1-7 蠱毒 -Poisonous Tournament-
気焔流の殲滅から十数分後、屋敷地上階での《《対話》》を済ませた雹右衛門は、再び地下の天岩戸の前に立っていた。
岩戸の鍵穴に自ら鋳造した鍵を差し込み、右に二回転、左に一回転、さらに左に三回転させる。
石壁の中で歯車が重々《おも》しく動き出す音がして、鉄門が軋みながら開かれていく。
「雪路」
呼びかけると、岩戸の向こうの暗闇でビクッと震える気配がした。
「い、いや! 来ないで……っ!」
「? どうしたんだ、雪路」
「来ないで!」
雪路は雹右衛門に背を向け、さらに奥の暗闇へと逃げ出した。
しかし、裸足で素掘りの地面を走ろうとしたため、でっぱりに足を取られてつんのめってしまう。
「雪路!」
雹右衛門はとっさに抱きとめた。
「大丈夫か?」
問いかける雹右衛門の腕の中で、雪路は暴れた。
「やめて、離して! 兄さま! 助けて、兄さま!」
半狂乱で逃れようとする雪路の細い指先、研ぎ仕事をこなす繊細な爪の先が、雹右衛門の頬を引っ掻いた。
避けもしなかったこの傷が、雹右衛門がこの日に負った唯一の被弾であった。
「雪路……!」
雹右衛門は雪路を逃がさない強さで抱きしめた。
そして、その頭を優しくなでる。
いつものように、ゆっくりと。
「雪路、落ち着け。おれだ」
「っ!」
半ば無理やり引き寄せた耳元に囁くと、雪路はまたビクッと震えた。
「兄……さま…………?」
「そうだ。岩戸を外から開けられるのはおれだけだ」
なるべくいつもの調子で声をかける。
すると、強張っていた雪路の身体から、力が抜けていく。
「兄さま……本当に兄さまだ」
「心配をかけたな、雪路」
「兄さま!」
雪路は雹右衛門の胸板に顔を押し付け、ぎゅっと抱きしめた。
しかし、やがて雪路は不安げに兄の顔を見上げた。
「兄さま、気を付けて。さっき、とても恐い人が来たの。まだ、近くにいるかも」
「恐い人? 気焔流の奴らか」
「分からない、けど……」
雪路は岩戸の外、地下室の方を指さした。
「屋敷の門を誰かがドンドンドンって叩いて中に入ってこようとしてたから私、兄さまの言ってた通りすぐにここに隠れたの。そうしたら、大勢の人が降りてくる気配がして……」
「大丈夫だ。そんな奴らぐらい、おれが……」
「違うの。確かにその人たちは怒ってる気配がしたんだけど、後からもっと恐い人が降りて来て……」
雪路は、雹右衛門の胸に顔を押し付けたまま、言葉を続ける。
「まるで、心が無いみたいだった。気配がつめたく冷えきっていて、炎みたいに怒っていた人たちの気配が、つぎつぎ消されていって……」
「雪路、それは」
「もしかしたら、七年前に父さまを殺した犯人がまた……」
「雪路」
雹右衛門は言葉を遮るように雪路の名を呼ぶと、優しく、優しく、優しく頭をなでた。
「ここに降りてくる前に、屋敷まわりはちゃんと見まわった。もう、恐い人なんてどこにもいない」
「でも……」
「見れば分かるさ」
雹右衛門は、怯える雪路を連れて岩戸を出た。
「ほら、何もない」
地下室には何も残っていなかった。
充満した瘴気は岩戸が開かれた時に通気して風がさらっていった。
災原厄海ら、気焔流門下生たちの死体、衣服、武器、その他あらゆる痕跡も、残っていない。
「気焔流の門下生たちは、師匠を斬られた腹いせに、あちこちで暴れまわっていたんだ。今頃は幕府の侍たちに捕まえられて、罰せられているだろう。だから、もう気にしなくていい」
「で、でも……たしかに気配がして……」
「きっと、怖い思いをして過去の記憶が蘇ってしまったんだな」
雹右衛門はほほ笑みかけると、雪路に背を向け、地面に膝をついた。
「上に戻ろう。ほら、背中に」
「う、うん……」
雪路を背負いながら、雹右衛門はゆっくりと階段をのぼる。
背に、雪路の息遣いを感じる。
過呼吸気味だった呼吸の律動が、段々と緩やかになっていく。
「昔も、遊び疲れた雪路をこうやっておぶったことがあったな」
「……うん。ねえ、兄さま」
「なんだ」
「今日だけ、昔みたいに一緒のお布団で寝ていい?」
雪路は、雹右衛門の肩辺りに頬を寄せた。
「だめかな?」
「駄目じゃない」
雪路が一人で眠れるようになったのは、ここ二、三年のことだ。
目を焼かれたことで訪れた暗闇が、あの夜の恐ろしい記憶が、疼く火傷の痛みが、雪路に何年も安眠を許さなかった。
そんな時期を思い出させるような出来事があったのだ。
断れるはずもない。
「ただ、な……」
雹右衛門は、ややぎこちなく笑った。
「お前ももうすぐ十五だ。そろそろ嫁の貰い手を探し始めなければならない年頃だ。兄離れはしないといけないな」
「……兄さまは、妹離れしたいの?」
「望む望まないの問題じゃない。いつか、そうしなければならない時が来るんだ。その時になって準備ができていなければ、困るだろう」
「いつかって?」
「いつかは……いつかだ」
本当は、そんな『いつか』なんて来なければいい。
雹右衛門だってそう思っている。
だが、現実はそういう風には作られていない。
「その『いつか』は、おれが思っていたよりも、ずっと近くに……」
雹右衛門は、雪路を背負って地上への階段を踏みしめながら、雪路を迎えに来るまでの十数分間に起きたことを思い返す。
◆
「どういうつもりだ。どうして、おれと気焔流をぶつけた」
気焔流を殲滅した直後のこと。
屋敷の一室でマサを捕らえた雹右衛門は、背後から首筋に羽々《ば》斬を突きつけた。
「幕府の目的は何だ? 予想通りの答えなら、殺す。嘘を言っても殺す」
雹右衛門の手は、虫を潰したばかりの汚れた手だ。
いまさらさらに血で汚れようと痛くもかゆくもない。
問答は、殺す前の確認作業に過ぎなかった。
しかし。
「戦国を……る…………」
マサの口から洩れた言葉に、雹右衛門の手が止まった。
「なに? 今、なんと言った」
「我々は戦国を……」
「はっきり言え!」
「我々は、戦国の世を終わらせたいのです」
「何だと……」
予想外の言葉に、雹右衛門の殺意は行き場を失った。
思考の大前提をくつがえされたかのようで、頭の裏がジリジリして落ち着かない。
「馬鹿な。戦国の世はおれが生まれるより前に終わった。お前たち逝原の侍どもが終わらせたんだろうが」
マサは、雹右衛門に拘束されたまま首を横に振った。
「残念ながら、終わったのはただの『戦』であって、『戦国』という時代そのものではありませんよ」
マサに、雹右衛門を恐れる様子はない。
それに、厄海のように出まかせを言っているわけでもないようだ。
「一五○年も続いた戦国が、たかだか覇者が現れた程度で終わるはずがない。幕府が倒れればまた戦が始まる。みんなそう思っていますよ。雹右衛門先生だって、そういった可能性を考えないわけではないでしょう」
「それは、そうだが……」
「我々は人々の頭から戦の可能性すら消し去りたい。そのためには、祭りを行わなければなりません」
マサは、懐から巻物を取り出して広げた。
「雹右衛門先生、あなたは既にその祭りに参加しているのです」
「これは……っ!?」
そこには、名前が羅列されていた。
人喰い慈子坊
気焔流、災原禍山
天下無双の王槐樹
祭日山の黄鬼
剣仙、四肢街硝監
光武流柔術、拝巧蔵
恋し地獄のお蝶
旋風罪軒
ぐいん婆
かまいたち恋次郎
ヰ瀬の唖愚尼
銅影蛙左衛門士宴
独言髑髏くも八
名縄隊筆頭手、母縄
槍蜻蛉、仲村刑部新兵衛
爆ぜ馳せの甚吾
虫斬り雹右衛門
やんしゃぐるむぃ、牟矛渦
辻揺廻
時丘山秋電寺、一針坊
不渋闊剣流、船堀城下
煉雀
二二ヶ《が》矢の何時弓
頗撃流、西郷五臓兵衛忠位
餌賀の無間
仕掛け屋九平治
膝上流、膝上天禪
丸岡剣法又十郎
甘楽春詩音
絹姫シルクマリア
四天流殺法、東雲軍馬
朝蛇於頭守休巳
巻物に記された名前の大半は、既に血文字の×《ばつ》によって消されていた。
災原禍山の名も、朱で塗り潰されている。
「爆ぜ馳せと罪軒、それに禍山は業物狩りとしてあなたが斬った。他にも、噂に聞くような名前がちらほらありますでしょう」
「そんなことはどうでもいい。これは……何だ」
「『人別帖』と、我々は呼んでいます。幕府を恨み滅ぼそうとする者や、一国一城に匹敵した武力を持つ者、あるいは戦国に魂を囚われている者……そんな、幕府にとって危険な人間を記した最重要機密書類です」
マサは、拘束されたままチラと雹右衛門の方を振り返った。
「雹右衛門先生もその一人。あなたの業物づくりの技術と剣の腕はこの国の……いや、世界の戦争を新たな段階に進めてしまいかねません」
「ふ、ふざけるな! おれは、そんなことをするつもりはない!」
「意思の問題ではありません。業物は、存在しているだけで人を戦いに駆り立てるではありませんか」
「……っ!」
自身の言葉で痛いところを突かれ、雹右衛門は言葉に詰まった。
「確かに、あなたは太平の世を望んでいる……しかし、もしも妹君が人質に取られれば? 妹のためならば、地下の天岩戸をつくったように、あなたはきっと業物づくりの腕を振るってしまうでしょう」
「……」
マサは淡々《たん》と言葉を続けた。
「業物を新しく作り出せる雹右衛門先生は、存在するだけで人の野心を煽り、戦いを引き起こしかねない一個の『業物』。先生流に言うならば、有害な『虫』の一匹なのです」
ざわざわと、屋敷の周囲に無数の気配が蠢き始めた。
マサが昼間に連れていた忍びたちだろう。
数までは分からないが、気焔流よりもはるかに手強い相手なのは間違いない。
「最初からおれを使い捨てる気だったか……だとしても、ただでは殺されんぞ」
雹右衛門はマサに突き付けた羽々《ば》斬に力を籠め、凄んだ。
しかし、マサは平然としている。
「我々は直接手を下しませんよ。『虫』は殺すものではなく、殺し合わせるもの。そして、最後に勝ち残った一匹だけを大切に飼い育てるのです」
マサは、歯を剥いて笑った。
『業物狩り』として組んできて数年、初めて見る邪悪な笑みだった。
「我々は、あなた方で蠱毒をやろうとしているんですよ」
蠱毒とは、複数の毒虫を一つの壷に閉じ込めて殺し合わせ、残った一匹に毒を集約させる古い呪術だ。
だとすれば、さきほどの人別帖は毒の調合表とも言えるだろうか。
「来たる八月、逝原城内にて武芸試合が行います。試合の名は『鬼門蠱竜会』。人別帖に勝ち残った最後のつわものたちを最後の一人になるまで殺し合わせ、戦国の世を鎮める儀礼試合です」
「……それが、昼間に言っていた『大仕事』か」
雹右衛門のつぶやきに、マサはうなずいた。
「みごと最後の一人に勝ち残れば、あなたの存在は太平の世に迎え入れられ、城銀家は今まで同様、永世の庇護を得るでしょう」
「もし、断れば……」
「幕府から追われる身となるでしょうね。もちろん、あなたの妹君も」
「……おのれ」
雹右衛門は、マサの首筋に突き付けていた羽々《ば》斬を下げて鞘に納めた。
雪路を引き合いに出された以上、雹右衛門に勝ち目はない。
雪路には、罪なき者にふさわしい清らかで幸福な未来が待っているはずなのだ。
「お前たちからしてみれば、おれは最初からカゴの中の『虫』同然だったわけか」
拘束を外れ、悠々《ゆう》と着物の襟を正すマサを、雹右衛門はにらみつける。
にらみつけることしか、できなかった。
「……お前たちの言う通り、その殺し合いとやらに出てやる。その代わり、おれが生き残ろうが死のうが、雪路にはもう手を出すな。今回みたいなことも無しだ」
「ええ、約束いたしましょう。殺すか、死ぬか。先生が『大仕事』を果たしてくだされば、我々はそれでよいのです」
マサが指を鳴らすと、周囲に潜んでいた忍びたちが、気焔流門下生たちの痕跡を片付け始める。
「またご挨拶に伺います。それまではご兄妹ともに健やかにお過ごしください、雹右衛門先生」
マサは一礼すると、夜の闇へと消えていった。
自分よりも大切な、雪路の命運。
雹右衛門の生きる目的そのものを掌握した男が去っていく。
その背を、雹右衛門はただ見送ることしかできなかった。
◆
緊張の糸が張り詰めていた反動だろうか。
雪路は雹右衛門の布団に潜り込むと、すぐにすやすやと寝息を立て始めた。
「おやすみ、雪路」
雹右衛門は、雪路を起こさないように同衾していた布団を這い出て、縁側で空を見上げた。
そして、考える。
いつ、どうすればこの運命を回避することができたのだろうか。
災原禍山殺しを断るべきだっただろうか?
それとも、業物狩りなどしなければよかったのか?
いや、そもそもあの夜に自分が間に合っていれば……
いくつもの筋道を頭に思い浮かべるが、その全てがどこかで分厚い門にぶつかるような気がした。
結局、幕府という大きなフタが覆いかぶさってくる。
この時代この家柄に生まれてしまった時点で、雹右衛門を取り巻く運命は決まってしまっていたようだ。
「業物に染みついた『業』が、おれの城銀の血にも流れている……」
自分自身からは、どうやったって逃れることはできない。
雪路のために、薄汚れた自分にできることはただ一つしかなかった。
「ならば、戦うしかない」
雹右衛門は、空に浮かぶ涼しげな月と、その隣に並ぶ逝原の城をにらんだ。
「おれもしょせんは秩序を乱す一匹の『虫』。だったらせめて、最後の一匹になるまで戦い抜いてやる。雪路の未来を見届けるまで、おれは絶対に死なん……ッ!」
鬼門蠱竜会、第三選手『虫斬「き」り雹右衛門』は独り静かに誓った。
その脳裏に、人別帖に残っていた六つの名前がジリジリと焼き付いていた。
『虫斬り雹右衛門』
『かまいたち恋次郎』
『独言髑髏くも八』
『絹姫シルクマリア』
『天下無双の王槐樹』
『仕掛け屋九平治』
あと五人死ねばよい。
今日殺した人間の数を思えば、雹右衛門にとっては何でもない命。
……の、はずだった。
第一章『虫斬り雹右衛門』 完
ブックマーク&高評価よろしくお願いします