45.2/4 森に咲く花
「本船は、現地時刻午後1時に予定通りシャグビアへ下船開始予定です。下船されるお客様は、必ず現地時刻午後7時までに船にお戻りください。」
温かく過ごしやすそうな気温とは裏腹に、むわっとまとわりつくような湿気が、日本の夏を思い出させた。
肌にじんわりと水分が張り付くような感覚に、思わず首元を軽く払う。
その空気に混じって、ほんのりと花のような甘い香りが漂っていた。
強すぎず、でも確かにそこにある香り。
まるで上質なアロマを焚いたサロンに足を踏み入れたような、不思議な心地よさがある。
「もうすぐ雨季に入るのですが、今のところまだ降っていません。シャグビアは雨季が一番美しいので、残念です。」
前を歩くガイドさんが、少し申し訳なさそうに振り返りながら言った。
港から離れ、ゆるやかな坂道を上がって森へ入ると、木々の間からぽつりぽつりと家が現れ始める。
どれも木でできた、ログハウスのような温もりのある建物だ。
そして目を引くのが、屋上部分に当たる屋根の中心に立てられた奇妙な装置だった。
畳まれたままの傘を逆さにしたような、布が巻かれた棒が取り付けられている。
「雨季になると、これが開くんです。雨水をそのまま集めて、地下の貯水槽へ流す仕組みになっています。」
ガイドの説明に、思わず「へぇ……」と声が漏れる。
合理的で、どこか可愛らしい仕組みだ。
「雨季に入ってることを祈ってたんだけどなぁ。」
私は空を見上げながらぼやく。
雲ひとつない青空は、皮肉なほど爽やかだった。
「こればっかりは時期的なものだからな。」
隣でセルヒオも同じように空を見上げ、肩をすくめる。
さらに歩みを進めると、視界が開け、街の中心らしき場所に出た。
家々が寄り添うように建ち並び、そのどれにも雨を待つように「逆さの傘」が取り付けられている。
「さて、今日の会場はこちらです。」
案内されたのは、ひときわ大きな建物だった。
街の集会所になっているらしく、他の建物よりも一段高い場所に建てられている。
ここからなら、シャグビアの街並みを一望できそうだ。
「こんにちは。ようこそシャグビアへ。」
入口の前には、壮年の男性と数人の住民が並んで立っていた。
穏やかな笑みを浮かべ、セルマー公用語で挨拶をしてくれる。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
私とセルヒオも同じ言葉で返す。他のツアー客も、それぞれぎこちない発音で続き、どこか和やかな空気が生まれた。
「あいにく、まだ雨には恵まれていませんが、シャグビア伝統の貯水設備の説明をしますね。大人数が上がれるようにはなっていませんので、5〜6人ずつ順番にご案内します。」
男性の丁寧なセルマー公用語での説明に合わせて、ガイドさんが流れるように翻訳し、手際よくグループ分けを進めていく。
私とセルヒオは3番目のグループになった。
1番目のグループが、建物の外側に取り付けられた細い階段を使って上へと登っていく。
その様子を下から見上げていると、カタカタ、ガタガタ。
乾いた木の擦れる音が響いた。
同時に、集会所の屋根に取り付けられた傘がゆっくりと開いていくのが見える。
本当に、持ち手のない傘をそのまま逆さにしたような形だ。
やがて傘が閉じ、1番目のグループが降りてくる。
次のグループも同じように上がり、同じ動きを繰り返す。
そして、いよいよ私たちの番が回ってきた。
細くて急な階段を、一段ずつ慎重に登る。
足元の板は少しきしみ、手すりも簡素で頼りない。
登りきった先は、直径4メートルにも満たない円形のスペースだった。
板張りの床は日に焼けて少し白っぽくなっており、周囲には低い柵があるだけ。
思ったよりもずっとコンパクトで、少し身を乗り出せば街がぐるりと見渡せる。
中央には、ひときわ太い柱がどっしりと立っている。
そのすぐ脇に、細い棒が一本。胸の高さあたりでコの字型の取っ手が付いていた。
「シャグビアの建物には、『クジャ』と呼ばれるこの設備が設置されています。」
壮年の男性はそう言うと、細い棒のコの字部分をしっかりと握った。
ぐるり、と回す。
するとすぐに、内部で何かが連動するような感触が伝わる。
ガタガタ、カタカタ、と規則的な音が響き、頭上で何かが動き出した。
見上げると、傘がゆっくりと開いていく。
やがて完全に開ききると、その内側は色とりどりの布をつなぎ合わせたパッチワークになっているのがはっきりと見えた。
赤、青、黄色、緑。
強い日差しが遮られ、柔らかな光が色づいて降り注ぐ。
足元にも、カラフルな影がゆらゆらと揺れていた。
「雨季になると、ここに雨水が集まり、中央の柱を通って地下の貯水槽へと流れます。」
説明を聞きながら、私はその光景に見入っていた。
「このクジャに使われている布ですが、もともとは小さな布を一枚一枚縫い合わせて、大きな一枚に仕立てているんです。」
壮年の男性は、頭上に広がる色とりどりの布を見上げながら、ゆっくりと説明を続けた。
「ただの布では雨水を集めることはできませんので、『パタパタ』と呼ばれる液を塗って、撥水性を持たせています。水を弾き、中央へと流れやすくするための工夫ですね。」
「へぇ……」と小さく感嘆の声が漏れる。
男性は穏やかに頷いた。
「このあと、皆さまにも実際にその加工を体験していただく予定です。簡単な作業ですが、なかなか面白いですよ。」
そう言って、少しだけ楽しげに目を細める。
「それから、このクジャは常に開いているわけではありません。」
男性は再び手元の取っ手に軽く触れた。
「雨が降った時にだけ広げます。日差しが強い土地ですので、開きっぱなしにしてしまうと布がすぐに傷んでしまうのです。ですから、こうして必要な時だけ開き、普段は閉じて大切に保管しています。」
確かに、先ほど見た家々の傘は、どれもきちんと畳まれていた。
街全体で、この設備を丁寧に扱っているのが伝わってくる。
「そして、最も重要なのが、雨季の水です。」
男性の声が、わずかに重みを帯びる。
「シャグビアでは、雨季に降る雨で、ほぼ一年分の水を賄います。つまり、その年の雨量が、そのまま一年の生活を左右するのです。」
その言葉に、自然と周囲の空気が静まった。
「雨が多ければ余裕が生まれ、少なければ節約を強いられる。だからこそ、私たちはこの設備を大切にし、雨を無駄にしないよう工夫を重ねてきました。」
男性はそう締めくくると、再び空を見上げた。
「……今年も、よい雨に恵まれるといいのですが。」
その視線の先には、相変わらず雲ひとつない青空が広がっていた。
最後のグループが階段を下りてくるのを待ってから、私たちは建物の中へと案内された。
扉をくぐると、外の強い光とは打って変わって、ひんやりとした空気が肌に触れる。木の香りと、ほんのりと湿ったような匂いが混ざり合い、どこか落ち着く空間だ。
中は公民館のように広い一室になっていて、その中央には目を引くものが広げられていた。
床いっぱいに近い大きさの、長い三角形の布が二枚。色とりどりの布を縫い合わせて作られていて、ところどころに細かな縫い目が走っている。
「布を避けてお座りください。」
ガイドさんの指示に従い、布に触れないよう、その周囲に腰を下ろしていく。
私とセルヒオは入口に近い場所に座った。
他の参加者たちも、ぽつりぽつりと布を囲むように座っていく。
自然と三角のような形になり、中央の布をみんなで囲んでいる構図になった。
やがて、先ほどの壮年の男性が再び前に立った。
その手には、白くて少し黄みがかった塊がいくつか乗せられた籠がある。
「これが『パタパタ』です。」
配られたそれを手に取ると、見た目はまるで固形石けんのようだった。けれど指で触れると、少しざらついていて、ほんのりと油のような感触がある。
「これを布に押し付けるようにして塗り込んでください。」
言われるままに、三角形の布の端にパタパタを当てる。
そして、ぐっと力を込めて、ゴリゴリ、と擦りつけた。
思ったよりも抵抗がある。
布の繊維に押し込むように動かすと、白っぽい跡が残り、それが徐々に馴染んでいく。
「縫い目の部分は特にしっかりと擦り込んでください。水が染み込みやすい場所ですので。」
そう言われ、私は縫い跡に沿ってパタパタを押し付ける。
ゴリゴリ、ゴリゴリ。
単純な作業だけど、思った以上に力がいる。
頑張って続けていると少しずつ、布の表面に変化が現れてきた。
最初はマットだった色合いが、うっすらと艶を帯びてくる。
光を受けて、じんわりと反射するような質感に変わっていくのが分かる。
「あ、ツヤが出てきた……!」
思わず呟くと、隣でセルヒオも同じように手を動かしながら笑った。
「こういうの、地味だけど達成感あるな。」
その言葉に頷きつつ、さらに腕に力を込める。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
単調な動きが続くうちに、だんだんと腕が重くなってきた。
特に手首と前腕がじんわりと疲れてくる。
「けっこう……大変……」
思わず息を吐くと、周りからも同じような声がぽつぽつと上がった。
それでも手を止める人はいない。
誰もが黙々と布に向き合い、ひと縫いひと縫いを埋めるように、丁寧にパタパタを擦り込んでいく。
この作業が、あの街の一年分の水を支えている。
そう思うと、不思議と手を抜く気にはなれなかった。
塗り終わるころ、どこからか「ピーッ」と鋭い音が響いた。
鳥の鳴き声にも似ているけれど、どこか規則的で、意図を持った合図のような音だ。
繰り返し鳴っている。
一瞬の静寂のあと、室内の空気が変わる。
住民たちがはっとしたように顔を上げ、次の瞬間には一斉に立ち上がっていた。
ざわ、と布の擦れる音と足音が重なり、みんな駆け足で入口へと向かっていく。
「雨が来たようです。ちょっとクジャを開いてきます!」
壮年の男性もそう言い残し、急ぎ足で外へ出ていく。
その背中を見て、好奇心が首をもたげた。
思わず振り返り、私はその後を追うように声をかける。
「見に行ってもいいですか!?」
男性は振り返り、ほんの一瞬だけ考えるような間を置いたあと、すぐに答えた。
「あ、ではここのクジャを開いてください。私は街のクジャを開いてきます。」
「え?」
理解が追いつかないまま間の抜けた声が出る。
「急いでくださいね。頼みましたよ!」
「あ、え? あ、は、はい!」
そのまま彼は走り去ってしまった。
え? 今の、そういう流れだった?
見学のつもりだったのに、気づけばとんでもない役目を押し付けられている。
心臓が一気に早くなる。
思わずセルヒオの方を振り返ると、彼はすでに立ち上がっていた。
「ほら、急げ。」
差し出された手。
迷う暇もなく、私はその手を取る。
「セルヒオ〜!」
ほとんどすがるような声が出た。
ぐっと引き上げられ、勢いよく立ち上がる。
急いで外へ飛び出し、さっき登ったばかりの細い階段へ向かう。
足を滑らせないよう慎重に、それでも焦りに背中を押されながら、一段ずつ登る。
屋上に出ると、風が変わっていた。
さっきまでの湿った静けさとは違う、ざわつくような空気。
遠くの方で、低く唸るような音が聞こえる気がする。
私は取っ手を掴み、力を込めて回し始めた。
重い⋯⋯!
思っていたよりもずっと。
ギギギ……と、引っかかるような音ばかりが響き、思うように回らない。
焦りで手に力が入りすぎているのか、それとも本当に固いのか。
ふと顔を上げて街の方を見ると、厚い雲が、まるで押し寄せるように近づいてきていた。
風が一段強くなる。
『やば……』
両手で取っ手を握り直し、必死に回す。
でも、うまくいかない。
その時だった。
「失礼。」
短い声と同時に、背後から腕が伸びてきた。
セルヒオが、私の手ごと取っ手を掴む。
大きな手に包まれた感触。
一瞬、体温が伝わってきて、胸の奥が跳ねる。
けれど、その感覚を意識する間もなく——
ガタガタガタガタッ……!
一気に棒が回り始めた。
さっきまでの抵抗が嘘みたいに、力強く、滑らかに。
それに合わせて、頭上のクジャがスーッと開いていく。
布が広がり、空を覆い、色が差し込む。
やがて、ガタリ、と音を立てて止まった。
二人とも、同時に息を吐く。
まだ、雨は降っていない。
でも、空はもう完全に変わっていた。
「間に合ったな。」
セルヒオは軽くそう言い、何事もなかったかのように手を離す。
私は少し遅れて、自分の手を見つめた。
なんとなく、そのまま握りしめる。
そして、セルヒオの隣に並んだ。
空の向こう側で、何かが揺れている。
最初は気のせいかと思った。
けれど次の瞬間、それははっきりとした形を持って近づいてくる。
まるで、薄いカーテンが風に押されるように。
灰色の幕が、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ迫ってくる。
「……来るな。」
セルヒオの低い声が、隣で落ちる。
私は息を呑んだまま、その境界を見つめていた。
――雨の境界線。
空と地面を繋ぐように落ちる無数の水の糸が、森を飲み込みながらこちらへと進んでくる。
そして、次の瞬間。
視界が、包み込まれた。
バーッと、音を立てるようにして、雨が降り出す。
一気に世界が変わった。
クジャに打ちつける雨粒が、パラパラという軽い音ではなく、バラバラと、無数の手で叩かれているような激しさで響く。
頭上では布が震え、中央の柱を通って、ゴーッと風と水が流れ落ちていく音が鳴り続けている。
頬に当たる空気も、さっきまでの湿気とは違う。
ひんやりとして、どこか澄んでいる。
そっと街の方へ視線を向ける。
そこには、さっきまでとはまるで別の景色が広がっていた。
雨に煙る森。
その中に、ぽつり、ぽつりと浮かぶ色。
一斉に開いたクジャたちが、まるで色とりどりの花のように咲いている。
赤、青、黄色、緑。
雨に霞んだ世界の中で、それだけが鮮やかに浮かび上がっていた。
幻想的で、現実感が薄れていく。
思わず息を忘れるほどの光景だった。
隣を見る。
セルヒオも、何も言わずにその景色を見つめている。
言葉はいらなかった。
しばらく、二人で黙ったままその景色を見つめていた。
降りしきる雨と、色とりどりに咲くクジャ。
その間を縫うように風が抜け、時折頬を撫でる。
「……すごいな。」
ぽつりと、セルヒオが呟く。
「うん……すごい。」
それ以上の言葉が出てこなくて、ただ同じ言葉を返す。
でも、それで十分だった。
少しだけ間があって、セルヒオがふっと思い出したように言った。
「……忘れてた。写真撮らなきゃ。」
「あ、ほんとだね。」
思わず小さく笑う。
「部屋に荷物置いてきた。」
「え、誰も荷物見てくれてないよ!」
「ちょっと取ってくる。」
そう言うと、セルヒオは軽く手すりに触れて、すぐに階段の方へ向かった。
「気をつけてねー!」
声をかけると、振り返らずに片手だけひらりと上げて応える。
その背中が、細い階段を降りていって見えなくなる。
――ひとりになった。
雨音が、さっきよりも少し大きく感じる。
私はそっと手すりに両手をかけた。
濡れた木の感触がひんやりと伝わってくる。
そのまま、力が抜けたように、へにゃりとその場に座り込んだ。
「……はぁ……」
思わず、変な声が漏れる。
胸の奥が、なんだか落ち着かない。
さっきからずっと、少しだけ早く鼓動が続いている気がする。
自分の手を見て、ぎゅっと握ってみる。
さっき触れられたところが、まだほんのりと熱を持っているような気がした。
「……私が意識し過ぎなのかなぁ〜」
ぽつりと呟く声は、雨音に溶けていく。
さっきのは、ただ手を貸してくれただけ。
クラーケンの時も助けてくれただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
……なのに。
「あー! あー! 気にしない! 気にしない!」
私は目線を街へと向け、森に咲くクジャの花を見つめた。




