2-1 天下無双 -Fortissimo-
人別帖に記された一人、仕掛け屋九平治。
元は北邦の熊狩りだったが、山の化身たる熊の尊厳を損なう卑劣な狩りをしたとして土地を追われ、『裏』の仕事人となった。
と、言うのも。
九平治は正面きっての真っ向勝負が嫌いだった。
彼の背は小さく、体つきも細く貧弱だ。
正面からぶつかっては、熊どころか人間にだって勝てないから、道具や策、罠などの『仕掛け』を駆使した。
例えば、子熊を捕らえて生きたまま串刺しにし、助けに来た母熊を撃ち殺したり、仲間の狩人を囮に地雷でまとめて吹き飛ばしたりと、容赦も情もない。
仕掛けにはまって死んでいく獲物が強く大きいほど、九平治の捻じ曲がった自尊心は満たされるのだ。
そして、それは人間相手でも同様だった
「『天下無双の王槐樹』は極上の獲物ですよ。暗殺の報酬も弾みます」
「ああ。うわさは聞いている」
暗い山道を往きながら、九平治はうなずいた。
その小さな身体を包む暗緑色の装束は山の暗闇によく溶け込んでおり、露わになっている首から上だけが宙に浮いているようにすら見える。
熊狩り秘伝の、山隠れの狩装束だ。
「それよりも、王槐樹は本当にこんな山の中に棲んでいるのか」
「ええ。武者修行で各地を訪ね回っている彼の、ほぼ唯一と言っていい拠点です」
依頼人はにこやかに答えた。
朗らかな顔でニコニコしている分には、ちょっといいところの店の主人にしか見えない、中年のパッとしない男だ。
しかし、その実情は、どうやら幕府の『裏』に関わる実力者のようだ。
通り名は『マサ』。
それ以上のことは、疑り深い九平治の下調べをもってしてもよく分からなかった。
「もう少し行った先に、彼が山籠もりに使うあばら屋があります。今頃は中で寝ているかと」
「早寝早起きか。規則正しい生活が強さの秘訣というわけだ」
九平治は、にやりと笑った。
「だが、そのせいでお前は、闇の中で訳も分からず狂い死ぬことになる」
九平治は山隠れの頭巾をかぶり、全身を暗闇へと溶け込ませた。
ただ、覗き穴から見える両目だけが、小さな光虫のように自然光を反射している。
「ここからは一人で行く。手出しはするな」
「ええ、もちろん」
マサが答えた時にはすでに、九平治はそこにいない。
一度見失えば、闇の中で探し出すのは不可能。
狩猟者は、音もなく行動を開始した。
夏の山は、視界は暗黒だが、その代わりに気配に満ちている。
鬱蒼とした湿気を通して、潜む小動物の息遣いが、虫の羽音が、山そのものの呼吸が、九平治へと伝わってくる。
それらを読めば、目をつぶった状態で初見の山すら歩くことができる。
そんな九平治だからこそ、この先で待つ存在の気配を嫌なほどに感じ取っていた。
いや、そんな特殊技能がなかったとしても……
「ぐごおおおおおぉぉぉぉぉぉ……がごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
「こぉぉぉぉぉぉぉぉ、ひゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、ひゅごっ! すぴぃぃぃぃぃぃぃぃぃ……」
「……うるせぇ」
まるで、イノシシの大群がいっせいに鼻を鳴らしているかのような、やかましい鼾だった。
筋骨隆々、男盛りの身体を道着に包んだ大男が、山の中の小さなあばら屋の床で寝ている。
『天下無双の王槐樹』。
天下無双とは、天の下に同じ強さを持つ者が双つと存在しないこと。
つまり、最強を意味している。
実際に最強かどうかはともかく、最強を名乗る図太さは確かにありそうだった。
「ったく、のんきな寝顔だぜ」
心の中で呆れながら、九平治は懐に仕込んでいた武器を取り出した。
黒鉄の銃身を持つ、片手に収まるほどの小さな業物。
名を、八岐大蛇の二号という。
七年前、突如として逝原の裏社会に流出した八丁の小型自動拳銃の一つだ。
その銃口を、九平治は王槐樹の寝顔に向けた。
「ぐがぁ、ごぉぉぉぉぅぅぅぅ……」
「こんなバカ相手に、仕掛けるまでもねぇ」
九平治は、三回引き金を引いた。
いち、に、さん。
奇襲の一発と、トドメの二発。
引き金が引かれるたびに鉄槌を振り下ろすような轟音がとどろき、銃口から閃光と鉛玉が吐き出された。
「熊も殺す拳法家と聞いてたが、これなら熊の方が手強い」
暗闇の中、九平治はぼやきながら踵を返す。
野生の獣は、山の中でここまで無警戒に寝ころんだりはしない。
自分の居場所を知らせるかのような鼾をかいたりもしない。
目の前の男は、そういった野生の本能に欠けていたように見えた。
しかし。
「ん、もう帰んのかい?」
殺したはずの男に背後から呼び止められ、九平治の足が止まった。
「は……?」
『野生の本能』とは、自分と同等かそれ以上の強さを持つ他者から身を守るための、生き物としての防衛機能だ。
だとすれば、あまりに強すぎる生き物には必要がない。
たとえば、彼が最強であるならば。
山に隠れ住む獣のように、隠れ潜む必要性すらない。
「寝起きに頭へ三発は、さすがに肝が冷えるぜ、兄ちゃんよぅ」
王槐樹は、あご先の無精ひげをポリポリ掻きながら起き上がった。
もう片方の手は、王槐樹の身体の前で固く握りしめられている。
その手を開くと、豆粒のような弾丸が三つ、ころりと床に転がり落ちた。
弾丸を掴んだというのに、木の皮のような手の皮膚は無傷だ。
「顔は、女ウケが悪くなるからあんまり鍛えてねぇんだわ」
「ちっ!」
暗闇の中、九平治は再び八岐大蛇を王槐樹に向けた。
「遅いぜ」
その手が、引き金を引こうとした刹那で王槐樹に掴まれ、上方向へと逸らされた。
放たれた四発目の弾丸が、あばら家の天井を突き抜ける。
「鉄砲は先っぽちゃんと見とけばどうってこともねーんだわ」
王槐樹は、拳を握りしめた。
「おらっ!」
正拳突きが、九平治のみぞおちに叩き込まれた。
「うっ、ぐっ……」
暗闇の中、九平治は衝撃に数歩退いた。
しかし、倒れるまでには至らない。
「この感触は……鎖を着込んでるのか。用意周到だな」
「余裕ぶるなよ、丸腰風情がッ」
九平治は撃ち終えた八岐大蛇を懐にしまいこむと、いれかわりに金属の塊を取り出した。
「だったら、これでどうだ!」
九平治が放り投げると、塊は空中でぱっと分解し、蜘蛛の巣状に広がった。
「うわ、何だこりゃ⁉」
王槐樹の全身に『それ』は覆いかぶさり、絡みつく。
「鋼鉄の鎖で編んだ網だ。熊すら絡めとる特注品よ」
どれだけ動体視力があろうと、面で攻めれば捉えられまい。
さすがの王槐樹もこれにはたまらず足を止めた。
「うお、こりゃあ面倒だ」
「動けば動くほど網が絡まるぞ。大人しく死んでおけ」
九平治は背負っていた刀を引き抜いた。
光を反射して目立たないように、つや消しの漆を塗った暗殺刀だ。
今度こそ。
九平治は、刀を王槐樹の胴めがけて突き出した。
切っ先が王槐樹の腹に突き立ち、皮膚に突き立った。
しかし。
「……なにっ?」
王槐樹の腹が、刀を受け止めていた。
白刃取りのような、技術ではない。
腹筋そのものが物質として刃を止め、表皮からの出血のみに傷を留めていた。
「南方の空手家から習った技さ。呼吸を整え鍛えれば、刃物すら通さない鉄の身体が作れちまう」
そのまま刃を手で握り込むと、王槐樹は気合を発した。
「そうらよ!」
パキッと音を立てて、刀身が折れた。
万力のように、王槐樹が刀をねじ切ったのだ。
「ば、馬鹿な……」
さらなる武器を取り出そうとした九平治の首を、網の目を破って王槐樹の手が掴んだ。
「つかまえた」
「ぐ、ごが、おぉ……ッ!」
刀すら折る握力で首を締め上げられ、頭巾に隠れた九平治の目玉が、内圧で眼窩から飛び出しそうになる。
「はな……せ……!」
九平治は、懐から抜いた短刀で手を斬りつけるが、肌の浅い部分を斬りつけるのみで、筋肉を破壊することはできない。
まるで、大木を彫刻刀で切り倒そうとしているかのような、途方の無さだ。
「ば、ばけものめ……」
「よく言われるよ」
王槐樹はにへらっと笑い、腕に力を込めた。
べきんっ。
九平治の頸が、後ろ向きに折れ曲がった。
くたくたと身体は力を失い、だらりと手足を垂れた。
「ああ、終わっちまった」
王槐樹は、無造作に九平治の身体をその辺に打ち捨てた。
その時、声がした。
「お疲れ様、『天下無双の王槐樹』どの。また一つ、最強へ一歩近づかれましたな」
「おう、マサさんか」
辺りが、薄明るくなりはじめていた。
もう、夜明けの時間だ。
「アンタが定期的に『稽古相手』を連れて来てくれるおかげで退屈はしてないけどよぉ……もっと腕っぷしのある相手を連れてきてくれよ。この前の『やんしゃぐるむぃ』みたいな奴をさぁ」
「九平治さんも相当な手練れだったんですよ? 王槐樹どのが強すぎるんです」
「ああ、そう? で、次の相手は」
「『かまいたち恋次郎』」
「強いのかい?」
「ええ。恋次郎はいまどき珍しい『鉄を斬れる』剣術家です。ある意味、あなたの天敵かもしれません」
「ほーん……」
うなる王槐樹に、マサは懐から小判を数枚手渡した。
「恋次郎は、都におります。連れ出すのは難しいので、おいでいただけますと幸いです」
「おう、そりゃいいんだけどよぉ」
王槐樹は、小判を数えながらマサを見やった。
「アンタ、なんで俺によくしてくれるんだ? 金までこんなに……」
「私はただ、達人たちが戦うところを見たいだけですよ。それに、そのお金はもし九平治さんが勝っていれば、彼に払う予定だった報酬です」
「へぇ。よく分からんが、アンタなかなか悪い人だな」
「とんでもございませんよ。では、また都で」
マサはそう言うと、山をくだっていった。
「……肚の見えねぇやつだな。金くれるからいいけど」
王槐樹は、大きく伸びをした。
「んー……もう日が昇るし、朝稽古すっか。サボると兄ちゃんにどやされちまう」
王槐樹はぼやきながら、あばら家を飛び出してどこかへ去っていく。
「……」
その背を、九平治は静かに見つめていた。
王槐樹の気配がなくなると、支えを失った首を手で持ち上げながら身体を起こした。
こきん。
首の関節を元の位置へとはめると、小気味よい音が鳴った。
頸まわりの肉が青く腫れている以外は、元通りだ。
「げほっ、けほっ……ったく、首の骨を自分で外してなかったら、死んでたところだ。あの野郎」
九平治は恨めしげに王槐樹の去った方角をにらんだが、後は追わなかった。
王槐樹も、マサも、ここで追ったところであまり意味がない。
「『かまいたち恋次郎』……一つ、そいつに『仕掛け』てやるとしよう」
仕掛け屋九平治はつぶやくと、にやりと笑みを浮かべ山の中へと消えていった。
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