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06.12/26 異世界門通過

今日は朝から、船全体がどこか落ち着かない空気に包まれていた。

通路ですれ違う乗客たちも、普段なら楽しげに話しているはずなのに、皆どこか口数が少ない。

船員の表情も硬く、笑顔を見せながらもどこかぎこちない。


船内放送では繰り返し、同じ内容を伝えていた。

「本日は船内時刻9時までに朝食を済ませ、各自客室にて待機をお願いいたします。繰り返します──」

その文言が何度も響くたび、胸の奥がざわざわと騒ぎ、期待と不安がないまぜになって心臓の鼓動が速くなる。


私は余裕を持って朝食を済ませたものの、食べた気がしなかった。この私が。

部屋に戻ってからは落ち着かず、ソファに座っては立ち上がり、窓際へ行っては時計を確認する、そんなことを繰り返していた。


ついに──今日はゲートを通過する。

30年前に現れ、今なお謎に包まれた、地球とセルマーを繋ぐ「門」。

ニュースや記録映像では何度も目にしたけれど、実際に自分がそこを通る日が来るなんて。


9時前、私は思い切ってバルコニーへ出た。

潮風が頬を打ち、髪を乱す。

船首方向を凝視するが、広がる海と空の境界線には、ただ揺らめく水平線が見えるだけ。

ゲートらしい陽炎のような歪みは、まだ遠いのか、それとも私の目が確かでないのか、見つけられなかった。


それでも、胸の高鳴りは抑えられない。

「もうすぐだ」そう心の中で呟き、両手でバルコニーの手すりを強く握りしめた。


9時を少し回ったところで、再び船内放送が響いた。

今度は少し低めの、落ち着いた男性の声だ。


「これより、クルーが各部屋を巡回し、それぞれの待機場所へご案内いたします。必ずクルーの指示に従い、迅速なご移動にご協力をお願いいたします。」


一瞬、部屋の空気がきゅっと張り詰める。

説明は受けていた。船内の全員が、一時的に指定された場所へ集められるということ。シアターやダイニングといった広い場所にまとめられるのだと。

頭では理解しているのに、いざその時になると胸の奥がそわそわして落ち着かない。


私はソファに腰を下ろして待つが、じっとしていられず、すぐに立ち上がってはドアに耳を澄ませる。

『まだチャイム鳴ってないよね?』

そう自分に言い聞かせてはまたソファに戻り──そんなことを繰り返すうち、約15分ほど経った。


「ピンポーン」


思わず飛び上がるように扉へ駆け寄る。

ドアを開けると、廊下にはすでに何人もの乗客を連れたクルーが立っていた。

制服姿の女性クルーが、柔らかいがきびきびとした口調で告げる。


「ご案内いたします。どうぞ、列に加わってください。」


慌てて荷物を確認し、私は列に合流した。

廊下は次々と部屋から出てきた人々で膨らんでいく。ざわめきと足音が重なり合い、普段は静かな船内の雰囲気がすっかり変わっていた。


その中で、私は人混みの向こうに見知った横顔を見つける。アマンディーヌだ。

視線が合うと、彼女は小さく手を振り、私も同じように応える。胸の奥にほっとした温かさが広がった。


歩調を合わせ、並んで歩く。


「いよいよね⋯」

「ね、思ったより緊張してきた。」


ヒソヒソ声で交わす会話は、少し緊張を和らげるのに役立ったようだ。

やがて、列はダイヤモンドホールに辿り着いた。

広々とした会場はすでに多くの人で埋め尽くされている。

それでもクルーに導かれ、私たちは中央席の前列──舞台に最も近い、まるで特等席のような場所に案内された。


「ここ、すごくいい席だね。」

「ほんと。普通なら絶対取れない。」


思わずアマンディーヌと顔を見合わせて笑う。

胸の奥にまだ緊張は残っていたけれど、その席に腰を下ろした瞬間、期待の方が大きくなり始めているのを自覚した。


席がほぼ埋まり、会場のざわめきが一段落したころ、クルーたちが静かに動き出した。

まるで私たちを見張るように、彼らは所々の通路や空席に椅子を置き、その場で腰を下ろしていく。紺色の制服が、無言の存在感を放っていた。


「いよいよかな。」

「うん、そろそろっぽいよね。」


隣のアマンディーヌと囁き交わす声も、会場に流れるなだめるような柔らかなクラシックに埋もれそうな小声だ。

音楽が薄いカーテンのように空気を包んでいたが、その旋律が逆に静けさを際立たせる。


しばらくして、また船内放送が低く流れた。声は丁寧だが言葉は重い。


「皆様、ご協力ありがとうございます。本船はこれより20分程でゲートを通過予定です。やむを得ずお席を離れる際には、必ずクルーにお声掛けください。また、繰り返しになりますが、ゲートを通過した結果お客様に何が起こりましても、本社・本国はいかなる責任も負いかねますので、ご了承ください。繰り返し──」


その注意喚起は、どこか脅しめいて聞こえ、膨らんでいた期待の風船がしぼむように、会場の空気を重くした。どよめきが小さく起き、誰かが息を呑む音が響く。胸の奥に広がる不安が、またざわめき出していた。


ちらりと見ると、アマンディーヌも私をじっと見返していた。彼女の目に映るのは、私と同じような緊張と、そして少しの怯えらしいものだった。


「ねぇ、アマンディーヌ。ちょっと、何の解決にもならないんだけど、手を繋いでてくれない?」


思わず出た子供のような頼みは、どうしようもなく素直な願いだった。


「それいいわね、サクラ!」


アマンディーヌはコクコクと頷くと、がっしりと私の手を握った。細くて柔らかな彼女の手は少し冷たくて、それでいてどこか心地良い。ひんやりとした感触が、熱を帯びた不安を和らげてくれる。


「お互い大丈夫よね? 私、不安になってきたんだけど、悪意がなければいいのよね? 消えたりしないわよね?」


彼女の言葉も強気に聞こえたけれど、語尾が少し震えている。

私は慌てて首を振り、言葉を重ねる。


「怖いこと言わないでよ!消えたりしないよ!私はセルマーを満喫して、地球に帰るの。平和に。何事もなく!」


私が強めに言い切ると、声が大きかったのか小さな笑いが両側から漏れ、隣の席の誰かもそれに続いて軽く笑った。

その瞬間、胸の奥の不安がほんの少しだけ溶けるのを感じた。


誰かの洋服の擦れる音、紙コップを置くかすかな音──そうした音だけが残り、時間がゆっくりとゲート通過へと収束していく。

私たちはぎゅっと手を握り合ったまま、来るべき瞬間を待った。


そんな張り詰めた静けさの中で、ふっと緊張を和らげるように私が口を開いた。


「そういえばさ、同じテーブルの人と今度お菓子パーティーしようよって話をしてたんだよね。アマンディーヌも一緒にどう?」

「楽しそうね! ぜひ参加したいわ。」


アマンディーヌの表情がぱっと華やぐ。


「私も同じテーブルの人で話すようになった人がいるから、その人も一緒でいい?」

「もちろん! いつにしようか決まってないんだけどね。」


そこで少し間を置いて、アマンディーヌが首を横に振った。


「今日⋯は、ちょっとやだわ。」

「うん、私もそれはちょっと⋯。」


同じように私も笑って首を振る。


「明日は?」

「え、急じゃない?」

「そう? 無理なら参加しないか断るかするでしょ。」

「え、そんなものかな? じゃあ後からみんなに連絡してみるよ。」

「うん、でも、後からにしなよ。後からに。」


囁き合う声は小さいのに、静けさの中でははっきりと響く。

どうでもいいようなおしゃべりを交わすことで、やっと待ち時間の重さを分散させているようだった。


小声でおしゃべりをしていても長く、果てしなく感じられた20分。

時計の針の動きさえ遅くなったかのようで、どうにもまどろっこしさを感じ始めていた。


そして、その時が来た。


ぐん、と身体全体が見えない誰かに押し上げられるような不思議な感覚。

重力がふっと緩んだようで、私は思わず上を仰いだ。

天井はいつもと同じなのに、世界そのものがぐらりと揺れた気がする。

周囲でも人々がざわめき、首を伸ばしたり肩をすくめたり、皆一様に落ち着かない様子を見せていた。


船内放送が響く。


「ご乗船のお客様にご案内いたします。本船は只今、ゲートを抜けセルマーへと転移いたしました。クルーが点呼を行いますので、そのままご着席の上、今しばらくお待ちください。」


その声を聞いた途端、張りつめていた空気がふっと緩んだ。

誰かが大きく息を吐き出し、それをきっかけに場の空気は一変する。


「やった⋯!」「本当に通ったのか!」

前方の席では、思わず立ち上がりかけてクルーに制止される男性がいる。

隣では若い女性が目元を押さえ、涙をこぼしていた。

後方からは小さな拍手が起こり、それが伝播するようにあちこちでパチパチと音が重なっていった。

呆然とした表情でただ口を開けている人もいる。

現実感を掴めないのは、私も同じだった。


私は隣に座るアマンディーヌと目を合わせた。

互いに言葉なんていらなかった。喜びがこみ上げ、気づけば握っていた手をそのままブンブンと振り回していた。

子どものように無駄に力強く、それでも楽しくて仕方がない。


「セルマーだよ! 異世界だよ!」


抑えきれない気持ちが声になって弾けた。


「うんうん! お互い消えなくてよかったね!」


アマンディーヌも笑いながら叫び返す。


「あはは! 本当にね!」


私が笑えば、アマンディーヌも笑う。

笑いが重なり合って、緊張で固まっていた胸の奥がようやくほどけていった。


「今さ、なんか持ち上げられた感じしなかった?」


私が胸の奥に残っていた疑問をぽつりと口にすると、アマンディーヌはすぐに顔を輝かせた。


「私も同じこと思った! なんだったんだろうね?」


2人して同時に首を傾げる。

すると、背後から落ち着いた声がした。


「海の塩分濃度が高いから、船がちょっと持ち上がるんだよ。帰りは逆に、沈んだように感じるはずだよ。」


驚いて振り返ると、髭をたくわえた初老のおじさんがにこやかに座っていた。


「あ、そうなんですね。教えてくださってありがとうございます。塩分濃度かぁ。」

「大した違いはないらしいけどね。でも、これだけ大きな船だと敏感に感じるんだろうね。」

「なるほど!」


ちょっとした豆知識に、私とアマンディーヌは「すごいね」「塩分濃度だって」と顔を見合わせ、感心し合った。


やがてクルーによる点呼が終わり、ようやく解放される。

緊張が解けた途端に、体の芯までふっと軽くなり、同時に「何か飲みたい」と強く思った。


「カフェに行こっか。」

「いいね!」


連れ立ってシアターを出ると、同じように安心しきった顔をした人々がぞろぞろと廊下に溢れ出していた。

ざわめきはいつもの船内よりも少し大きく、皆が「とりあえず落ち着こう」とカフェやビュッフェに流れていくのが分かる。


歩きながら、アマンディーヌが言った。


「実は私ノンアルコールパックなんだけど、サクラは?」

「あ、私も!」

「よかった!人が多そうだし、有料のプロムナードカフェに行こうよ。」

「うん、そうしよう!」


ちょっと混雑していたけれど、幸いにも二人分の席は空いていた。

窓際はすでに何組かが占拠していて残念だったけれど、それでも開放的な雰囲気の漂うテーブルに腰を下ろす。


メニューを眺めながら迷う。ホットココアにしようか、カフェオレにしようか。


「うーん⋯やっぱりカフェオレにする!」


注文を告げると、アマンディーヌは迷わず「エスプレッソをお願いします」と頼んでいた。


カウンターで温かなカップを受け取り、ふたりで顔を見合わせ、また小さく笑った。

緊張の20分を無事に超えた今は、ただ温かい飲み物を心から楽しむことができた。


白いカップに注がれたカフェオレは、ふんわりとミルクの泡を乗せ、立ちのぼる湯気とともに優しい香りを漂わせている。


「いただきます」


自然と二人同時にカップを手に取り、口をつける。

熱い。けれど、その熱さが体の奥までしみていくようで、今まで張りつめていた神経がほどけていくのが分かる。


「はぁ⋯生きてるって感じがする。」


思わず心の声が漏れると、アマンディーヌがカップを置いてクスクス笑った。


「分かる!  私もね、もう全身に染み渡ってる。さっきまでのドキドキが嘘みたい。」


窓際は取れなかったけれど、ふと横を見れば、大きな窓の向こうにはどこまでも広がる海。

さっきまでの海と、目に映る海は同じはずなのに、どこか色合いが違って見える。

少し青が濃い気もするし、光の反射が柔らかいような。


「これがセルマーの海なのかな。」


つぶやいた私の言葉に、アマンディーヌは頷いて、目を細めた。


「そうね。なんか、空気まで違う気がするわ。ほら、呼吸すると少し甘い香りがしない?」


言われて深く息を吸い込んでみる。

カフェ特有のコーヒーの香りというか、アマンディーヌのエスプレッソの香りというか、いや自分のカフェオレの匂いかもしれないけれど、少なくとも甘い香りは感じられない。


「⋯いや、ごめん。私じゃわからない。コーヒーに負けてる。」

「ひどい、本当なのにぃ。」

「ごめん⋯」


目を合わせて、2人ともふっと吹き出した。


ここはもう、地球じゃない。

ゲートをくぐったんだ。

カップを両手で包み込むように持ちながら、じわじわと胸の奥に湧き上がってくる実感をかみしめた。



のんびりした後カフェを出ると、船内はすでに人の流れができていた。

皆、同じ気持ちなのだろう。


アマンディーヌと並んでデッキへ向かうと、ドアが開いた瞬間、頬を撫でる温かな風がふわりと吹き抜けた。

その風は地球の海風とよく似ているのに、どこか異なる匂いを含んでいた。

地球の潮風よりも澄んだ匂いだ。


「⋯空の色、少し違わない?」


アマンディーヌが目を細める。

見上げた空は、確かに淡い青の奥に、うっすらと紫が混じっているように見えた。

水平線も、どことなく揺らめいているように感じられる。

目の錯覚か、それとも本当に地球とは異なる自然現象なのか。


「すごい⋯本当に来たんだ」


私の口から思わずこぼれた声は、風に溶けて消えていく。

周りの人々も歓声を上げたり、夢中でカメラを構えたり、ただ呆然と立ち尽くしたりと反応はさまざまだった。

でもその表情はみんな一様に輝いている。

アマンディーヌが私の袖を引いた。


「ねえ、サクラ。一緒に写真撮らない?  記念すべきセルマー最初の一枚!」

「もちろん!」


笑顔で頷き、彼女と肩を寄せ合ってスマートフォンを掲げる。

背後に広がるのは、見慣れた海でありながら、確かに地球ではない海。

にっこりと心から笑うのと、カメラのシャッター音が鳴るのは同時だった。

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