vs昼下がりの団地妻【某企画参加】
ある夏の昼下がり。
開け放した窓に引いたカーテンはほとんど動かない。その隙間から差し込んでくる、白い日差しの一欠片さえもが目に眩しい。どこかの部屋で風鈴がちりんと音を立て、向かいの公園からかすかに子供の声が聞こえる。
暑い。
入居している団地に接した道路にバイクのエンジン音が聞こえ、止まる。やがて階段を登る足音に続いて、玄関の呼び鈴が鳴った。私は鏡を覗き込んで簡単に髪を整えると、来客を出迎えた。
「来々軒です。冷やし中華一人前、お持ちしました!」
玄関の向こうから、元気な声で挨拶をする、出前の青年。私は玄関を開けて彼を出迎えた。あら、かわいい子。
「遅かったじゃない」
透け透けのピンクのネグリジェ姿の私に、青年の目が大きく見開かれる。我が家はオンボロ公営団地、エレベーターなど当然ない。この暑さの中、五階まで階段を登ってくるのは骨だったろう。せめてものサービスというやつだ。
そしてここで、青年に提示される選択肢!
1.これぞ噂に聞く「団地妻の誘惑」だ!僕は「奥さん!」と叫んで目の前の女性に抱きついた。
2.僕は目のやり場に困り、下を向いたまま「六八〇円になります」と告げた。
さあ、どう出る?
――青年は、僅かな逡巡の後、一つの数字を選んだ。そして――
私は居間で扇風機にあたりながら、来々軒が県内一と誇る冷やし中華を美味しく頂いた。唯一の仕事をきっちりこなしたのだ。これくらいの贅沢は許されるだろう。
あとはエンディングまで、のんびりと昼ドラの続きでも見ていればいい。私の出番はこれっきり。
青年がバイト先の娘を選ぶか、大学の後輩を選ぶか、実の妹との禁断の関係に走るか、はたまた誰一人ヒロインをモノにできずに、男友達と居酒屋で涙にくれる結末を迎えるか。
いずれにせよ、ヒロインどころか主要キャラクターですら無い私には関係のないことだ。
私はスクリプトの奴隷。私に与えられたのは、一枚絵と二つの選択肢、そして一つのフラグ。名前すら無い。画面に出る表示名は「団地妻」
私はこの恋愛シミュレーションゲーム「来々軒の奇跡~あなたの恋、出前します~」に住む、いわゆる一人のモブキャラというやつなのだ。
◇ ◆ ◇
私が住むのは築四〇年の公営住宅。夫は会社、娘は学校。唯一の楽しみといえば、由緒正しい団地妻の嗜み、昼ドラである。
不動産会社の社長が家政婦をソファに押し倒そうとするその場面を、息を呑んで食い入るように観ていると、玄関の呼び鈴が鳴った。カレンダーを見る。あれから五日。一度エンディングを迎え、二周目をプレイしているということだろう。
残念ながら、私に与えられた一枚絵は一種類のみ。前回と全く同じ格好では大したサービスにはならないだろうが、そこは諦めてもらって、さっさと先へ進んでもらおう。
「来々軒です。冷やし中華一人前、お持ちしました!」
「遅かったじゃない」
前回と寸分たがわぬ一枚絵だと言うのに、青年が私を見る目には、僅かながらも驚きがあった。その反応に気を良くしつつ、選択肢。青年は、前回とは異なる数字を選んだ。そして――
私は数日ぶりのボーナス、冷やし中華にありついた。
◇ ◆ ◇
私が住むのは永遠の夏の昼下がり。しかも平日である。これが何を示すかといえば、毎日昼ドラが観られるということだ。
ゲーム内の重要人物であるヒロインやら友人やらが主人公たる青年君のお相手に勤しんでいる間、ソファに寝そべってポテチを片手に自堕落にテレビを見る。これほどの贅沢があろうか。
社長が家政婦のスカートに手をかけたその瞬間、呼び鈴が鳴った。
もう三周目か。前回に比べるとかなり間隔が短い。一度見たテキストなどは飛ばしているのだろう。二回のプレイで意中のヒロインを落とせなかったのか、あるいは全てのヒロインを攻略するつもりなのか。ご苦労なことだ。
「来々軒です。冷やし中華一人前、お持ちしました!」
「遅かったじゃない」
選択肢を提示する。ほれ、さっさと選べ。私はドラマの続きが見たいんだ。
しかし青年は、前二回に比較してもずいぶん長くためらっている。カーソルが二つの選択肢の間を上下する。どちらを選んでも、私が「キャー!変態!」と叫んで、隣の奥さんが一一〇番をすることになるのはもう分かっているだろうに。
実は、この選択肢に意味はない。この青年がヒロインの一人と知り合うフラグを立てるためのイベントに過ぎないのだ。
青年はやがて決心し、選択肢2「僕は目のやり場に困り、下を向いたまま『六八〇円になります』と告げた。」を選んだ。
ろくにこちらも見ないままお釣りを受け取ろうとした青年は、硬貨を落としてしまう。それを拾って立ち上がろうとした青年が、私のネグリジェに頭を突っ込んで――
「キャー!変態!」
我ながら、仕事が板についてきた。青年が思いの外時間をかけたため、惜しくも昼ドラは終わってしまっていた。まあ再放送に期待しよう。私はワイドショーを観ながら、何度食べても飽きない来々軒の冷やし中華を味わった。
◇ ◆ ◇
次の日、出前の青年はまたやってきた。
「来々軒です。冷やし中華一人前、お持ちしました!」
おかしい。この「来々軒の奇跡」は、それなりにボリュームがあるゲームなのだ。どんなに早く進めても、これほど早く四周目に入れるはずがない。
「早かったじゃない」
ついスクリプトを逸脱し、台詞を間違える。一瞬えっという顔をする青年。まずい。素早く選択肢を提示して、画面を書き換える。気のせいだから気にせず、さっさと選択肢を選べ。
またも長考する青年。この場面では選べもしない「プレゼント」というボタンを押そうとするなど、これでは本当の挙動不審者だ。
純情そうな子だが、私の扇情的な格好はやはり気になるようで、ちらちらと私の一枚絵を眺めている。そうやって見られているとにわかに恥ずかしさを感じてくる。えーいおばさんのネグリジェ姿なんぞ目の毒だぞさっさと先に進め!
やがて青年は私に抱きつくと、お巡りさんに連れられていった。
◇ ◆ ◇
次の日も、その次の日も、青年はやってきた。
「来々軒です。冷やし中華一人前、お持ちしました!」
おかしい。絶対におかしい。反則と知りながら、青年のプレイデータをこっそり覗いてみる。
なんと。青年はこのイベントを通過してしばらくプレイした後、ゲームをリセットして、またこのイベントの直前からプレイする、ということを繰り返していたのだ。
「ちょっとキミ、上がりなさい!」
私は思わず、スクリプトもシナリオも無視して、青年を居間に連れ込んでいた。唖然として反応できないでいる青年にとりあえず麦茶くらいは出してやって、ソファに向かい合わせに座る。
「何を考えているのキミは」
「何をって、その、団地妻さんのことが……」
はああーー……
盛大な溜息が出た。まさかとは思いながら、予想していた答え。
私は、青年にこんこんとお説教してやった。このゲームで攻略できるキャラクターは、何人か存在するヒロインのみであり、モブキャラは攻略できないこと。私がそのモブキャラであること。
だいたい、画面を見れば、ヒロインとモブキャラの違いなど一目瞭然なのだ。私には立ち絵がない。表情の動きもない。それどころか名前もなければ趣味や血液型の設定もない。なんにもない。
「私はキミのヒロインじゃないの。お分かり?」
「そんな、だって……」
「だってじゃないの。お店の人に怒られるわよ。もう帰りなさい」
青年は、しょんぼりした様子で、おかもちを持って階段を降りていった。私はその後ろ姿に「こんなおばさんに引っかかってないで先に進みなさい。もう来ちゃダメよ」と声をかけた。
その日食べた来々軒の冷やし中華は、すっかりツユを吸ってしまっていて、やや苦い味がした。
◇ ◆ ◇
ポテチを齧りながら、昨日は青年へのお説教ですっかり見逃してしまった昼ドラを見る。どうせ大した内容ではない。一話くらい見逃したところで何の問題もないのだ。
社長と家政婦はテーブルの向こうに見えなくなり、上に下になりながら何やらゴソゴソとやっているが、あんなに期待していたその展開に今一のめり込めない。青年は、今頃店長の娘さんあたりとよろしくやっているだろうか。その様子を想像して、無性に不愉快な気分になってくる。
呼び鈴が鳴った。
「来々軒です。冷やし中華一人前、お持ちしました!」
「……」
我ながら険悪な顔で青年を出迎えてしまう。青年は目を泳がせ、いつにも増して狼狽しているようだ。その腕をつかんで居間に引っ張り込み、ソファに座らせる。
「もう来ないで、って言ったでしょ?」
自分が何故こんな不機嫌な声を出しているのか分からない。青年は、私の剣幕に怯えたような様子を見せながら、あの、これ……と言って、ポケットから小さな包みを出してきた。
「プレゼント。つまらない物なんですが……受け取ってもらえませんか?」
「はああああ?」
包みから出てきたのは、綺麗なクリスタルガラスの子猫。ゲーム内でもそれなりに高価なプレゼントアイテムだ。いや違う。今いる私の登場場面までにこの子猫を手に入れるには、他の一切のイベントを無視して、相当な手間と苦労をかけてアルバイトでお金を貯めなければならないはずだ。何をやっているんだこいつは。
「あのねえキミ……」
私は懇切丁寧に説明してやった。私みたいなモブキャラには、プレゼントアイテムで上昇させるための「好感度」というパラメーターは無い。私などにこのようなプレゼントを贈ったりするのは、完全に無駄なのだ。猫に小判、豚に真珠なのである。まあシステム上、本来は渡すことすらできないのだが……
「それでも僕は!」
くーっ。
こいつ苦手だ。その子犬のような、縋るような目を観ていると、母性本能が痛く刺激されて、自分の立場を忘れそうになる。だめだめ私は団地妻。夫もいれば娘もいる。こんな格好をしているが、抱きつかれたりしたら叫んじゃう程度には貞淑の観念もしっかりした女なのだ。
こうなったら……仕方ない、最後の手段だ。
「……分かったわ。つまりキミは私を抱きたいんでしょ?」
私は、するりとネグリジェを床に落とす。本来こんなキャラクターじゃないのだから、内心は顔から火が出るほど恥ずかしい。
「なっ……!」
声を失う青年。その目に私の姿はどう映っているのだろうか。こんなおばさんで、化粧っけもなくて。そんなことを考えてふいに涙ぐみそうになるのを堪えて、いかにもぞんざいな口調で、青年を誘惑する。
「これで気がすむのならどうぞ。どうせ好感度なんて最初から無いんだから、乱暴にしても大丈夫よ。無いものは減らないんだから。」
夫も娘もいる……設定の上では。しかし、永遠の昼下がりに住む私は、二人に会ったことすらなかった。男性に抱かれた記憶すら無いのだ。そんな空っぽの私を抱いて満足するなら抱けばいい。そしてさっさと――
ぱんっ!
頬を張られたのに気づくのに、一瞬かかった。予想もしなかった痛みに愕然として、頬を押さえて青年を見る。
「そんな団地妻さん、嫌いです!」
青年は涙ぐんでいた。体の中を徐々に熱が上昇してくる。沸騰した頭で、私は思ってもいないことを叫んでいた。
「こっちこそ大っキライよ! さっさと出てって! もう二度と来るな!」
青年はおかもちをひったくるように掴むと、逃げるように出て行った。
テーブルの上に残されたクリスタルガラスの子猫を見つめながら、私は溢れくる涙を止める術を知らなかった。
◇ ◆ ◇
あれから一週間。青年が来ることはなかった。無事に先に進んだのか、それともゲームのプレイ自体放棄したのか。いずれにせよもう終わったことだ。私には関係ない。
テレビの中では、社長と奥様と家政婦の修羅場が繰り広げられていたが、もうそんなものは一切頭に入ってこなかった。私はだらしなくソファに寝そべって、泣きはらして腫れた目で、カーテン越しにぼんやりと外を眺めていた。戸外では、永遠の昼下がりに今日も真っ白な陽光が満ち溢れていることだろう。遠くにバイクのエンジン音が聞こえる。
暑い。
こんなとき、来々軒の冷やし中華が食べられたら……彼に会えたら……
玄関の呼び鈴が鳴った。
「来々軒です。冷やし中華一人前、お持ちしました!」
◇ ◆ ◇
居間のソファに、向かい合わせに腰をかける。二人の前には、冷えた麦茶と二つに分けた冷やし中華。
リアルのバイトが急に忙しくなって、ゲームをする暇が……と言い訳する青年を無言で睨みつけながら、冷やし中華を口にする。化粧をするまもなく出迎えてしまった。涙の跡もはっきりバレているだろう。
ふと、目が合う。その瞳に飲まれ、胡瓜を咥えたまま固まってしまう。
「会いたかった」
青年の言葉に、心拍数が上昇する。流されてはいけない。私は団地妻。私はモブキャラ。しかし口をついて出たのは、拒絶の言葉ではなく、気の弱い問いかけだった。
「あんなことして……私のこと、嫌いになったでしょ?」
青年はふ、と優しく笑った。
「僕にだって、好感度なんてパラメーターありません。好きとか嫌いとか、数字で計れるわけ無いじゃないですか」
無いものは減りませんよ、と私が言った言葉を繰り返すと、私を見つめ、静かに言った。
「好きです」
堕ちた。完璧に堕ちた。立場が何だ。夫が何だ娘が何だ。そもそも私には年齢の設定だって無いのだ。スクリプトもフラグも知るか。ゲーム進行なんかどうにでもなれ。
いつか青年も目を覚ますかもしれない。
ゲームのキャラクター、しかもモブキャラの、しかもおばさんに本気で恋をしてしまった自分に身悶えし、その黒歴史を記憶の底辺に封印したくなる日も来るかもしれない。
でもそれが何だと言うのだ。今の私には、永遠の時間がある。
見つめ合ったまま、青年の隣に席を移る。お互いの中に、相手を拒む気持ちの欠片も残っていないことを知る。
私は、言うべき台詞を口にした。
「今日は夫も娘も帰ってこないの。だから……ね?」
(了)
どうも後半急ぎ足になってしまう癖が…精進します。




