2.ロゼール
騎士の一件から1か月後の夕方、私はその赤く照らされた一本木に、兄ジャックと一緒にいた。
「‥‥それで、話って何だ?」
ジャックは不器用だけど、私のことを思ってくれる一番の兄だ。だから私は意を決して打ち上げることができた。
「今まで黙っていたけど、私、実は聖女にしか使えない聖魔法が使えるの」
「そんなの、みんな知「それでね、私、決めたの」
自分の決意が途中で曲がるかもしれないから、私はできるだけジャックの言葉を聞かないようにした。もちろん、私にはまだ恐怖がある。私の気持ちを伝えるだけでも、恐怖で押しつぶされそうだった。でも何もしないままだと、私はきっとイザベラのときよりも深く傷つく。取り返しのつかないことになる。その一心で、私はひたすら言葉を付き足した。
「私、国の聖女にはなりたくない。でもこの前の騎士たちのように、私にしか救えない人を見殺しにしたくない。だから個人的に活動したい」
「個人的に?」
「うん。私は浮遊魔法を使えるから、それで隣の町まで一時間で移動できる。毎週一回、夜中に隣の町まで行って、聖魔法を使って人々を助けたいの」
ジャックは「そうか」と短く返事するだけだったが、私の瞳をじっと見つめたままだった。
「それで、なぜ俺にそれを伝えた?」
「手伝ってほしいことがあるの」
「俺は聖魔法なんて使えないぞ」
「うん。私が出かけている間、ここにいるお父さんをごまかしてほしいの」
「それだけか?」
「あと、服選びも手伝って欲しいかな。正体がばれないよう体を隠す服は何と何を組み合わせたらいいか、相談に乗って欲しい」
「分かった」
ジャックはあっさり頷いた。私は「ありがとう‥」と答えて、それからすぐ違和感に気付いた。
「‥‥ねえ」
「どうした」
「どうして、私が聖女になりたくない理由は聞かないの?」
今、このクローレン王国はあちこちで瘴気が増えているという話を知っている。国は聖女を強く求めているはず。聖女が増えれば、国全体はもとより、他の街に野菜を売っているこの村も潤うはず。ジャックにとっても利益になる。なのに聖女にならないと言った私を引き留めようともしなかった。それが引っかかった。
「‥‥別に、興味ないし」
ジャックはそっけなく首を振った。‥‥でも私には、その返事が嬉しかった。目先の利益を擲ってでも、家族の私を大切にしてくれるジャックが好きだった。
私は、ロゼールとして生まれて初めて他人に秘密を打ち上げた。私の秘密を知るのは、ジャック1人だけ。‥‥のはずだった。私はずっと、一本木の裏に隠れてくすりと笑っている少女の影に気付かなかった。
◇
「スカートは絶対にダメだ」
運良く隣国からメル市へ行く途中の行商人がこのホリア村に泊まってきたのを捕まえて服を見せてもらった時、私のそばにいるジャックがすかさずそう言った。
「姿が見えなくてもかわいらしい服を着たいよ。私、いつもワンピースだよね」
「ロゼール、浮遊魔法を使うんだろ? 下から見えるぞ」
「でも夜中だし‥‥」
「メル市には街灯があるぞ。絶対やめとけ」
「う、うん」
行商人の宿の薄暗い部屋の隅っこで、ジャックは私に小声でアドバイスしてくれた。
「このズボンにしとけ」
「脚が見えないと幽霊みたいで嫌」
「うーん‥‥じゃあ、この灰色のズボンで」
「うん」
商人にお金を払ってお礼を言ってから私たちは宿を出た。すれ違いで一人の少女と一人の少年が入ったけど、この村には服屋がないので需要があるんだろう。それより私はまた、気になることが1つできた。
「ねえ、お兄さん」
「どうした」
「どうして私が浮遊魔法を使えること、あっさり信じるの? 見せたこともないのに‥‥」
魔法にもいくつか種類がある。誰でも使える魔法、特別な道具がないと使えない魔法、様々だけど‥‥浮遊魔法は精霊魔法といって、精霊に話しかけられる人にしか使えない。聖女にも魔力の高さや精霊の気まぐれでランクがあり、イザベラや私のような高ランクの聖女は精霊に語りかけることができるから、精霊魔法が使えるのだ。
‥‥今思えば、村生まれのジャックにどこまで知識があるかわからないけど。もしかしたら、イザベラは浮遊できるという話が、聖女なら誰でも浮遊できるという話にすり替わったのかもしれない。聞いたことないけど。
「ロゼールが使えるって言うんなら使えるんだろう」
ジャックはそっぽを向いて答えた。私は「‥‥ふふ」と控えめに笑った。そっけない言い方だけど、私を信じてくれている。
◇
準備は整った。
私は近所のおじいさんを手伝っているけど、そのおじいさんのところにメル市で働いている息子が戻ってくるのが毎週日曜日から月曜日の間。その間、私は休みになる。日曜日の午後に昼寝して、月曜日は昼過ぎまで寝ることができる。だから日曜日の夜が私には一番都合いい。
実は日曜日にも父の仕事の手伝いに呼び出されることがあるんだけど、午前中に頑張って終わらせた。午後に急遽声をかけられることがあるが、そこはジャックに頼んだ。今日はたまたまかもしれないけどジャックがうまいことやってくれたらしくて、安心して昼寝できた。
みんなが寝静まった頃、私とジャックは家の前に出た。周りの家はどれも寝静まっているが、例えば眠れない人が窓から外を眺めるようなことがあったら大変だ。人気のない丘の上の一本木まで移動する。ジャックは「そこまでしなくてもみんな‥‥」と言って口篭もった。
「それじゃ、行くね!」
「ああ」
灰色の長ズボン、黒い上着。そして、口を覆うマスク。長髪をジャックが頑張って丸めてくれた、後ろのお団子。ジャックは髪をまとめるのを近所の子で練習してくれたらしい。変装は完璧かな。
初めての仕事だ。これでやっと、私にしか助けられない人を助けることができる。本職の聖女を経験したものとして、教会にある専用の設備を使って国全体を助けることと比べるとほとんど無意味で気休めでしかないことは分かっている。でも、私は少しでも、自分にしかできないことをやりたかった。あの騎士たちにささやかながら贖罪をしたかった。
私はすうっと息を吸って‥‥風の精霊に心の中で語りかける。
《久しぶりだね。浮遊できるかな? メル市まで行きたいんだ》
もちろん、いいよ。頭の中にどことなく声が響くような気がする。人生を越えた懐かしい感触。実はジャックに相談する前に一人で確かめたので浮遊魔法は今の人生では初めてではないんだけど、遠距離を移動する本格的な使い方は初めてだ。緊張する。
私の足がふわりと地面から離れた頃‥‥。
「その魔法は1人乗りですか?」
不意に声がかかる。木の裏から、ぬっと一人の少女が姿をあらわす。「えっ」と、私は青ざめた。見られた。浮遊魔法を見られた。聖女の中でも特に高位なもの――大聖女にしか使えないはずの浮遊魔法を見られた。
まだ間に合う? いや、ジャンプだとごまかすには遅すぎる。私は着地すると、その少女の顔を遠巻きに見た。月明かりだけの暗い夜でも分かるような輝く金髪、そしてすらっと整った姿勢。顔はよく見えないけど、身振りで分かる。
この少女――フローラは、1年前この村に引っ越してきた。といっても親はいない。一人の少年と一緒だった。そして、身振り、仕草、言葉遣いが他の村人とは比べ物にならないくらい丁寧で上品だった。貴族の駆け落ちかと村人たちは噂していた。私も前世、前々世で多くの貴族と関わってきたからそう思う。これほど自然に振る舞えるようになるまでには、相当な教育が必要なはずだ。
2人は自己主張することもなく、ひっそりと村人たちの手伝いをして打ち解けていた。引っ越してから1ヶ月経った頃からだろうか、私はフローラからよく話しかけられるようになった。話してみると私と同じ年齢だった。気がつけばお互い、この村の子供の中で一番話していた。フローラは重点的に私ばかり狙っていたらしいし、今まで聖女としてそのような交友関係を作ることのできなかった私もとびきり嬉しかった。一番仲いい友達だと村人たちに言われているし、私もそう思う。この前の騎士事件のときに尋ねてきた友達もフローラのことだ。
家族以外では一番仲のいい、親友だ。だが浮遊魔法を見られた以上、身構えてしまう。‥‥そして気づいた。フローラは長い金髪を風のように揺らしているのが印象的だったが、今日の金髪は‥‥ない。短い。肩よりも少し上でばっさり揃えられている。風で毛先が見えたので、結んてるんじゃなくて切ったで間違いないと思う。声は一緒だよね。こんなフローラ、初めて見た。
服装も、いつも着るピンクのワンピースではなかった。黒い長ズボン、茶色で地味な服、そしてなにより口を黒いマスクで覆っている。服装がほとんど私と一緒だ。何で、髪の毛を切って、私とファッションを揃えてまでこんなところに来たのか‥‥。
フローラはいつものようにスカートを掴み上げることはなかった。だがうやうやしく頭を下げて、丁寧に言った。
「わたくしも同行させてください」
「え‥‥えっと‥‥」
「さもないと、あなたが聖魔法を使えることを村のみんなにばらします」
その親友の天使のような微笑みは、真っ黒な何かを隠しているようにさえ思えた。
私はすがる目でジャックを見た。「助けて、お兄さん‥‥」「一緒に行けばいいんじゃないか?」ジャックの反応は意外とそっけなかった。緊急事態だというのに平然としていた。まるでこの場は大丈夫だとでも言いたげだった。でも私は震えていた。見かねたジャックが代わりに声をかけてくれた。
「一緒に連れて行けばばらすことは絶対にないか?」
「はい」
「それ以上の要求をすることはある?」
「絶対にいたしません。はじまりの聖女ディーアンヌに誓います」
「だってさ。はい、袋」
ジャックは私のマスクを取り外した。私は袋を自分の口にくっつけて、何度かゆっくり深呼吸した。私、また過呼吸の発作が出てしまったらしい。
「はじまりの聖女に誓うまで言ってくれてるんだから、連れて行っていいんじゃないか。何かあったらロゼールと俺2人でこの村から逃げよう」
「‥‥‥‥分かった。けど、ちょっと待って」
私は袋をはたいて空気を入れ替えたあと、その場にうずくまってもう一回袋を口につけた。その背中を、隣までやってきたフローラがさする。
「突然無理を言って申し訳ありません。ですが、わたくしは聖女に憧れています」
「聖女に‥‥?」
私は一瞬だけ袋から口を離して言ったあと、また袋を口につけた。フローラは私の背中をさすり続けている。
「前聖女のイザベラ猊下がご遷化あそばしたあと、この世界は瘴気で溢れるようになりました。わたくしもその苦しみから逃げてまいりました。真の聖女不在の今、わたくし自身が瘴気を取り払えたらどんなにいいことかとひどく悩んでまいりました。ですので、あなたの助けになりたいのです。あなたを国に突き出すつもりは微塵もございません。あなたが体調を崩したら、わたくしが介抱します。あなたが捕まりそうになったら、わたくしが身代わりになります。ついて行って構いませんか?」
「‥‥‥‥」
最初に脅してきた人をどう信用すれば‥‥と思ってフローラと目を合わせたが、その目は真剣だった。嘘を言う人の目に見えなかった。ばっさり切られた髪が柔らかく、風にあおられていた。前世の記憶を持っている私と違って、私と同じ9歳、幼い子供なのに、瞳に反射する月光は微動すらしなかった。
「‥‥分かった。いいよ」
「はい。ありがとうございます」
私が立ち上がる時によろめくと、フローラが肩を持ち上げてくれた。「ありがとう」と言うと、「早速手伝いました、ふふ」と笑っていた。
◇
「今日は静かですね。どうしたのでしょうか?」
2人並んで村に向かって空を飛んでいると、フローラが不意に尋ねてきた。そういえば、訪問聖女を終えて村に戻るまではおしゃべりの時間だった。
「ちょっと昔を思い出してただけ」
「そうでしたか」
フローラも、5年経った今では私の大切な仲間。フローラがさりげなく手を差し出してきたので、それを握る。夜中を駆け回ったというのに、それは妙に暖かかった。私の体の芯まで温まるようだった。
私はフローラと過ごしてきて、この気持ちにうすうす気づいている。これはきっと友情ではなく――‥‥でもフローラに迷惑がかかったらいけないので黙っておくようにしている。私はフローラを避けるように、前を向いた。
「初めて訪問聖女をやる晩までのことを、ちょっとね」
今日はちょっと遅くなりすぎたから、丘ではなく森に着地したほうがいいね。
朝日は東から昇る。後ろからうっすらと照らされた僅かな光を、西の向こう側の山はすでに反射していた。