16.ロゼール
さらに上へ向かう階段があった。階段というよりもはや梯子ほどの急な斜面であったが、それを上り終わると屋根の上だった。
「あれを見ろ」
男が指さしたのは、メル市の市街部だった。ここは、市街部から離れた人気のない岩場の上に建てられた建物だったらしい。
そして‥‥市街部の手前に、小さい物体が至るところに転がっているのに気づいた。あれは、夜の遠目だからよくわからないけど‥‥。私は目を凝らして確認する。
「あれはテントですか?」
「そうだ。何のテントだか分かるか?」
「‥‥住んでいるところを瘴気で追われた人たちですか?」
メル市の様子を見て嫌な予感がしていた私は、そのまま答えた。
「惜しい。あいつらはみんな、お前を待っているんだ」
「えっ、私を‥‥?」
「メル市では毎週日曜日に聖女が来て、瘴気を治してくれるという。その話が国中に漏れたんだよ。だから瘴気を治してもらうために、全国から集まっているんだ。ここはメル市の南側だが、あれと同じのが東や西にもある。相当な数になることくらい、分かるだろう」
「そ、そんな‥‥口止めしていたはずなのに‥‥メル市の人たち、いい人ばかりじゃなかったんだね‥‥」
「だからお前はおめでたいんだ。俺は情報を漏らした奴らに同情してる」
「えっ‥?」
「ああ。このクローレン王国は、メル市以外全滅だ。もうここ以外は人の住める場所ではなくなっている。そうでもなきゃ王都の金持ち専門の俺たちがわざわざこんなところまで来ねえよ」
私は立っていられなくなった。膝が地面にぶつかる。すぐに私の両肩がフローラの手で温められた。しかしフローラの手も震えている。私の肩が揺らされている。
「‥‥お、王都はどうなったのですか?」
フローラの声だった。
「知らん。まあ、長くないだろうよ」
「そんな‥‥」
「田舎の子供には分からんだろうから教えてやる。大聖女はいつもクローレン王国にばかり生えるもんで、他国はみんな恩恵にあずかっているんだ。だからクローレン王国が潰れたらどうなるか分かるか? 他の国も潰れる。人類滅亡だ。すでに世界中で人がばたばた死んでるだろうよ」
「ご、ごめんなさい‥」
フローラが私の肩から離した手で口を押さえる。震えるように首を振っている。私もフローラを見ている余裕がない。その視界が歪んでいく。
「そんな、そんなことって‥‥」
頭を抱えてうずくまるしかできない私の後ろで、一呼吸置いて男は続けた。
「お前がどうして力を隠しているかは知らんが、国お抱えの聖女になりたくなけりゃ今すぐ聖女ごっこをやめろ。それがお前のためだ。ああ、飛べるなら飛んで帰れ、下は危ねえぞ」
男たちの足音が聞こえる。この天井の上に私とフローラ以外の人がいないのは空気で分かる。でも私はずっとそこで氷のように固まっていた。何も考えられなかった。理由は定まらないけどただ無念で、悔しくて。今まで目を逸らし続けていた現実を突きつけられて。草も生えていない天井で、虚無を掴んだ。
◇
フローラが一緒に帰ってくれることになった。
パン屋に戻る頃には、すでに鶏の啼き声が聞こえた。母は窓から入ってきたフローラの姿を見るなりすぐ1階へ飛んでいって何やら言い争いをしてから戻ってきた。
私はその日の朝食で、何を話していたのか分からない。自分は無力感の塊だった。なんとか笑顔を作ることだけはできていたと思う。でもはじめは私とフローラを見て陽気だったシルベーヌがだんだん顔を曇らせていったので、私の気持ちは伝わってしまったと思う。
馬車の時間ギリギリに合わせて店を出て、とにかく全力で走るという作戦になった。なぜその作戦になったかは分からないが、帰るときくらいゆっくり歩きたいと言った私以外全員が賛成した。フローラも賛成していた。
フートローブをかぶった私を母がおんぶしてくれることになった。フローラも私と似たようなフートローブで身を隠している。
「夜にいなかったけど、何かつらいことでもあったの?」
私を持ち上げた母が尋ねてきた。
「ま、まあね‥‥」
「困ったらいつでも言いなさい。私たちはみんな味方なんだから。秘密にしてほしいことがあれば絶対守るわ」
「‥‥ありがとう」
「ロゼールが落ち込むと周りの人も落ち込むよ」
「‥‥うん」
私は力なく頷いた。そのあとの母の「あんたは特別なんだから」という言葉が出る頃には、すでに走り始めていた。
◇
メル市を横切る十字の大通りの中央から東にそれたところに、停留場がある。馬車の周りの人はまばらだった。
「少し早すぎたみたいだね」
母はため息をついて、私をベンチに座らせ、「下を見とくんだよ。私は帰るからね。挨拶は無し」とささやいてきた。パン屋の中ではあれほど大切にしてくれたのに、冷たすぎる。母は私のことをみんなから隠したいのかな。私、そんなに出来の悪い子供なのかな。いっそそのままでもいい。だって私は本当に数え切れないほどの人を殺してきたんだから。隣にフローラが座ってきたけど、私は何も感じなかった。
と、私がベンチに置いた手が包まれるような感触がする。暖かい。心まで響く。
「寒いですか?」
「‥‥大丈夫」
「ふふ、やっと反応しましたね」
うつむいたままフローラの方を向くと、フローラとぱっちり目が合う。私は顔も手も引っ込めたが‥‥フローラは腕を掴んでくる。
寝ぼけて告白してしまった一件があるから私はフローラから逃げてきたはずなのに、どうしてこんなところで一緒にいるの。
「離して」
「離さない」
そのまま腕をえいっと引っ張ってきて‥‥私の頬に、熱くてやわらかいものがふわっとくっつく。
頬にくっついた熱いものの上の方で、熱い風を感じる。鼻息。でもそれはすぐ、頬から離れた。頬が一気に寒くなる。今当てられたのって、もしかして‥‥。待って‥‥。なんで‥‥。
「ようやく落ち着きましたか?」
「‥‥えっ?」
「ちょっといたずらをしてみました」
落ち着くどころか逆に興奮しているんだけど‥‥え、いたずら? どうして? どうしてそんな、今一番されたくないことをわざわざするの?
ゆうべ盗賊から言われた時、私だけでなくフローラも落ち込んでいた。なのに何で、私に優しくしていられるの?
「な、なんでこんなこと‥‥」
「落ち込んでいる時は、別のことで頭をいっぱいにすればいいのです」
フローラの顔は、フートのせいでよく見えなかった。でもフローラの手に覆われている私のそれがどんどん熱くなってくる。熱すぎてやけどしそうで、今すぐ手を離したくて、でも手が石のように動かない。この熱は私の体温のせいなのかも分からない。
フローラにとってはただのいたずらのつもりでも、私にとっては大事件。私、メル市まで逃げてきたんだよ。なのにどうしてこうなるの。
◇
多人数を輸送する馬車は、壁に囲まれた床があり、その上の好きなところに座る感じだった。壁は座った時に肩まで届くくらいにしか高くないが、周りの景色を見ることができる。私たちのほかには、5人くらいが乗っている。どれも見たことのない顔ばかりなので、ホリア村へ行く途中の他の村に用事があるのだろう。
馬車は進み始めた。と、私の向かいに座っている2人組の青年たちが話しているのが聞こえた。
「見ろ、あの噴水広場にある銅像、イザベラらしいぞ」
「まじか」
私も振り返ってみると、メル市の十字大通りの中央にある噴水広場に、確かに銅像が見えた。聖女にしか着れない特別なスカプラリオ。胸のあたりで2つに割れるローブとその下に見える無地で細いドレス、そして肩が膨らんでいる衣装は、私が前世で着たデザインとそっくりであった。顔はよく見ていないけど、前世の私がしていたような表情ではないだろう。前世はずっと寂しかったのだから。
「大丈夫?」
フローラが耳打ちしてきたので、私は「うん」と小声で返事した。
馬車はメル市を離れた。話題がない。フローラのことは聞きたくない。聖女の話もここでしたら他の人に聞かれるかもしれない。そのまま馬車に揺られながら、向かいの人たちの会話を聞き流していた。
「最後に遊べてよかったな」
「もうメル市しか残ってなかったけどな」
2人はとんでもない話を、陽気に、まるで日常の一部であるかのようにしゃべっていた。昨日の私であれば、その会話の意味は分からなかっただろう。
「そうだ、陛下の話聞いたか?」
「ああ、聞いた聞いた」
とたんに私の隣のフローラが身を丸めているのに気づいた。震えている。‥‥そういえば、盗賊と話したときも、フローラは王都の様子を心配していた。王都に、そんなに心配な人がいるのだろう。気がつくと私の手は、フローラが丸めた膝に置いている手の上にあった。
「大丈夫?」
「‥‥うん」
いつもフローラに守られてばかりだから、私もなにかしたい。‥‥素手を触るのは恥ずかしいからすぐ引っ込めたくなったけど、引っ込める状況でないことは私でも分かる。
2人の青年たちの話は続く。
「陛下には子供が4人いただろ。そのうち1人が行方不明になっていてさ」
「ああ、聞いた聞いた。ディアナって名前だった。死ぬ前に会いたいって、あちこちに兵をやっていた時期があったな。確か去年くらいだったか」
「メル市にも来たらしいぞ、クリスが迷惑だと言ってた」
「ああ、クリスか‥‥やめてくれ、思い出させないでくれ。あいつだけでなく墓まで瘴気に取り上げられちゃってさ‥‥」
「へ‥陛下は今、どうなってますか!」
2人がしんみりしていた雰囲気をぶち壊すように、フローラの高い声が割り込んだ。
「さあ。去年の時点では生きてたんじゃないかな」
「そろそろ危ないんじゃないの」
「いや、去年でも兵を動かす元気があったんだ、まだ生きてると思う」
その時のフローラは、視線の定まらない目で、さっきの余裕はどこへやらうつむいていた。
「陛下が‥生きている‥‥」
そういえばフローラは村でも貴族出身と噂されることがあった。国王とも何らかの関係があるのだろう。仲良かったのかな。私は自分がされたのと同じように「大丈夫、大丈夫」と言いながら背中をさすった。




