巻き戻るあの感覚をよみがえらせる。
優は、こんな風に僕が何かしらの提案をすると、どんなに彼女自身が気に入らないものだったとしても、いつも、
――うん。スグルちゃんがそう言うなら……。
と、目の前の女の子みたいに、びくびくしながらも頷いて僕の提案を受け入れてくれてきた。
僕は、ポンと柔らかく女の子の頭を撫でてあげた。されるがままの彼女は目尻を下げ、きつく結んだ小さな手を緩めた。でも繋いだ手は離すことはなかった。
僕らは死人でさえも涼を求めそうな陽光の下、県道沿いの駅からそう遠くない派出所に歩みを向けた。