1-4 幕府 -Shogunate-
軽い通り雨が都を洗っていた。
この時期の雨は粒も軽く、すぐに止む。
それに、元々暑い夏の日だ。
だから町を往く人々は雨足の強いひとときだけ雨宿りをしてやり過ごすか、多少の雨は無視して普段の生活を平気で続ける。
わざわざ傘を持ち歩いて差すのは、よほど濡れるのが嫌な人間か、もしくは貴人だけだった。
「ごめんください。雹右衛門先生はご在宅ですか」
蛇の目傘を差した男が城銀家の屋敷を訪ねてきたのは、そんな時だった。
「はーい、ただいま参ります」
雪路が作業の手を止め、応対に向かおうとするのを雹右衛門が手で止める。
「いや、いい。おれが出る」
「お知り合い?」
「お客だ。約束があるのを忘れていた」
雹右衛門は工房から刀を二本手に取った。
業物『羽々《ば》斬』は自らの腰に差し、業物『加具土』は桐の箱に収めて風呂敷で包んだ。
そして、鍛冶装束の上に羽織を着て、浪人笠をかぶった。
「ちょっとお客と外に出てくる。さっきも言った通り、今日は早くに上がって、戸締りはしっかりとするように」
「はい、兄さま。行ってらっしゃい」
「行ってくる、雪路」
雹右衛門は雪路に微笑みかけると、城銀家の玄関に立った。
「どうも、雹右衛門先生」
ニコニコと笑みを浮かべて会釈した訪問者を、雹右衛門はにらみつけた。
雪路には一度も見せたことのない、冷たく鋭い眼光だ。
「ここには顔を出すなと言ったはずだ」
「いやあ、面目ない。早めにお訪ねした方がよいと思ったものですから」
笑みを崩さないまま男は町に向けて歩き出した。
歩きながら話そう、ということらしい。
雹右衛門は何も言わず、男の後に続いて屋敷を後にした。
「いやあ、暑いですなぁ。先生はそんな厚着で、暑くないんですか」
「火を入れた鍛冶工房はもっと暑い。今は、雨上がりで丁度いいぐらいだ」
「はっはっは。剣豪と斬り合うぐらいでないと、汗一つかきませんか」
時折手拭いで汗を拭きながら、男は楽しそうに笑った。
雹右衛門は、男の名を知らない。
知っているのは『マサ』という通称と、幕府の『裏』に関わる人物だということだけだ。
「それにしても流石ですな、『虫斬り雹右衛門』先生。まさか、あの災原禍山すら斬ってしまうとは。しかも、若干十七歳の若武者が」
「勝てると思って、奴を斬るよう依頼したのだろう?」
「もちろんですとも。ただ、禍山も戦国時代の生き残りですからな。近頃は死に場所を探してさまよっていたようですが、ようやく落ち着けたみたいでねぇ」
「……」
「めでたいことですよ。この時代に、戦の場で死ねたんですから」
マサは、まるで恩人の大往生に立ち会ったかのように「よかったよかった」と頷いている。
禍山殺しの依頼と業物の情報を持ち込んできたのは、他ならないマサだというのに。
「……相変わらず、気味の悪い侍だ」
口にこそ出さなかったが、雹右衛門はそう思った。
マサからは、『虫』とはまた異なる嫌な気配がしたのだ。
「忘れぬうちに、品は渡しておく」
雹右衛門は、加具土の入った風呂敷包みを手渡した。
「はい、確かに受け取りしました。報酬はいつものように後日『業物の修理代金』として幕府から正式に城銀家へと支払われますので」
「……それより、この業物の行く末だが」
「ご安心を。むやみに平和を乱すことが無いよう、将軍家の鉄庫にて厳重に保管します」
「なら、いい」
雹右衛門は小さく頷いた。
このやり取りこそが、都を騒がせる『業物狩り』の正体だった。
人を争いに駆り立てる業物は、道徳的な意味でも支配体制的な意味でも、放置しておくべきではない。
業物を封印するという点において、雹右衛門と幕府の目的は一致していた。
「業物は素晴らしい」
受け取った加具土の風呂敷をしっかりと携えながら、マサは言う。
「殺傷能力を極限まで追求した武具は、芸術品にも勝ります。戦国という特異な時代が生んだこの国の宝です」
「……だが、だからと言って野放しにしておくには危険すぎる代物だ。罪のない人が、災原禍山や気焔流のような『虫』どもに傷つけられるのは、許せない」
「その通り。ですから、列島守護を司る我ら逝原幕府が管理するのです」
幕府は登録制度を敷き、業物の所持を厳格に制限している。
『壊さぬこと』
『複製せぬこと』
『人を斬らぬこと』
この三原則を破った場合、登録者は即座に業物を没収され、悪質な場合は反乱を企てた扱いで処罰される。
その執行者の一人が、『虫斬り雹右衛門』だ。
「ところで」
雹右衛門は足を止めた。
「その辺をウジャウジャしているのは、そっちの手下か」
「おや、分かりますか」
「日頃から鉄の静けさに触れていると、生き物の気配はうるさく感じられる」
「お気に障ったなら、申し訳ない。気焔流の門下生たちが仇を探して町をうろついているのでね。万が一に備えて忍びを置いているのです」
忍び、と。
マサはこともなげにそう言った。
「お互い気を付けるとしましょう。災原禍山を失った気焔流は、道場とは名ばかりの悪質な浪人集団に過ぎません。ですが、それゆえに始末が面倒だ」
「始末するのか」
「ええ、もちろん。気焔流がまだ形を保っているうちに、まとめて叩くのがよいでしょう」
マサはにこりと笑うと、雹右衛門に一礼した。
「この辺で別れましょう。先生には近々大仕事をお願いしたいと思っておりますので、くれぐれも怪我無くお過ごしくだされ」
「大仕事……? まさか、城銀家から奪われた業物の行方が分かったのか? それとも、賊の目星が?」
「まだ未確定の情報です。確認し次第、必ずお伝えします」
「……承知した。よろしく頼む」
雹右衛門は、深々と一礼した。
マサは城銀家の刀匠として年下の雹右衛門にへりくだっているが、実際のところ立場はあちらの方がだいぶ上なのだ。
業物狩りの法外な報酬があったからこそ、兄妹の今がある。
鍛冶仕事の代金だけでは、雪路の治療代金で精いっぱいで、左目の視力を取り戻すための高額な薬はとても買えなかったはずだ。
雹右衛門たちは、幕府に巨大な恩があった。
「では、失礼する」
雹右衛門は分かれ道で横に曲がり、マサと別れ去っていった。
「……さて」
マサはつぶやいた。
既に、雹右衛門の後ろ姿は道の向こうに消えた後だ。
朗らかな笑みを浮かべたまま、マサは近くの物陰を見やる。
「おーい」
「はっ、お呼びでしょうか」
マサの声にこたえて、物陰から男が這い出してきた。
その辺を歩いているような町人と変わらない、普通の服装だった。
本物の忍びとは、そうと分からないような姿をしているものなのだ。
「これを城に届けるように。筋書きに変更はないから、予定通りに始めなさい」
「御意」
加具土を受け取ると、忍びは再び物陰に消えていった。
好奇心でマサが物陰を覗き込むと、そこにはもう誰の姿も無い。
「おお、相変わらず煙のように消えおる。こんな者たちの存在に気付けるとは、さすがは雹右衛門先生だ」
マサは楽しそうに手を打って喜んだ。
だが、その目だけは冷たく、笑っていなかった。
「ですが、次の相手は気焔流の真の主。幕府が最も危険視する業物の使い手ですぞ、先生」
マサは雹右衛門の去っていた方へ向けて告げると、何事もなかったかのようにその場を歩み去っていった。
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