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一、探偵無名

一、探偵無名


「ごめんください」

 呪いのメールのURLを開いてから五日後の休日である。武弘はとあるビルを訪ねていた。普段なら寄り付かないような、大人の街の一角にある、商業ビル。

 その二階にあるとある場所を、武弘は尋ねた。

『開いておる』

「……おる?」

 首をかしげながらドアを開ける。ドアの向こうにはいかにもな机とその真ん前に座る若い男性、そして備え付けの家具やキッチンまである部屋に、武弘はしゃんと背筋を伸ばした。

「あの、探偵さんに用事があるんですけど」

「そうか。俺だ」

「……えっと、冗談は」

「あながち、ほかの探偵に断られてここに来たってところだろうが」

「それは……」

「そうさのう。俺ならほかの探偵にできぬこともできるが」

 にやりと笑う青年は、今時珍しく着物を着ている。美しい顔立ちには似合わない渋い着物だ。だが、それでも彼には似合ってしまう、不思議な雰囲気があった。

 烏の濡れ羽色の黒髪を後ろでひと纏め、前髪は綺麗に切りそろえられている。陶器のように白い肌、切れ長の目は目尻までまつ毛に縁取られている。引き上がった口元は、女性でなくても見入るだろう。

 青年は渋い赤茶の着物の袖を両ひざの上にきれいに乗せて、頬杖をつきながら武弘を見て笑っている。豪華な椅子と机は、それだけで探偵らしい雰囲気を感じさせる。

「名前も名乗らないやつ信用できるかよ」

「名前、か……俺は名乗る名前がない」

「は? 意味わかんねえし」

 くるりと武弘が踵を返す。しかし、青年が音もたてずに武弘の真ん前に立ちはだかった。先ほどまで椅子に座っていたはずの青年が一瞬で移動したことに、武弘は驚きを隠せない。

「貴様、なにを見た?」

「なにを、って……てか、なんでそこにいる……」

 武弘の疑問より先に、青年が問いかける。

「例えば。怪奇現象」

 ぴしゃりと指さして、青年が笑った。ぞっとする。その顔が、どこか嬉しそうに見えたからだ。

 武弘はあのURLを開いた翌日、同じようにあのURLに三十一を付け加えてタップようと思った。しかし、そのURLが忽然と消えていたのである。

 クラスメイトに聞いてみても、URLがないのだ。回ってきた時はしっかりと記載してあったのに。武弘にメールを送った女子生徒は、見間違いだと言い張っていた。

 だから、もしかするとあの映像は武弘の見間違いか、あるいは勘違いなのではと思い始めていた。

 現に、武弘はあの日の放課後、なにより先に警察署に赴いた。そこで、例の呪いのメールのこと、URLのこと、動画で見たこと聞いたもの。すべてを警察に話したのだが、誰ひとりとして取り合ってはくれなかった。

 それどころか、

「いいかい。天野くん。金輪際呪いのメールを探らないこと。いいね?」

「でも、確かに見たんです」

「それは誰かのいたずらだよ。いいね、もう呪いのメールとは関わらない。約束できるね?」

 と、大人たちはなにかを隠したいように、呪いのメールから武弘を遠ざけようとした。

 武弘は当然納得いくはずもなく、故に武弘は何度も何度も呪いのメールを読み返したのだが、元来勉強が苦手な武弘にとって、暗号の解読なんてできるはずもなかった。

 だからお小遣いをはたいて探偵を訪ねたのだが、結果から言うとどこも武弘の話を取り合ってくれない。

 最後の頼みに訪れたこの探偵に限っては、名前がないだの、そもそもがうら若き青年だので散々な結果である。

「貴様はなにを見た? 化け物か? 幽霊か? 誰かの悲鳴か?」

「それ……は……」

「話すだけ話せ。依頼するかどうかはそれから考えてもよかろう」

 青年の妙な雰囲気に、武弘は圧倒されて、案内されるままに事務所の客用のソファに腰を掛ける。

 そして、震える手でスマホを取り出して、メールを立ち上げる。呪いのメール、その画面を開いたまま、青年にスマホを渡す。

「ふむ。なるほど。呪いのビデオか」

「いや、今は呪いのメールって言って」

「細かい男は嫌われるぞ。なるほど、あいわかった」

 つらつらと、なぞるように一度だけそれを読み上げて、青年はスマホを武弘に返した。

「悪いことは言わん。貴様はこの件に首を突っ込むな」

「え……?」

 まるで大人たちと同じように、青年が武弘をいさめる。そうなるとがぜん気になるのが子供のサガである。前のめりに、

「なんでだよ」

「これは子供のかかわっていい案件ではない」

「おまえだって子供だろ!?」

「かんなぎだ」

 青年がふんっと鼻を鳴らす。

「かんなぎ……?」

「問うたであろう、俺の名を」

「でも、あんた名前がないって」

「ない。まことの名は。代わりに、人々は俺をかんなぎと呼ぶ」

 青年――かんなぎが怪しく笑う。着物のせいか、かんなぎの所作のひとつひとつが大人びて見える。

 だが、だからどうした。

 相手が大人だろうが子供だろうが、納得いかないものはいかない。

「かんなぎ……さん。なんで俺が関わっちゃダメなんですか?」

「はあ。そうだな、しいて言うなら貴様が子供だからだ」

「! もういい! あんたを信じようって思った俺が馬鹿だった!」

 憤慨し、武弘は立ち上がる。

「相談料はいらんからな」

「言われたって渡すもんか!」

 去り行く武弘の背中を見ながら、かんなぎがにやりと笑っていた。


 転校生が来ます。

 教師の言葉に教室中がざわめいた。この時期に転校生が来るなどと、誰がどう考えてもおかしな話だ。

 高校三年の秋ともなれば、今更転校するメリットがない。引っ越すにしても時期を考えろという話である。

「入れ」

 がらら、とドアが開け放たれる。クラス中からため息が漏れる。しかし、武弘だけはそうではなかった。

「かんなぎ……?」

 束ねた黒髪を靡かせて、色白の肌は透き通るように美しい。

 それに、着物の時はわからなかったが、かんなぎはだいぶスタイルがいい。程よい筋肉に高い身長、かんなぎに思わず視線をよこす男子生徒もいるほどだ。男女問わず注目を集めるほどには、かんなぎの容姿は際立って美しかった。

「今日からよろしく」

 笑いながら、かんなぎの視線の先にいるのは武弘である。どっと汗が噴き出すのがわかる。なぜ、なんの目的でこの学校――しかも武弘のクラスに転入してきたのだろうか。

「天野武弘」

 他人のふりを決めようと思うも、なぜ知られているのか、かんなぎが武弘の名前を呼ぶ。武弘は思わずかんなぎに視線を向けてしまい、クラスメイトがひそひそと耳打ちしている。

「天野の知り合い?」

「あ、えーと」

「紹介してよ」

 女子生徒からはそんな言葉を投げられ、男子生徒からはやや冷ややかな視線をよこされた。

「天野。彼の知り合いだったのか! よかった。彼、事故で頭を打って自分の名前も知らないそうだ。彼の名前、教えてくれ」

 人好きのする笑みを湛え、教師が武弘にダメ押しした。関わらずに済むなら関わりたくなかった。だが、かんなぎという人間のせいですべては無に帰した。ならば、と武弘は右手で頭を掻きながら、

「俺も名前、知らないかなーって」

「いや、天野。ふざけるのもいい加減にしろ」

「や、だって……」

 先日、かんなぎに会った時に言われた。かんなぎには名前がない。それも、まことの名前、と言っていた。まことの名前ってなんだ、と考えつつも、とにもかくにも、クラス中の視線から逃れるために、武弘はすっと深呼吸をする。

「神楽ユウ、です……」

 偽りの名前だ。思い付きでそう口にしたのだが、果たしてかんなぎ――ユウは満足そうにうなずいた。

「おお、そうか。よろしくな、神楽」

 ユウがペコリと頭を下げる。武弘はふっと息を吐き出して、額をぬらす汗を制服の袖で拭う。

 まったくもって理解できない。なぜこんな面倒ごとに巻き込まれてしまったのか。なぜユウが武弘のもとを訪ねてきたのか。

 とりあえず、今後はなにがあっても他人のふりを決めようと武弘は決意する。

「だあ、神楽は天野の隣の席で」

「え、俺の隣、空てない」

「いいよいいよ、俺が譲るから!」

 隣の席の石田が、机をガラガラと引きずっていく。石田はおそらく、窓際の一番後ろの席に行きたいがために快諾したのだろう。石田が気を利かせてユウの机を武弘の隣に持ってきたことが、今は恨めしかった。


「あのさあ、なんで学校に来たわけ?」

 昼休みになり、武弘はユウに誘われる形で中庭で昼食をとっている。しかし、自作して持ってきた弁当なんて食べる余裕があるわけもない。

 武弘はユウに詰め寄るも、ユウは涼しい顔でコンビニ弁当をはくはくと食べている。

「貴様の依頼、受けることにした」

「はあ? 俺、頼んでねえし」

「よい。報酬はいらぬ。ただ俺は、この謎が気になる」

 大方、探偵という人間は物好きなんだなと、武弘はコーヒー牛乳をちゅうっと飲み干した。べこっとテトラパックがへこんで、武弘は今日何度目かもわからないため息をついた。

「あのさ、呪いのメールのことはもう気にしてないっていうか」

「そうか? あれはれっきとしたなぞかけだが?」

「……え?」

 探偵のユウが言うと嘘でも真実に聞こえてしまう、武弘はそう思いながら、ポケットに忍ばせたスマホを取り出す。そして呪いのメールを開いて、今一度よく読みこんだ。

「……どこが暗号なんだ?」

「貴様にはわかるまい。だが、このまま放っておけば貴様は首を突っ込む。だから俺がこうして直に出向いてやった」

「偉そうだなあ。てか、おまえ、名前がないとか言ってたけど、なんで?」

「俺は名前を『亡くした』」

「名前をなくす? そんなことってあり得るのか?」

 ユウが弁当を食べる手を止めた。まるで、「これだから子供は面倒くさい」そう言いたげな目を武弘に向けて、ふっと息を吐き出した。

「俺は名前がない。名前がなければそこに無いのと同義。ゆえに俺は、どこにも存在しないものとなった」

「ん? つまり?」

「貴様など計り知れぬほど長い時を生きてきた。ゆえに、気安く話しかけるでない」

 ふん、っとユウが弁当のふたを閉めて立ち上がる。

 当の武弘はちんぷんかんぷんだ。なにがどうして、つまり、ユウは不老不死、ということだろうか。

 いやいや、今時そんなこと、幼稚園児でも信じまい。

「信じる信じないは貴様の自由」

「……信じられるわけねえだろ」

 しかし、ユウには妙な圧があるのも事実だ。なにより、探偵をうたっているからには、この事件を解決してくれるのだろう。そうなれば、武弘をないがしろにした大人たちを見返すことができる。

「一気には無理だけど、事件が解決したら、お金払うし」

「いらぬ。そもそも俺は、金のために探偵となったわけでもない」

 後ろ手に、しかしユウが笑っているのだけは武弘にもわかる。

「報酬は、そうさな。貴様の名前、と言いたいところだが」

「待って待って。名前?」

「最後まで聞け。俺は他人から名を受け取ることで、自分を保ってきた。そして、受け取った名を唱えると、十分間だけ俺はその人間の特技が使える」

 まるで信じられない話だと思った。そもそも、名前をユウに渡してしまったら、武弘自身はどうなるのだろうか。よもや、死するのでは、と考えて、自然と武弘の体が震えた。

 ユウが見透かすように振り返り、笑う。

「しかし、俺も受け取る名は選ぶ。見たところ、貴様には特技がありそうにもないからな。そのような名など、受け取っても意味がない」

 吐き捨て、ユウは中庭から去っていく。残された武弘は、理由もなく怒りを覚えた。いや、怒りの理由などわかり切ったことだ。

 今、ユウは武弘を『無能』だとののしった。それが悔しくてたまらない。

「見てろよ」

 決意し、武弘はその日の放課後、スーパーによってから、ユウの事務所を訪れた。


「なに、貴様の特技を披露すると?」

「そうだ。俺は料理ならだれにも負けない」

「ほう……その特技は俺も持っておらぬな」

 ユウが興味を示したことに多少驚きつつも、武弘は事務所に備え付けのキッチンに立ち、料理を始める。

 作業台に丁寧に食材を取り出して、武弘はそのひとつひとつを吟味する。

「ちなみに、神楽は辛いものは?」

 武弘がユウを「神楽」と呼んだことに、ユウが少しだけ顔をしかめる。しかし、武弘はなにもなかったかのように話を進めた。

「ビリヤニは食ったことある?」

「びり?」

「カレーピラフみたいなもんだよ」

「ピラフか。それなら知っておる」

 ビリヤニは、香辛料に漬けた鶏肉を焼いてカレーを作り、バスマティライスと一緒に炊き込んだ料理だ。

「バスマティライスは日本の米と全く別物。パサパサというよりは、硬い粒立ちが特徴の米で、香りが良い。味付けもトマトベースだし。で、辛いもんいける?」

「ほう……辛いものは好いておる」

 言われてみれば、昼間も甘辛チキンの弁当を頬張っていた気がする。

 完全に無意識だったが、このチョイスは功を奏しそうだ。

 武弘が腕まくりをして手を念入りに洗う。

「まず、鶏肉をヨーグルトと摩り下ろし玉ねぎ、香辛料に漬ける。その間に玉ねぎをみじん切りにする」

 玉ねぎ一個を取り出して、根のほうを上にして、包丁を使って皮をむいていく。てっぺんを適度に切り落として、玉ねぎを縦半分に切る。

 そこからは目にもとまらぬ速さであった。玉ねぎに縦、横に切れ込みを入れて、端から順にみじん切りに。

 玉ねぎの独特のにおいに、武弘が鼻をすすった。

「俺、玉ねぎって万能だと思ってるんだよな」

「万能……?」

「あめ色に炒めた玉ねぎって、それだけで料理をうまくする」

 切り終わった玉ねぎを、油を熱したフライパンに入れる。じゅうっと音がして、さしものユウも心配になる。

「火が強くはないか?」

「ああ、これね。少し塩を振って強火で焦げるぎりぎりまで動かさない。焦げる前にひっくり返してを繰り返すと、三十分くらいであめ色玉ねぎになるんだ」

 武弘が話す間にも、玉ねぎはじゅじゅうと音を立てている。

 続いて、武雄はニンニクとショウガをすりおろした。ショウガのさわやかなかおりと、にんにくの食欲をそそるにおいが部屋に広がる。

「で、あとはスパイス。クミンとターメリック、チリペッパーは百均で手に入るし。あとカルダモンな。これ、一瓶で四百円もするんだぜ?」

 高いよな。と武弘が言ったところで、ユウにはそれが高いのか安いのか、わかりかねた。そもそもユウは自炊をしない。ならば、知らなくて当然である。

「でも、すっげえいい匂いなんだよ、ほら」

 かぱっとカルダモンのふたを開けて、武弘がユウに差し出した。恐る恐るその香りをかぐと、かんきつのようなさわやかな香りが鼻腔をくすぐる。

 みかんや伊予柑の皮を剥いた時のような、あるいは、レモンを絞った時のように、香りがパッと空気に弾けて辺りに漂う。

「良い香りだな。しかし、スパイスとは、初めて聞いた」

「え、カレーとか食わねえの?」

「食す。だが、ビリヤニなるものは食したことがない」

 ユウが食材に興味を持ったため、武弘は得意げに説明を続けた。

「で、コリアンダー。これはパクチーの実を乾燥させて粉にしたもんで」

「パクチー? あの?」

「あ、パクチーは知ってるんだ。うん、あの」

 パクチーは好き嫌いのわかれる食べ物だ。タイ料理によく使われるが、あのクセが好きな人と、嫌いな人に大きく分かれる。

 そのパクチーの実を入れてしまえば、ビリヤニの味もそれ一色になるのではないか。

 ユウの心配に気づいた武弘は、コリアンダーも同じく、ユウに嗅がせる。

「これはなかなか」

「だろ。パクチーのあの匂いはないし、スパイスのいい香り」

 ほろ苦さを感じさせる香りだ。

 最後に、武弘はオールスパイスを取り出した。

「オールスパイスはいろんなスパイスが混じってる、ってわけだなくて。クローブ・ナツメグ・シナモンを合わせたような香りがするスパイス」

「ややこしいな」

「うん。でも、香りに深みが出る」

 スパイスの調合は武弘の長年の勘により編み出された武弘秘伝のものだ。

「知ってるか? カレーのあの香りの主なものはクミンなんだけど」

「クミン?」

「そう。百均で買えるスパイス」

 計量スプーンで丁寧にスパイスを計りながら、武弘が満足そうに笑っている。

 クミンを計ったところで、なるほど、ユウにもなじみのある香りが漂ってくる。

 玉ねぎを時々返す合間に、付け合せのナンを作る。ボウルに薄力粉と強力粉、ドライイーストに砂糖と塩、ぬるま湯を入れてよくこねる。

 必死にこねる武弘を、ユウはしずかに見守っている。

「ナンはこねて発酵させるだけだから、それほど手間でもないんだよな」

「誰も説明など促しておらぬ」

「いいだろ。で、最後にオリーブオイルを練りこんだら、ボウルに入れてラップをして、三十分発酵」

 丸くすべすべの生地を、武弘が大事そうにボウルに入れた。この白い塊がナンになるのかと思うと、料理とは不思議なものだとユウは思った。

 ナンをこね終わると、程よく玉ねぎがあめ色になる。

「それで、あめ色になった玉ねぎに、すりおろしたショウガとニンニクを入れてよく炒める。青臭さをなくしたいから、一分以上、丁寧に弱火で」

 ニンニクとショウガは炒めることで香りが立つ。よく炒めたらスパイスを加えて、これもまた一分以上よく炒める。スパイスを炒めることで香りを引き立たせ、粉っぽさをなくすのだ。

「スパイスの次はトマト缶。トマトは沸騰させると酸味が飛ぶから、これもしっかり炒める。最後に鶏肉を入れたらスープを煮詰めて」

「いつになったら食せることやら」

 傍ら、ユウは既に飽きた様子だ。探偵専用の豪華な椅子に腰かけて、制服の袖をいじりまわしている。

「そういうなって。おいしいもんは時間がかかるの」

「ご苦労なことだのう」

「で、砂糖と塩で味を調える」

「砂糖?」

 とたん、ユウの顔が曇った。人を驚かせるのが好きな武弘は、にたりと笑って、

「砂糖は味付けってよりはトマトの酸味を和らげる隠し味」

「信用ならんな」

 トマト缶を炒めて調味したら、水と牛乳を加えて一度沸騰させる。沸騰後は鶏肉を加えて、弱火で蓋をして十五分煮込む。

 味付けはシンプルに、砂糖と塩だけだ。ちなみに塩は、粗塩を使うとぐんと味がよくなる。

 また、ケチャップやソースを隠し味として入れる方法もあるのだが、シンプルな味付けでもビリヤニはそれだけでおいしい。

「においはよいな」

「うわ、音もなく現れるのやめろ」

「音もなく、か」

 くつくつと笑って、ユウが武弘をからかう。

「貴様ごときの言うことなど、聞く義理もあるまいて」

 と、今度はユウはキッチンから一気に探偵椅子に場所を移す。最初に会った時もそうだが、ユウはいささか『不自然』だ。

 消えるのだって現れるのだってそうだ。ユウはどこか『普通じゃない』。

「神楽は」

「その呼び方は好かん」

「でも、かんなぎて名前、調べたけど」

 かんなぎ、男のそれをおかんなぎと呼ぶ。神を憑依させる巫女やげき

 そんな大それた名前を名乗るなんて、武弘には理解できなかった。少なくとも、ユウをそう呼ぶ気にはなれなかった。

「神楽、のほうがあってるじゃん」

「なにか言ったか?」

「いや、なにも」

 ぐつぐつとフライパンから蒸気が上がる。トマトの煮えるにおい、スパイスの芳醇な香り。

 秋の肌寒い時期にはビリヤニはもってこいだ。

 今日のビリヤニにはチリペッパーを多めに入れた。ユウが辛いものは好きだと言っていたし、武弘も辛いカレーが好きだからだ。

 煮込む間にバスマティライスを茹でる。

 たっぷりのゆで汁に油と香辛料を入れて、バスマティライスを入れる。半分は三分、半分は七分で取り出したら、煮込んだカレーとバスマティライスを交互に鍋に入れる。このとき、煮汁の多い下の段のバスマティライスは、先に三分で取り出したものを重ねる。

 何層かに重ねたら、一番上にバターとパクチーをちぎり乗せて、蓋をしてバスマティライスを蒸しあげる。

 ビリヤニが炊きあがるまでに、ナンの最終仕上げだ。

 適当に切り分けたナンの生地を、極限まで薄く、薄くのばしていく。形はもちろん、ナンの三角形の角を取ったような独特の形に。

 この、伸ばす作業がなかなかの曲者だ。意外と体力を要する。加えて、煮込み料理をするとキッチンの温度はおのずと上昇するものだから、武弘は汗だくでナンを伸ばした。

「で、アルミホイルに油を塗って、その上にナンを乗せる。

「ほう、見た目はナンだな」

「だろ? で、これを魚焼きグリルで片面三十秒から一分焼き上げる」

 グリルにナンを入れて、武弘は付きっ切りで焦げないようにナンを見張る。そのかいあってか、焼きあがったナンは色もよく香ばしさももちもち感もあり、思わずユウは見惚れていた。

「最後に、焼きあがったナンにバターを塗ったら完成!」

 ほかほかと湯気の立つナンを、武弘は客用のソファの前にあるテーブルに運んだ。

 ユウがつられるようにそこに歩き、座る。

「おい、ビリヤニまだできてないし」

「よかろう、味見くらい」

「ったく」

 とは言いつつも、武弘はこの瞬間がなにより好きだ。人を料理で驚かせること。出来上がった料理に感嘆の声を漏らす人間を見ること。

 自分の作った料理を頬張るひとの、幸せそうな笑顔を見ること。

 アツアツのナンを、苦労しながらもユウが口に入れる。甘さとバターの香りと、ところどころ香ばしいのは、魚焼きグリルで焼いたからだ。

「っし。そろそろいいかな?」

 ナンにかじりつくユウに、少しでも早くビリヤニを添えてやりたい。

 武弘がフライパンのふたを開けると、より一層スパイスの香りが部屋に充満する。思わずユウが覗きに来るくらいには、あたたかで食欲を刺激する、なんとも言えない香りであった。

「ほう、これがビリヤニか」

「そ。じゃあ、あっちで待ってて」

 ユウの事務所にあったカレー皿を適当に取り出して、武弘はビリヤニをよそう。

 やや黄みがかった柔らかな赤色のバスマティライスにはムラがある。このムラがまた、いい味を出すのだ。

「はい、ビリヤニ出来上がり!」

 出されたビリヤニをスプーンで一口。

 ユウの顔が驚きに染まった。そののち、頬を抑えて恍惚の表情で、ほうっと息を吐き出した。

 トマトの酸味と旨味、追ってショウガとチリペッパーの辛さ、最後にスパイスが鼻から抜ける。バスマティライスの香ばしい香り。なるほど、ビリヤニにはバスマティライスに違いない。

「これは美味いな」

「だろ? 俺このビリヤニ作るようになってからインド料理にはまっちゃって。タンドリーチキンとか、モーダカとか」

「ほう……」

 はくはくとビリヤニを口に運びながら、ユウはあっという間に一杯目のビリヤニを平らげた。

「あ、お代わりいる?」

「むろん。時に、武弘」

 武弘がキッチンにビリヤニをよそいに行くと、ユウが嬉々とした声で、

「貴様との契約を結ぶとしよう。俺は貴様のその料理の腕が欲しい」

 ビリヤニをよそって戻ってきて、武弘はいよいよユウをぎゃふんと言わせることができて満足した。だが、ここで思い出す。

「それって、名前を渡したら俺はどうなるの?」

 ぱく、とスプーンを口に入れて、ユウが答える。

「むろん、名を失った人間は死ぬ。だが」

 スプーンでビリヤニをひとすくいして、ユウが挑発的に笑っている。

「貴様が死するとき、俺はその名を受け取るとしよう。それまで武弘、俺のそばで働かぬか?」

「え?」

 名前を奪われた人間は死ぬ。その言葉もそうだが、「働かないか」という言葉が武弘を驚かせた。

「働くって? 探偵の助手ってこと?」

「たわけが。貴様にそのような能力はあるまい」

「何気にディスるよな」

「俺の専属の料理人になれ、と言うておる」

「え!?」

 思ってもみない言葉だったに違いない。武弘は自分の料理の腕に自信がある。あるのだが、まさかこんな形でスカウトされるとは思いもしなかった。だが、悪い気はしない。

 認められた、という達成感と胸がじんと熱くなる感覚。

 自分の料理が、誰かの役に立っている、必要とされている。

「なんだ、泣くほど嫌であったか?」

「ちが、ばか。泣いてねえし」

「女々しい男よ」

「その減らず口いつか叩けなくしてやるかんな。俺、おまえ料理人として、頑張るよ」

 武弘の嬉しそうな笑みを見て、ユウは複雑な顔をした。だが、武弘がそれに気づくことはなく、本格的に武弘はユウのもとで働くこととなった。


 心霊探偵事務所。

 ユウの事務所の名前だ。うたい文句はこうだ。

「怪奇な事件、請け負います」

 今日も今日で、ひがな休日をユウは依頼人との面談に当てている。そばには武弘もいる。

「それで、私……愛猫が死んでから、ずっと誰かに見張られてて」

「そうか。なるほどな、そなたには猫の物の怪が憑いておる。しかし」

 ここで、武弘が紅茶を持ってくる。しかもただの紅茶じゃない。甘くてさわやかな香りのする、紅茶である。

「まあまあ。金木さん。紅茶でも飲んで落ち着いてください」

 武弘が言う前に、ユウは既に紅茶に口をつけている。

 金木も言われるがままに紅茶を喉に流し込む。砂糖も入れていないというのに、ほのかに甘みを感じた。それにこの香りは。

「アップルティーです。落ち着くでしょ」

 茶葉はアッサム、リンゴは紅玉。りんごを皮ごと薄く切って、そこに紅茶を注いで香りを移す。

 本来のアップルティーは、皮だけを使うが、最近の流行りは果物を丸ごと入れる紅茶だ。

 金木がふうっと息を吐き出した。

「少し、落ち着きました」

「それはよかったです」

 と、ユウが武弘に視線をよこしていることに気づき、武弘はおずおずとキッチンのほうへ引っ込んだ。

「それで、そなたのそれ。猫の物の怪のことだが」

「やっぱり、呪われたんでしょうか。あの子は不幸せだったのでしょうか」

「逆だ。そなたを守っておる、その猫は」

 カタン、とティーカップをソーサーに置きながら、ユウが笑った。

 金木はどっと泣き出して、「よかった、よかった」とうわごとのようにつぶやいている。

「時に金木殿」

 ユウがゆっくりと、ゆっくりと、まるで緩慢な動きで金木の背後を指さした。

「そなたを呪っているのは、別のモノだ」

 がたた、がた、と部屋が鳴動する。かと思えば、金木の背後に現れた女の影。生霊だ。

 武弘ももう慣れたもので、ユウのその異質な能力に驚くこともしなかった。


 今日もふたりは、夕暮れの道を歩く。今日の依頼人を『祓う』ためだ。

 ユウがこの探偵事務所を構えたのは、この世界の理を正すためだと聞いている。

「てかさ。神楽は、昔から霊? 幽霊が見えたの?」

「……俺が生きた時代は、巫女だけでなく、町の人々にもそれらは見えた。だが、科学が闇をなぎ払い、人々は何時しか、それらを『なかったこと』にした」

「つまり、俺たちは見えてないだけで、霊も妖怪もいる、と」

「ああ。だが、それらは人間との境界を守る。自我も意識もあるからな」

「? だったらなんで」

 ユウが心霊探偵なんてしているのだろうか。

 ひゅお、と風が鳴いた。ユウの足が止まる。

 武弘は、前に出そうになったところを、ユウに手を引かれ止められた。ユウが空を見上げている。

「え?」

 空が赤く染っていた。

 血のようなどろりとした空が、地面に向かって降りてきている。

「また、あやつは」

 この世界には、あやかしが存在する。そのあやかしたちは、しかし人間との境界を守り、共存してきた。

「あやつに唆されたな?」

 ユウが右手を天に掲げる。すると、まわりから風が集まり、ユウの手に、透き通った刀が握られていた。

「武弘。動くなよ?」

 に、と武弘に笑いかけて、ユウが空を駆けた、いや、今は空が地で、地が空になっている。天地がひっくり返ったのだ。

「う、わぁあぁあ!?」

 武弘の体が空に向かって落ちていく。ユウが、あやかしに向かって刀を振り下ろす。

「憎い、憎い。人間ばかりが、世界の理とおごりたかぶって」

「だからとて、そなたはあれにそそのかされ、人間に害を及ぼした」

 あやかしを切り、ユウの刀が血に染まった。それは何色とも言い難い、不思議な色をしている。

 空に落ちる武弘の手を、ユウが取った。

「帰るぞ、武弘」

 ぐるん、とそのまま、世界が元通りの形になった。地が地に、天が天に。

 あやかしは、死したのか動かない。どろりと吹き出す血のにおいが、鼻に刺さる。

「神楽。さっき、あやつに唆されたって」

「ああ。それは追追」

 秘密主義だ。ユウは武弘になにも教えない。

 あやかしなんてもの、信じていなかった。けれどきっと、この世界にあやかしが存在することを、武弘が一番知っている。

 呪いのメール、あのURLは一回きりのまじない。つまり、あの動画は、一回しか表示されないようにできている。

 武弘はユウの力を目の当たりにして、ユウの『心霊探偵』としての実力を、認めざるを得なかった。


 ユウにはげきなる力が宿っている。そう初めて聞いた時には、武弘は全く信じなかったのだが、先の件があってから、武弘はユウの覡なる力を信じるようになった。つまり、巫女の男の呼び名だ。

 さらに、たびたび依頼に来る人間の背後にいるなにか、をユウが切り捨てるさまを見て、ようやくユウが『普通ではない』ことに気づいた始末だ。

「神楽ってその、オカルトだと思ってたけど」

「失敬な。俺をなんだと思うておる」

「でもさ、心霊探偵なんて今どき誰も信じない――」

 ばちん、と武弘の額が弾かれた。むろん、ユウは一切手を下していない。見えざる手が、指が、武弘の額をこれでもかとはじいたのだ。

「いてっ。でも、神楽って何者なの?」

「俺か? 俺はしがないかんなぎだった。そう、単なる一覡」

 ユウが遠くを見る。それ以上はなにも語らないため、武弘も深くは聞けなかった。

「そ、それはそうと、俺の事件はどうなってる?」

「それか。そうだな、今はまだ時期ではない。が、証言はいくつあっても不足にはならぬ。呪いのビデオの出どころを探すぞ」

 そう、約束したのはもう二週間も前のことだ。


 実際のところ、ユウの探偵業はそこそこ繁盛している。噂がうわさを読んで、怪奇の絡む謎にユウあり。そういう噂すら流れている。

 武弘はそんな噂も知らずにユウに事件の解決を依頼したのだが、なるほど、この覡ならば、呪いのメールの件も解決可能だろうと妙な安堵を覚えていた。

「出どころなんて探せるの?」

「そのために貴様がいるのだろう?」

「え? もしかしてぱしりってこと?」

 武弘はまさかな、とつぶやくも、ユウは笑みを崩さない。

 なるほど、ユウはあの暗号は解けているものの、確証が持てない。いや、今は時期だないと言っていた。

「貴様は学校の連中に呪いのビデオの件で探りを入れろ。俺は別件で用事がある」

「え、そんな……」

 そもそも、あの暗号を解読できたのならば、武弘にも教えてくれてもいいものを。

 しかし口にはしなかった。ユウが恐ろしい顔でなにかを見つめていたからだ。

 ユウは覡だ。それは紛れもない事実なのだと武弘も認めざるを得なかった。だが、ならばその力をもってすれば、こんな事件などすぐに解決できるのではなかろうか。

「貴様は黙って俺に従っておればよい」

 ユウはいつも態度が不遜だ。そんなことを思いながら、ユウに言われるままに武弘は学校で調査を開始することにした。


 朝の朝礼の前の時間に、武弘はクラスメイトに呪いのメールについて事情を聴いて回っている。こうしてみると、なんだか『探偵っぽい』と、武弘は少しだけ胸がどきどきした。

「で、石田は河瀬にもらったと」

「そ。で、河瀬ちゃんは隣にクラスの牧田に。牧田は小春ちゃんで……」

 途方もない捜査だと思った。少なくとも、武弘は探偵でもなんでもない。ゆえに、この事件の解決の糸口を見つけることは、たいそう困難なことに思えた。


 武弘はユウの昼食用の弁当と、それから夕食作りを主に任されている。

 お弁当は今まで自作していたものの、誰かに食べてもらうのは初めてだった。だから武弘は不安と期待の入り混じった顔で、ユウが弁当を食べる様子をいつも見守っている。

 今日のおかずは定番の唐揚げにだし巻き卵、ひじきの煮物にアスパラのベーコン巻き、そしてご飯はのり弁だ。

 むろん、ただののり弁ではない。海苔は一センチ角に切って、一枚一枚しょうゆをつけてご飯に乗せている。それを三層に。

 ひじきの煮物は汁垂れが気になるところだが、餃子の皮を器型に焼いたものに入れることで、汁漏れもせずにおかずも一品増える一石二鳥の代物だ。

「なにを見ている?」

「や。うまいのかなって」

「まずかったら食さぬが?」

 それにしても、ユウはわかりにくいのだ。笑うことはあれど、それは嘲笑に近しいもので、歓喜からの笑みは見たことがない。

 おまけに、表情を殺すのがうまいときたら、自分の料理がうまいのかまずいのか、武弘にはてんで分からなかった。

 だが、どうやら「不味くない」という言葉に嘘はないらしく、ユウが弁当を残したことはない。

「さて」

 昼休みは、弁当を食べた後ふたりであの暗号について話すのが常になっていた。

「貴様はどこまで暗号が解けた?」

「いや、それ毎日聞いてくるけど、そんなにすぐに解けるもんなの?」

「……? 見ただけでわかるだろう?」

 心底不思議顔で言われてしまい、武弘は自分の地頭のなさを馬鹿にされたような気持ちになった。

 そもそも、このユウという人間はなんでもできすぎるのだ。

 数学の解を求められれば、ものの数秒で導き出し。字も丁寧できれいだし、体育だってクラスで一、二を争うくらい足が速い。

「次の授業、だるいよなあ」

「体育、だったか?」

「そ。唯一寝られない授業だし」

 とはいえ、最近は授業中の居眠りもせずに、例のメールを見ずっぱりではあるのだが。教師からすれば、「やっとやる気になったのか」と感心される始末であるが、実際は勉強などそっちのけなのである。

 そんな武弘は、体育が嫌いだ。もっと言うと、苦手だ。武弘は運動神経があまりよくない。

 特に足が遅い。

「貴様にはまだ見せていなかったな」

「……? なにを?」

「よかろう。次の体育で、俺の能力を見せてやる」

 能力、という言葉に一瞬首をかしげるも、それが「名前を唱えるとその人物の特技を十分間使える」というそれであることに、武雄はすぐさま気づいた。同時に、今までの秀才ぶりは、全部その能力なのかと思うと、腹立たしくもあった。


 いざ体育の授業が始まる。今日は五十メートル走で、モテる男子なんかは女子たちの注目の的となっていた。

 そんななか、ユウがぶつぶつとなにかを呟いている。武弘は耳を澄ませ、ユウの言葉を耳で拾う。

「我が名は高宮天太」

 瞬間、ユウの雰囲気ががらりと変わるのがわかった。

「神楽?」

 恐る恐る声をかけると、ユウが『らしくない』すがすがしい笑みを湛えて武弘を見た。

「見てなよ、武弘!」

 まるで別人だ。

 もしかすると、別人に入れ替わったのかもしれないと思った。そもそも、名前を名乗るとその人間が憑依するのかも。今のユウはユウなのだろうか、高宮天太なのだろうか。

「神楽くん、頑張って!」

 女子生徒の黄色い声援が、ユウに向けられた。ユウは『らしくなく』女子生徒たちに手を振って、スタート地点に歩いていく。

 構え、教師の合図とともにユウが豪速で走る。その速さたるや、陸上部顔負けのそれである。

 タイムは七秒〇八。

 陸上部からも声がかかっているほどの速さである。

「たけちんさあ」

 遠巻きにユウを見守っていた武弘に、友人のひとりである秋野正が肘で突っついてくる。

「そんなに見つめちゃって。転校生と知り合いだし仲いいみたいだし。なーんか引っかかるな」

 と、正は武弘を茶化す。武弘はとっさにユウから顔をそらすも、ユウのほうから武弘に手を振った。

「武弘! 見てたかー?」

 溌溂とした声だ。どこか体育会系の男の子をほうふつとさせる、裏表のない元気な声。

 まるでユウには似合わないと、武弘はふいっとユウから顔をそらした。

「別に。神楽と俺は、仲良くはないし」

 言いつつも、悪い気はしなかった。ユウはかっこよくて、どこをどう見ても完璧な秀才だったからだ。そのうえミステリアスな雰囲気も相まって、クラス中、学校中の噂になるくらいだ。

「なんだ、武弘。俺を避けるとは」

「わ。いつの間にもとに戻ったんだよ」

「言ったであろう。この力は十分限りのものであると」

 ふっとユウが武弘を笑った。いつもの人を馬鹿にしたような笑みだ。だが、そのほうがユウらしいのだから文句は言うまい。

「神楽って、ほかにはどんな名前持ってるの?」

「俺か? ……切り札は早々他人に教えるわけもなかろう?」

 他人、と断言されたことが、少しだけ気に入らない。だが、それもそうかと思いなおす。ユウにとって武弘は単なる依頼人だ。今は武弘を『見張る』ために学校に潜入捜査中で、だけどこの呪いのメールの件が解決した暁には、ユウは学校を去るのだろう。

「なんだ、不機嫌か?」

「別に。俺とおまえって、大して仲良くないもんな」

 むくれて、自分の餓鬼さを思い知る。ユウは見透かすかのように武弘を見て笑っていた。それが余計に武弘を不機嫌にさせた。


 考え事をするときは、煮込み料理がちょうどいい。

 今日はスーパーで牛すじ肉が半額だったため、たくさん買いだめしてきた。これを大根と煮て大量に作り置きして、何回かに分けて副菜として食卓に出す予定だ。

「なんだ、そのような硬そうな肉を」

「硬そうって。牛すじ肉マジで万能だからな? 煮込んでおけばカレーにもシチューにもできるし、もちろん、甘辛く煮てもうまい」

 鍋にたくさんの湯を沸かしながら、武弘は牛すじ肉の血や汚れをきれいに洗い流す。

「まず、煮立ったお湯に酒を入れて、牛すじ肉を入れてゆでこぼす。十分くらいゆでたら鍋ごと水に晒して、牛すじ肉を洗う」

「ほう……なぜ直に煮込まぬ?」

「料理は下準備が大事なんだよ。臭み抜きに下茹では必須。で、これを一口大に切ったら、大根と水、ネギの青い部分とショウガのスライスとニンニクを入れて火にかける」

 鍋一杯に水が張られ、武弘は重そうに鍋をコンロに乗せた。そのまま火にかけ沸騰までは強火で、沸騰したら弱火にして、一時間から二時間煮込む。

「貴様、俺を餓死させる気か?」

「いや、だってまだ四時だし。煮込んでる間に呪いのメールのおさらいしたいし」

「……貴様は料理はできるが謎ときはてんでダメだな」

「そういうオマエは、謎解き以外……いや、名前の力使ったらなんでもできるけど!」

「そうだな、俺はなんでもできる。いずれその料理の腕も、俺のものになろう」

 そうだ、武弘のこの料理の腕は、武弘が死んだあとユウに受け継がれる。それは幸いなことなのではと思う。武弘の生きた証、プライドをユウが継ぐのだから。

 そう思うと、この先より一層料理の道に励もうとさえ思えた。高校を出て専門学校に通って、社会に出て修行して、死ぬまで現役で腕を磨き続けたい。

「でも、この暗号、マジで意味わからんし、そもそもURLはまじない……一度きりのだからもう見られないし」

 うんうんとうなりながら、武弘はスマホの画面をプリントした紙をにらみ見ている。

 プリントアウトすればなにかがわかるかもと思ったのだが、そう簡単にはいかなかった。


―――――――――

素戔嗚尊すさのをのみことよりぞ、三十みそ文字あまりひと文字はよみける」


やくもたつ 出雲八重垣いづもやへがき 妻つまごみに 八重垣つくる その八重垣を


そこに人あり。三十三の天皇、古事記に記されたり。神々のそのまた昔、古事記に始まる歌詠みの、はじまりの歌は須佐之男なり。須佐之男は海神、嵐神、農耕神の三の神を司る。

其の者、質より出てて、神宮二十四社のことわりなり。歌は個々性を持つ。

誕生し今、和銅五年に古事記は完成した。其の、なんと美しきことか。

其は何は神宮二十四社の神になるのか?

例えば無になり、二十はたまで生きて、其を成人と呼ぶように。

我はぞ事に願う。次世こそ安定なり、次世こそは安定なり。


 この、古事記の歌謡が曲者だ。ここになんらかの意味があるに違いないが、だがそれがなんなのか、まるで見当もつきそうにない。

 うんうんうなるだけで謎解きは一向に進まない。

「一つ目を教えてやろう」

「え。一つ目?」

「これの数字は、古事記の書き下し文を表している。書き下し文の文字の三十二、三、二十四番目……と繋げて読めば、暗号は解ける」

 武弘は、言われた通りにネットで古事記の書き下し文を検索する。

 八雲立つ、は須佐之男の歌から文字を取ることを暗示している。


かれここを以ちて

その速須佐の男の命、

宮造るべき地ところを、

出雲の國にぎたまひき。

ここに

須賀の地に到りまして

詔りたまはく、

「吾此地に來て、

あが御心

清淨し」

其地に宮作りてましましき。

かれ其地をば

今に須賀といふ。

この大神、

初め須賀の宮作らしし時に、

其地より雲立ち騰りき。

ここに御歌よみしたまひき。

その歌、 

や雲立つ

出雲八重垣

妻隱つまごみ

八重垣作る

その八重垣を。



その文字を繋ぎ合わせると、

「まことをとる?」

「そうだ。『まことを獲る』。つまり俺の名前――まことの名前だ。もうひとつは、人質今は無事、とある」

 呪いのメールにはふたつの暗号が隠されているらしかった。

 武弘はまた、最初からメールを読む。しかし、暗号なんてわからない。

 首を捻る武弘に、ユウは呆れたようにため息をついた。

「最後の文、『安定』というのは数字の四」

「四?」

「そうだ。世の中のもの――椅子などは、四本が一番安定するだろう? ゆえに、この文章の段落から四番目の文字を繋ぐと、『人質今は無事』」

 ほげえ、と武弘が口を開けている。まったく、ユウという人間は、この暗号を初見の、ものの数秒で解いていたのか。

「神楽って、すげぇな」

「今更だ。時に、牛すじはどうした?」

「あっ!」

 そうこうする間に牛すじ肉がいい具合にとろとろに煮込まれ、武弘は慌てて鍋の中を見た。まだ煮汁は残っている。焦がすところだった。

 武弘は気を取り直して最後の仕上げにかかる。

「ねぎの青い部分とショウガとニンニクは取り出す。で、酒、しょうゆ、みりん、砂糖で味付けて、さらに一時間」

「さらに一時間だと?」

「そう怖い顔すんなって。あ、ここで半分はジッパーに入れて冷凍保存で作り置き用にする」

「はあ。貴様は料理にかように時間をかけるのか」

「まあ、時間をかければおいしいものができるのは当たり前だし」

「そういうものなのか?」

「そういうもん」

 牛すじ肉の煮込みは副菜にするとして、今日のメインはチキンナゲットにすることにする。

「鶏肉?」

「うん。皮は細かく切って、胸肉は包丁で荒くたたく。で、酒と砂糖と塩で味付ける」

 ぱぱぱっと手際よく、武弘が下準備を進めていく。その傍ら、ユウは牛すじ肉の煮込みを今か今かと覗き見ている。

「味見する?」

「よいのか?」

「変なとこで遠慮するよな」

 武弘が笑う。そして、菜箸で牛すじ肉を一つ、つまみ取り、小皿に乗せてユウに出した。ユウは立ったまま、キッチンのそばで箸を持ち、牛すじ肉を口に入れる。

 ほろほろほろ、と口の中で崩れる牛すじ肉。じわっと染み出る甘辛い肉汁に、ユウはほっと息を吐き出した。まだ味の染みは薄いものの、十分に美味いとユウは思った。

 幸せだ、という顔をしている。

 武弘は心の中でガッツポーズをする。今日の料理もユウに気に入ってもらえたようだ。それが素直にうれしい。

 戻って、チキンナゲットのバッター液を作る。

 小麦粉、片栗粉、ベーキングパウダーに油、牛乳と卵と塩を混ぜ合わせる。バッター液は冷やしておいて、揚げる直前に冷蔵庫から取り出すのが理想だ。

「それは?」

「これはバッター液――チキンナゲットの衣」

「ほう」

 荒くたたいた胸肉をスプーンですくって形作り薄力粉をまぶす。それをバッター液にくぐらせてから油に入れる。バッター液はフォークを使うと手も汚れずきれいにつけることができる。

「揚げてもいいんだけど、今日は揚げ焼きで」

「揚げ焼き、とは?」

「え……そこから?」

 揚げる、というのはたっぷりの油を深めの鍋に入れてそこに食材を入れる方法。対して揚げ焼きは、食材が半分浸るくらいの油をフライパンに入れて、揚げながら焼く方法。

 どちらも一長一短はあるが、揚げ焼きは油の始末が楽なので、武弘は唐揚げも揚げ焼きにしているくらいだ。

「それで、焼き色がつくまで中火で加熱」

「ほう」

「あと、付け合わせはもやしのナムル」

 ぱぱっともやしをゆでたものに、ごま油と塩と胡麻を和えるだけのシンプルな料理だが、これが驚くほどうまいのだ。

 じゅう、じゅう、とチキンナゲットが揚がる音がする。油の跳ねが落ち着いたところで、キッチンペーパーを敷いたバッドに取り上げる。

「いったんキッチンペーパーに油を吸わせてから、金網に移すことでサクッとしていながら脂っこさが軽減された揚げ物ができる。出来上がり!」

「よし、食すぞ」

 キラキラと目を輝かせながら、ユウが武弘をテーブルに促す。もうだいぶ、事務所の客用のテーブルは、ふたりの食事の場所と化している。

 武弘が出来上がった料理をきれいに盛り付ける。料理は見た目も大事だ。

 武弘がこだわりながら盛り付けていることを、ユウもよくわかっている。だが、理解はできない。

 腹に入ってしまえばみんな一緒だと思っているからだ。

 きつね色に揚がったチキンナゲットは、じうじうと油が鳴いている。市販のチキンナゲットよりも厚ぼったい衣ではあるが、サクッとしているのは見た目だけでも分かる。

「召し上がれ」

「うむ」

「最初はケチャップなしがおすすめ。マジでうまいから」

 ユウは言われた通り、そのままで揚げたてのチキンナゲットを一口。サク、とした食感と、程よい塩気の肉。

 はふはふと言いながら頬張るユウが、多幸感を体中で表現している。うまい、ということがひしひしと伝わってきて、武弘もまた、チキンナゲットを口に放り込んだ。美味い。

「これは?」

「ナムル。韓国の料理なんだけど、シンプルなのにめちゃくちゃうまい」

 もやしのナムルを箸で挟み、ユウが口に運ぶ。しゃくしゃくと咀嚼して、ごくりと喉が上下に動いた。

 ごま油の香りと、塩のシンプルな味付け。なのに奥深い味わいがして、とても数分で作ったものとは思えない。

「うまいだろ?」

「そうだな、貴様の料理の腕は今更言うまでもあるまい」

 最後に、何時間も煮込んだ牛すじ肉。茶色くしっかり味が染み込んでいる。

 じゅわ、ほろほろ、と食感が楽しい。一緒に煮込んだ大根も、味が染みていて白米が進む。

 ここににらの卵とじの味噌汁が加わって、栄養価も満点の夕食の完成だ。

「はー、うまかった」

「自分で言うか」

「だって、俺の料理ってめちゃくちゃ美味くない?」

 あきれたようにユウがため息をつく。まるでユウと武弘は単なる友人同士であるかのように、平穏な時が流れていく。暗号は解けた。しかし、人質の場所はまだ、わからない。


 暗号の解読に頭を使いすぎたせいか、最近ことさら甘いものを欲している自分に気づいた。

 武弘はスマホを起動して、どこかに新しい甘味の店はできていないかと探し始める。

 ユウとの昼食ももう慣れたもので、クラスメイトからの冷やかしも受け流せるまでになった。

「神楽って甘いもんいけるクチ?」

「甘いものは好かぬ」

「あーだよな、そんな感じする。じゃあ俺一人で行くか……」

 武弘が見ていたのは、最近オープンしたチーズケーキの店である。その店では半熟のチーズケーキを売りにしていて、毎日行列必至の店なのだという。

 自分で料理をすることはもちろん好きだが、こうやってうまいものを食べ歩くのもまた、武弘は好きだ。他人の料理を食べると、自分の料理の改善点が見えてくることもある。なにより、他人が作った料理は幸せで泣きたくなるほど美味く感じるものなのだ。

「……貴様がそこまで言うのなら、付き合わんこともないが」

「いや、俺そこまで頼み込んでないよね?」

「嫌ならばよいが」

「いや、行こう。行く。さすがに男一人で甘味巡りってきついからな」

 やったぜ、なんて武弘が喜ぶものだから、わかりやすくて馬鹿な奴だと、ユウは内心でほほえましく思った。


 しかし。

 いざチーズケーキの店に赴くとなって、これはもしや迷惑なのでは。社交辞令だったのではと武弘は困惑している。

 今日の待ち合わせは最寄りの駅で、そして武弘は予定の三十分も前にそこにたどり着いた。

「べ、別に楽しみとかじゃないし」

 誰もいないのにひとりで言い訳する。確かに、一緒に出掛けるのは楽しみではあったのだが、それは甘味を食べられるからであって、決してユウとともに同じ趣味を共有できるからではない。断じて。

 友人と一緒に遊びに行くことは日常だが、ユウと自分は単なる雇用関係で、だったら私的に会うべきではないのかとも思う。ましてや、気になるケーキを共に食べて楽しもうなんて、お門違いだ。

「なにを呆けておる」

「うわ、神楽。そうやっていきなり現れるのやめろって……」

「……? 俺は普通に歩いてきたが?」

「……あ、ああ。そうね、そうだよね」

 さすがに、この街中でユウが覡なる力を使うはずもない。そう思いなおすと同時、自分はそこまで緊張していたのかと思い知る。

「で、さっそくチーズケーキの店に行きたいんだけど」

「むろん、かまわぬ」

「うん。でも、朝一番でも三十分は並ぶと思う、んだけど」

「……三十分?」

 怪訝な目を向けられて、やっぱりな、とため息をつく。

 ユウは待つのが嫌いだ。ただでさえ、武弘の料理の時間すら待てないのだから、三十分もチーズケーキのために並べるはずもなかった。

 だが、武弘も譲れない。なにがなんでもチーズケーキを食べる決意である。

「神楽は別の店見て回る?」

「いや。俺とて待てくらいできる」

「……ほんとに?」

「貴様は俺をなんだと思うておる?」

 なに。ユウは不可思議で謎めいた美青年。きれいな黒髪に切れ長の瞳、それにその服が一番の問題だ。

 ユウは基本的に洋服を好まない。だから今日だって着物を着てきているし、それ故に街中でも悪目立ちしている。

 正直に言うと、どうしていいかわからない。

 仮にユウが女だったのならば、ユウの服を褒め、周りの視線も気にしなかっただろう。

 だが、ユウとはあくまで探偵と依頼主の関係だ。着物を褒めることはおろか、一緒に歩いていいのかすら悩む始末だ。

 もしも自分と友人と思われることに嫌悪を抱かれたら、そう思うとどうにも一緒に歩きづらい。

「神楽はさ。洋服着ないの?」

「俺はこれが一番安らぐ」

「うん、そうなんだけど」

 道行く人々がユウに視線をよこしているのがわかる。そして、そのあとは決まって武弘のほうを見る。

 なんでこんな冴えない友人と? そんな声が聞こえてきそうなほどに、冷たい視線を、何十人からよこされる。

 いたたまれない。

 だから武弘は、ユウのほうを極力見ないようにして、黙々と目的地まで歩き続けた。


「チーズケーキ三十分待ちでーす」

 店に着くや、開店十分前だというのにすでに長蛇の列ができている。ユウと武弘はその最後尾に並んで背伸びしながら最前列の人物を探す。

「すげえな。開店前だぞ?」

「……」

「おい、すでに不機嫌じゃん」

「そのようなことはない」

 と言いつつも、ユウの不機嫌は明らかで、武弘はふうっと息を吐き出すと、カバンの中からA4の紙を取り出した。

「貴様、かような場所まで持ってくるか」

「いや。暇つぶしにと思って」

 言わずもがな、呪いのメールで見た物のメモである。

 紙には武弘の字でああだこうだと推測が書かれているが、正直言ってどれも的外れだ。

 時計、足、音楽。

 せめてあと一回、あの動画を見られれば。

 あの動画に映っていた少女は今も無事だろうか。こんな場所で甘味巡りなどしている余裕などあるのだろうか。

「案ずるな。彼女らは無事だ」

「……え?」

「なんだ、案じていたのではないのか?」

 ユウの言葉には妙な説得力がある。彼女は無事。その言葉に、武弘は少しだけ緊張が解ける。

「あ、確か。暗号に書いてあったな。でも、なんでそれが真実だってわかるんだ?」

「さて。ただ、この案件の黒幕に、心当たりがある」

「っえ?」

 それは、誰。

 そう聞こうとした瞬間、人の波がどっと動いた。店が開店したのだ。

「ちょ、うわ」

「……!」

 人波に押されて、もみくちゃにされる。

 着物姿のユウは、こと動きが鈍く、人ごみに押し流されていく――その手を、武弘がぎゅっと握った。

「わ、あぶな」

「……チーズケーキがかように危険なものとは」

「いや、チーズケーキが危険なわけじゃなくて」

 わなわなと体を震わすユウは、恐怖したというよりは、憤慨した、という表現のほうが近い。

 そんななか、ふと、ユウは。

「触るでない」

「あ! 悪い!」

 武弘に手を取られたことに気づき、思いきりその手を振り払った。

 そこまで嫌わなくてもいいだろうに。武弘はそう思うも、確かにユウにとって武弘は単なる依頼主であるため、触れられるのも嫌なのだろう。

 武弘のように、謎解きもろくにできない、なんのとりえもない人間は。

「お客様、二名様ですか?」

「あ、はい」

「では、店内ご案内いたしますね」

 暗い思考になりかけて、頭を振る。別に、どうでもいいことだ。ユウに嫌われようが、好かれようが。

 しかし、思うように武弘はふるまえない。店に入るとユウを案内するわけでもなく、無言で席に着く。

「ご注文お決まりのころうかがいますね」

「あ、はい」

「うむ。……時に武弘」

 今気づいたが、ユウはなぜ、武弘のことを名前で呼ぶのだろうか。初めて会った時からそうだ。

 そもそも、名乗っていないのに武弘の名前をどのように知ったのだろうか。なにも知らなすぎる。武弘は、ユウのことをこれっぽっちも知らない。

「どうした? 頼まぬのか?」

「あ、いや……」

「なんだ。先ほどから。言いたいことがあるのなら言え」

 煮え切らない武弘に、さしものユウもややあきれた面持ちで、武弘に促す。

 武弘は逡巡した後、重い口を開いた。

「神楽って、なんで俺の名前知ってたんだ? それに、なんで名前で呼ぶんだ?」

「……? それが普通ではないのか?」

「普通? 名前で呼ぶのが?」

 ユウが悪びれるわけでもなく答えたため、武弘は拍子抜けした。そもそも、意識しすぎなのかもしれない。

「それと、名前か。そうさな、俺には覡の力があることは知っておろう」

「うん。まだ信じられないけど」

「信じる信じないの話ではない。現に俺は覡だった。ゆえに、貴様ひとりの情報など、神力を使えば簡単に見つかる」

 なるほど、相談相手を間違えた、と武弘は思った。心霊探偵、という肩書に妙に惹かれて、ユウを頼ったのが運のつきだ。まあ、そのおかげで今こうして、アルバイトも見つかったし、あの不幸のメールの謎も追いかけることができているのだが。

「して、武弘。半熟とはなんだ?」

「え、知らないの? 半熟っていうのは……固まった部分ととろっとした部分がまじりあってて、とにかくうまい」

「ほう」

「でも、神楽は甘いもん苦手なんだろ?」

「いや。好いてはおらぬが食せぬことはない」

 つまりは、好きでもなければ嫌いでもない、というところなのだろう。ユウがメニューをくまなく見る中、武弘は落ち着かない様子でユウを見つめていた。


 注文を済ませて、いざチーズケーキが運ばれてくると、感嘆したのは武弘のほうだった。

「すげえ! キラキラしてる。きれい」

「きれい? 貴様は常々思うが、料理に美しさなど必要か?」

「必要だよ。大問題。フレンチなんかもきれいだよな。見た目が宝石みてえ」

 丸いチーズケーキは、こぶしほどの大きさがある。よくある三角に切られたものではない。この形もまた、半熟と称するにふさわしいこだわりなのだろう。

 武弘は早く食べたい気持ちを抑え、スマホを取り出して、チーズケーキの写真を撮る。前、後ろから、右から左から、上から、横から。

 ゆうに十枚は超える写真を収めて、そこでようやくフォークを手に取った。かたわら、ユウは既にチーズケーキを半分は平らげている。

「オマエさ、もう少し味わって食ったら?」

「味わう? 食事にそのようなことは必要あるまい。腹を満たせれば俺は満足だ」

「風情がないねえ」

 武弘はチーズケーキにフォークを入れる。ねっとりした触感と、のち、とろりとチーズが溶け出した。

 それを、一思いに口の中へ。

「甘ぁ! 幸せ!」

「大げさな」

「大げさじゃねえし。だってこれ、ほんとにうまい」

 一口目は口の中で溶けてなくなった。二口目は、先ほどより大きく切り分けて、口の中一杯に頬張る。

「程よい酸味にトロットロの食感……材料なに使ってんだろ」

 武弘はカバンの中から小さなクロッキー帳を取り出して、なにかを書き出す。ずらっと書き出したのはチーズケーキの材料だ。

 クリームチーズ、サワークリームも入っているのだろうか。つなぎには卵……とコーンスターチと薄力粉。さわやかな酸味はレモンの果汁と皮もすりおろしている気がする。

「ヨーグルトも少し、かな?」

「貴様はなにをしていても楽しそうだな」

「や。なにをしてもってわけだない。俺は料理が特別好きなだけで」

「……貴様のそういうところは、素直に好ましく思う。同時に、疎ましくもあるがな」

 ほめられているのかけなされているのか、武弘にはわからなかった。だが、ここは素直に「ありがとう」とお礼を述べる。

 武弘はクロッキー帳にメモを取りながら、チーズケーキをはくはくと口に運ぶ。どれだけ食べても飽きの来ない甘さだ。砂糖の量、というよりは、さっぱり仕上げるためのクリームチーズ類の配合だろう。

 なにより、この半熟具合だ。焼きすぎても焼かな過ぎてもだめだ。この焼き時間を見つけるまで、どれだけの時間を要したのだろうか。

「時に、武弘」

「うん?」

「メモをする、ということは、いずれ俺にも貴様のチーズケーキを出す、ということだな?」

「ん、まあ。しばらくは試作しなきゃだけど。俺なりのレシピに落とし込んで作るつもり」

 にかっと笑う武弘に、ユウは子供の成長を見守る親のような気持ちを抱く。ふわっと胸が浮足立つのは、いったいどうしたのだろうか。

「神楽?」

 ユウが難しい顔をして武弘を見ていたため、武弘はユウの顔の前で手をひらひらと振ってみる。ハッとしたようにユウが武弘に気づき、やがて顔をそらした。

「なんだよ、変なヤツ」

 ユウ自身もそう思う。ひとりの人間に深入りして、こうも振り回されるなど、不愉快極まりなかった。


 チーズケーキを食べた後は、ふたりでタピオカを飲むことにした。なんでも、ユウはタピオカを知らないのだそうだ。驚いた武弘が、「高校生なら一度はタピれ」と、半ば強引にその店に連れていかれた。

「これがタピオカだ!」

「……この丸いつぶつぶがか? まるで……」

「ストップストップ。見た目は確かにアレの卵みたいだけど、飲んでみるとうまいから。紅茶がいい? ココア? オレンジジュース?」

 チーズケーキの店とは違い、武弘はてきぱきと注文を済ませる。というよりは、屋店のため、悠長に迷っている暇などなかった。背後には長蛇の列ができている。

「紅茶がよい。甘くないもので」

「了解。俺はミルクティーかな」

 武弘の言葉に、ユウはげんなりとした視線を向けた。あれだけ大きなチーズケーキを食べてなお、甘いものを食べる余裕があることに心底驚いている。

「タピオカは別腹。いや、チーズケーキが別腹なのか?」

「育ちざかりは恐ろしいな」

「そう、それもある。俺は華の男子高校生だし」

 注文したドリンクがふたつ、手渡される。それと同時に支払いを二人分済ませて、武弘はユウにタピオカを渡した。

「金は?」

「ん? ああ、いいよ。小銭だし」

「いや、そういうわけには」

「ほんといいって。今日も無理くり付き合わせたわけだし」

 ずぞぞ、と武弘がタピオカをすする。ユウもまた、恐る恐るタピオカをすする――しかし、勢いよくタピオカが口に吸いこまれ、その勢いのまま喉の奥へ滑っていく。

「けほっ」

「わ、ごめん。初めてだもんな」

 むせるユウの背中をさする。さすったはずだった。

「お、俺、水もらってくる」

「よい。大丈夫だ」

 涙目になりながら、ユウが武弘の手をつかんだ。上目遣いに、うるんだ瞳で見上げられて、武弘は妙な気分になる。

 黙っていれば、ただの美青年なのだ、ユウは。けほけほとむせながらも、「うまいな」と喜ぶさまは、武弘となんら変わらない、ただの人間。だが、その顔色はいつも青白い。というよりは、白磁に近い色だと思った。肌につやはあるものの、まるで陶磁器のように温かみがない、そんな風に武弘は思う。

「なんだ、じろじろと」

「いや。神楽って本当に不老不死なんだよな」

「今更か?」

「うん、今更だ」

 人間、の姿かたちはしているものの、顔色はいつもよくない。ついでに言うと、今日初めて分かったが、手だって氷のように冷たかった。先ほど、チーズケーキの店で雑踏にもまれたとき、慌てつかんだユウの手は、まるで体温を感じなかった。

「てかさ、神楽ってなんでそうなったの?」

「『そう』?」

「えーと、名前をなくした理由?」

 すると、ユウの目の色が変わった。恐れる、というよりは、怒りを含んだそれである。

 聞いてはならないことに触れてしまったのだと、後悔しても遅かった。

「貴様のようにひとの心にずけずけと立ち入る人間は好かん」

「ご、ごめん……」

 ずんずんとユウが歩き出す。どこへ行くわけでもなく、人ごみに向かって真っすぐ。

 武弘は慌ててユウを追いかけるも、呼びとめたり、話しかけたりすることはできなかった。できるはずがなかった。

 ユウだって、好きで名前を亡くしたわけじゃない。それを、会って間もない人間――もっといえば、武弘のような子供になど、教えるはずもないというのに。

「馬鹿みてえ」

 仲良くなったと錯覚していた。心を開いてもらえたと。

 だが実際、武弘とユウは単なる探偵と依頼主。ゆえに、ユウは線引きする。ここから先は、武弘と言えども踏み込ませない。そんな拒絶が背中からうかがえた。


 ユウのあとをついて歩くも、どこに向かっているのか皆目見当がつかなかった。つかないながら、どうにも『怪しい』雰囲気の場所に向かっていることは明らかだ。

 しゃらしゃらと歩く度に着物の衣擦れの音がする。裾つぼまりの着付けのせいか、ユウの歩幅は制服時よりはるかに狭い。草履は歩きづらそうに見えるが、ユウはしゃなりしゃなりと綺麗に歩く。

 その後ろ姿を見る余裕もなく、武弘はびくびくしながらユウに隠れるようについて歩くも、ぴたり、ユウの足が止まる。

「いるな」

 ひゅおっと風が吹く。生暖かい、気持ちの悪い風だ。その風が武弘の頬をなぜたかと思うと、やがて武弘の頬にべとりぬるりとしたなにかが這った。

「んひいっ!」

 悲鳴を上げると、その『化け物』はにたりと笑い、武弘の手をその長い舌でからめとる。はずだった。

 サクサクサク! と化け物の舌が鋭利な刃物で切り取られる。

 武弘は化け物を振り返った。巨大な顔だけの化け物だ。舌が手足の代わりをしているらしく、舌先が何枝にも分かれている。

 べとりと付着する化け物の唾液をぬぐおうとするも、クラ、と目の前が霞んでいく。

「これだから人間は不便なのだ」

 ユウの手にはいつの間にか刀が握られている。紫色の刀だ。そして、ユウが武弘に向かってなにかを唱える。

「かぐら……?」

「しゃべるでない。あやつの体液には麻酔作用がある。退け、悪なるものよ!」

 ユウの凛とした声。そして武弘の体に絡みついていた化け物の唾液が、ばん! とはぜるようにして体から離れていく。

 武弘がいくらぬぐおうとしても取れなかったそれは、ユウの言葉ひとつで散り散りになった。これこそがユウの力なのだろうと、武弘はほうっと息をのんだ。

「さて。俺は非力故、舌は切れるが胴体は切れそうにない」

 確かに、先ほどから化け物の本体を切りつけているが、傷は浅く深手にはならない。

 ユウがふっと息を吐き出して、両手を胸の前で合わせながら、唱える。

「我が名は青海友治なり!」

 ごうっとユウの体が光る。かと思えば、ユウの雰囲気ががらりと変わった。

「腕がなるぜ」

「お、男?」

 まるでどこかの江戸っ子のようなしゃべり方だ。しゃきしゃきと動き、その手に握る刀を豪快に振るう。それこそ、先ほどまでの刀の振り方は『繊細』という言葉がぴったりだったが、今のユウ――いや、青海友治なのかもしれないが――は、力任せに刀を振るっているといった感じである。

 化け物が次々切り込まれる。一筋、二筋。

 結局何回きりつけたのかもわからない。化け物は見るも無残にばらばらに分解され、やがてチリとなって消えていく。

「すげえ……」

 しゅうっとユウの体が元に戻る。体が、というより雰囲気だけなのだが、武弘にはそう見えたのだ。

「今のは?」

「怪力の主の名前だ」

「怪力……てか、男のひとの名前もあるの?」

「あるに決まっておろう」

 ふん、と鼻を鳴らして、ユウは武弘を立ち上がらせる。

「行くぞ」

「行く? どこに?」

「まだまだ観光とやらをするのであろう? ならば、俺を案内せよ」

「あ、うん。うん……!」

 先ほどまでの不機嫌は、どうやら化け物を見つけたせいだったのだと、武弘はそう思うことにした。

 しかし、武弘はやはり、ユウのことを全く知らない。先ほどの男の名前だって、刀のことだって。

「なにか聞きたいことでもあるのか?」

「あ、いや……刀どっから出てきたのかなーって」

「……」

 てっきりまた断られると思ったのだが、ユウはゆっくりと、まるで他人の昔話を聞かせるように、口を開く。

「刀は神力で作り上げた。俺は昔、覡だった。それも、腕の立つ」

 わかる気がする。ユウは普通の人間じゃない。それを抜きにしても、特殊な能力を持っている。

「そうさな。どこかに腰を据えて話すとしよう」

 ユウにいざなわれるように、近くの喫茶店のドアをくぐる。こんな風に、こんな場所で、こんなタイミングで、そんな大事な話を聞いてもいいのだろうか。そう思う自分と、好奇心には勝てない自分。どちらも武弘の本音である。


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