42.2/1 妖精の歌声の国
「本船は、現地時刻11時に予定通りメリークルへ下船開始予定です。下船されるお客様は、必ず現地時刻午後4時までに船にお戻りください。」
少し汗ばむ陽気のなか。
木々の間から射す陽射しはやわらかいのに、空気はじっとりとしている。
ガイドさんの背中を追いながら、私とアマンディーヌは森の小道を歩いていた。
足元は踏み固められた土の道。
石も少なくて歩きやすいが、とにかく長い。
最初は「森林浴って感じだね」なんて余裕を言っていたのに、1時間も歩けばさすがに口数が減ってくる。
「もう少し涼しかったらよかったわね。」
アマンディーヌが帽子のつばを指で押さえながら言う。
額にうっすら汗がにじんでいる。
「わかる。ちょっと汗かいてきた。」
私は首元を軽く引っ張って風を入れる。
森の匂いは好きだけど、今日は少し湿度が高い。
前にも後ろにも、同じツアーの参加者たち、30人はいるだろうか。
遠足のような団体だ。
年配の夫婦らしき二人組や、カメラをぶら下げた男性、友達同士らしい女性たち。
みんなそれぞれのペースで、静かに歩いている。
「流れてる滝見るの、初めてかも。」
何気なく言うと、「流れてない滝って何よ?」とアマンディーヌが吹き出す。
「あ、ほら。ヤシルサ行った時は、滝が凍ってたからね。」
「あぁ、なるほど。セルヒオが登った滝か。」
彼女は思い出したように目を細めた。
真っ白に凍りついた滝。
つららみたいに固まった水の筋。
吐く息がすぐ白くなって、手袋をしていても指先が冷たくて。
「あのとき、私がいた町中でも寒かったのに、よく山になんて登ったわよね。」
「あれは寒かったね〜!」
2人して笑う。
あのときは寒さで必死だったけれど、今思い返せばいい思い出だ。
足元で小さな虫が跳ねる。
どこかで鳥が鳴く。
遠くから、うっすらと水の音が聞こえ始めた。
「もしかして、もうすぐかな?」
私が顔を上げると、ガイドさんが振り返ってにこりと笑う。
「あと少しですよ。」
その「あと少し」が意外と長いのだけれど、希望があるだけで足取りは軽くなる。
汗ばんだ背中に、ふっと風が通り抜ける。
木々の間が少しずつ明るくなっていく。
やがて視界が開けた。
「は〜い、到着です!」
ガイドさんの声と同時に、目の前に現れたのは10メートル前後ほどの、小さな滝。
大迫力、というほどではない。
でも、岩肌を滑り落ちる水が、陽の光を受けてきらきらと輝いている。
下には浅い川。
周囲はきちんと整備されていて、平らに均された地面と、ベンチ代わりになりそうな大きな石も置かれている。
森の中の、小さなひらけた空間。
「わぁ……!」
思わず声が漏れる。
流れる水の音が、思ったよりも大きい。
一定のリズムで、絶え間なく。
「本当に、ちゃんと流れてるわね。」
アマンディーヌが冗談めかして言う。
「うん。ちゃんと『水』って感じ。」
凍った滝は、時間が止まったみたいだった。
でも今目の前にあるのは、絶えず動いている水。
私はそっと川辺にしゃがみ、手を伸ばす。
ひやり。
「冷たい……!」
思わず笑ってしまう。
さっきまで暑いと言っていた体が、一瞬で冷やされる。
アマンディーヌも隣にしゃがむ。
「気持ちいいわね。」
周りでは、他の参加者たちが写真を撮ったり、ガイドさんの説明を聞いたりしている。
誰かのシャッター音。
小さな歓声。
水音が、森のざわめきと溶け合っている。
私は立ち上がり、滝を見上げた。
高くはない。
派手でもない。
でも、ここまで歩いてきたからこそ、少し特別に見える。
「歩いたかいがあったね。」
「ええ。ちょっと疲れたけど、そのぶん綺麗に見えるわ。」
アマンディーヌが穏やかに笑う。
汗ばんだ頬に、滝からの冷たい空気が触れる。
私たちはしばらく何も言わず、ただ流れる水を眺めていた。
「まだ妖精が歌っていないようなので、先にお昼ごはんにしましょう!」
ガイドさんがそう言うと、参加者たちの間にほっとした空気が広がった。
みんな思い思いの場所に腰を下ろし、集合場所で渡された茶色の紙袋を取り出し始める。
「あ、あの石ちょうどよさそうだったのに。」
私が目をつけていた平たい石は、すでに年配のご夫婦に確保されていた。
「先を越されたわね。」
アマンディーヌがくすっと笑う。
仕方なく、私たちは少し乾いていそうな地面を選んで直接座る。
草を軽く払って、そっと腰を下ろす。
「マットくらい持ってくればよかったね。」
「ええ、完全に油断したわ。」
地面はほんのりあたたかく、土の匂いが近い。
遠くで滝の音が絶え間なく響いている。
私は膝の上に紙袋を乗せ、わくわくしながら口を開いた。
茶色の紙袋はシンプルで無骨。
なんとなく、映画で見るアメリカのランチみたいだ。
「なんか、アメリカのお弁当っぽくない?」
「確かに。リンゴ丸ごと入っていそうな感じね。」
くすくす笑いながら中を覗き込む。
中にはさらに油紙に包まれた包み。
それから、丸くて、手のひらサイズの、オレンジがかったカボチャのような実。
「ねぇ、ドライアドの実じゃない!?」
思わず声が弾む。
袋から取り出して、両手で掲げる。
ころん、とした形。
表面はでこぼこで、ほんのり柑橘の甘い香りがする。
「わぁ、ほんとね。なんだかずっと前に食べた気分だわ。」
アマンディーヌも自分の袋から同じ実を取り出す。
彼女はそれを手のひらの上でころころと転がし、光に透かして眺める。
「今度は自分のタイミングで剥いて食べられるわね。」
「勝手に剥かれたりしないからね。」
そう言って2人で笑った。
前に食べたのは、もっと賑やかな場所だった。
あのときはみんなで1つを分け合って騒いだっけ。
今度は、滝の音を聞きながらか。
それも特別だ。
油紙の包みを開く。
中から現れたのは、サンドイッチ。
厚めのパンに、何かの加工肉。
少しソースがパンしみている。
緑色の、ブロッコリーみたいな野菜が挟まっている。
「シンプル。」
「潔いわね。」
二人で顔を見合わせる。
『いただきます。』
大きな口でかぶりつく。
ふわりとしたパン。
塩気のある肉。
甘めのソースが意外と合う。
「おいしい。」
思わず頬がゆるんだ。
野菜はしゃきしゃきしていて、いいアクセントになっている。
森の空気のせいか、いつもより味がはっきり感じられる。
「こういうの、嫌いじゃないわ。」
アマンディーヌも満足そうにうなずく。
周りでは他の参加者たちも静かに食事をしている。
紙袋のかさかさという音。
誰かの小さな笑い声。
滝の水音が、すべてを包み込む。
私はドライアドの実を手に取る。
少しひんやりしている。
そっと皮を剥いて食べると、じゅわっと甘みが広がった。
「あ〜、やっぱりこれ好き。」
「自然の中で食べると、余計においしく感じるわね。」
「確かに。」
少し汗ばんだ体。
歩いたあとの軽い疲れ。
ひんやりした空気。
全部が調味料みたいだ。
そうして、ゆっくりとした時間を楽しんでいるうちに、ほとんどの人がお弁当を食べ終えていた。
紙袋を畳む音。
水筒のふたを閉める音。
滝の音は相変わらず、絶え間なく続いている。
けれど。
肝心の「妖精の歌」は、まだ聞こえない。
笛のような音が鳴るはずだと、ガイドブックには書いてあった。
細く澄んだ音が、森に響くのだと。
私は何度も耳を澄ませる。
水音の奥に、何か混ざっていないか。
風が枝を揺らすたびに「今?」と顔を上げる人がいる。
誰かが小さく咳をするたびに、周囲が一瞬静まる。
まだかな?
そんな空気が、じわじわと広がっていく。
ちらちらと滝を見つめる視線。
森の奥を探るような目。
腕時計を確認する人も出てきた。
帰りの時間が、少しずつ近づいている。
ふと見ると、ガイドさんたちが小声で何か話している。
さっきより笑顔が硬い。
「えー、この滝は、『妖精の集う滝』と呼ばれておりまして――」
やや大きめの声で、ガイドさんが解説を始める。
「笛が鳴るような音を奏でることで有名です。風の通り方で鳴っているとか、いや水の跳ね返りが反響しているのだ、とか諸説色々ありますが、未だ解明されておりません。そのため、現地では妖精が歌っているのだと信じている人がまだたくさんいます。え〜、──」
説明は丁寧で、興味深い。
でも、その最中ですら、音は鳴らない。
滝はただ、真面目に水を落としているだけだ。
不定期に鳴るとは書いてあった。
けれど、きっといつもなら、もう聞けているのだろう。
「本当に妖精は歌うのか?」
そんな疑いが、目に見えない霧のように漂い始める。
さっきまでのわくわくが、少しずつしぼんでいく。
「何で歌わないのかしら?」
隣でアマンディーヌが小さく呟く。
少しだけ眉を寄せている。
「さぁ〜? 天気がいいから、妖精もお出かけ中なんじゃない?」
私はあえて明るく言う。
彼女がこちらを見る。
「ふふふ。お出かけ中? ピクニックかしら。」
「そうかも。ドライアドの実を持ってね。」
さっき食べた、あの実を思い出す。
森のどこかで、小さな妖精たちが並んでサンドイッチを食べている姿を想像してしまう。
「サンドイッチもあるわよ。甘いソースのやつ。」
「ちゃんとブロッコリーも挟まってるのね。」
二人で笑い合う。
その声が、思いのほか周囲に届いたらしい。
少し離れたところから、
「妖精はお出かけだって。」
と、誰かがくすっと笑う声が聞こえた。
「こんなに天気がいいものね。」
「サンドイッチ食べてるかも。」
ぽつり、ぽつりと、冗談が広がる。
さっきまでどこか張りつめていた空気が、ふわりとゆるむ。
「今日は休演日かもしれませんね。」
と、カメラを持った男性が言う。
「じゃあ、また来なきゃ。」
年配の女性が楽しそうに返す。
滝は相変わらず、ただ流れている。
でも不思議と、がっかりした気持ちは薄れていた。
聞けたら特別。
聞けなくても、ここまで歩いて、森の空気を吸って、ドライアドの実を食べた。
それだけでも、十分だ。
アマンディーヌが空を見上げる。
「でも、ちょっとくらい鳴ってくれてもいいのにね。」
「うん。サービス精神ないなぁ、妖精。」
そのとき。
ふっと、風が通り抜けた。
枝が揺れる。
滝の水しぶきが、ほんの少し形を変える。
私たちは、無意識に息を止めた。
――……。
けれど、聞こえるのは、やっぱり水の音だけ。
数秒後、誰かが小さく笑う。
「焦らされてるね。」
私は肩をすくめた。
ガイドさんたちが、ふと真剣な顔になった。
さっきまでの営業用の笑顔ではない。
どこか、職人のような表情。
一人がそっと川面に手をかざし、もう一人が滝のほうへ視線を固定する。
す、と空気が張りつめる。
そして手のひらを、川から滝へ向けてすべらせるように動かした。
ピシャ、ピシャ。
跳ね上がった水が、細い弧を描いて滝へ吸い込まれていく。
私は思わず息をのんだ。
首をかしげたり、指先を細かく動かしたりしているところを見ると、どうやら音を鳴らそうとしているらしい。
でも妖精の歌より先に、私たちの目を奪ったのは、水そのものだった。
川面が、意思を持ったみたいに動く。
今までも、水を湧き出させる魔法は見たことがある。
器に満たしたり、手から少量出したり。
でも、こんなふうに『遊ぶ』ように動く水は、初めてだった。
ピュッ、と滝の一部が細く抜き取られる。
それが空中で細い線になり、くるりと回って川へ落ちる。
『……え。』
思わず声が漏れる。
今度は、川の水が、するすると持ち上がる。
ゆらゆらと。
まるでヘビのように、うねりながら滝をさかのぼる。
重力を無視するみたいに。
「わぁぁ!」
誰かが思わず声を上げる。
その瞬間、ガイドさんたちがこちらを見た。
あ、見られてる。という顔。
少しだけ驚いたように目を見開く。
どうやら、妖精の音を鳴らすことに集中しすぎて、観客の存在を忘れていたらしい。
2人は小声で何かを交わす。
うなずき合った次の瞬間、水しぶきが、一斉に形を変えた。
ぱん、と弾けるように上がる水。
細い水の糸が何本も空中に描かれる。
それが交差し、円を描き、またほどける。
まるで噴水ショー。
でも、ここは森の中。
人工のライトも、音楽もない。
あるのは、滝の音と、木々のざわめきだけ。
それなのに、水はきらきらと光をまとい、
空中で花のように咲いては散る。
アマンディーヌが、隣で小さく息を呑む。
「……綺麗。」
彼女の声は、ほとんどささやきだった。
細い水の柱が何本も立ち上がり、
その先端がふわりとほどける。
次の瞬間、全部が一斉に崩れ落ち、
太陽の光を浴びて、虹色の粒になる。
自然の中で見るのは、贅沢だ。
川の水が、くるくると輪になって回る。
小さな渦がいくつも生まれ、それが合わさり、大きな円を描く。
滝の一部が薄い幕のように広がり、
透ける水のカーテンが風に揺れる。
「妖精の歌は聞けなかったけど……」
誰かがぽつりと言う。
「これはこれで、すごいよね。」
うん、と私は心の中でうなずく。
さっきまで「鳴らない滝」だったのに。
今は、まるで滝そのものが生き物みたいだ。
最後に、ガイドさんの手がゆっくりと円を描く。
すると、空中に持ち上がっていた水が、ひとつにまとまり――
ぽちゃん。
静かに、川へ戻る。
何事もなかったかのように。
滝は、また元の姿に戻った。
ただ、流れているだけの水。
数秒の沈黙。
そして。
ぱちぱち、と拍手が起こる。
それは次第に大きくなり、森の中に広がった。
ガイドさんたちは、少し照れたように頭を下げた。
「すごかったね。」
「即興であんな事できるんだね。」
帰るために紙袋を畳み、水筒をしまい、立ち上がりながらも、あちこちで興奮気味の声が上がっている。
滝はすっかり元の姿に戻り、何事もなかったかのように水を落としている。
さっきの水のショーが幻だったみたいだ。
私も土を軽く払って立ち上がる。
「妖精の歌は聞けなかったけど、満足かも。」
「ええ、十分すぎるくらい。」
アマンディーヌが頷く。
「本日は歌声が聞けず残念でした。また聞きに来てくださることを──」
ガイドさんが締めの挨拶を始めた、まさにその瞬間。
『〜〜♪ 〜♪ 〜〜〜♪』
細く、澄んだ音。
笛が鳴るような。
けれど笛よりもやわらかく、鳥のさえずりよりも規則的。
ほんのりと節がある。
空気の奥を震わせるような音。
一番に反応したのは、ガイドさんだった。
ぴたりと動きを止め、目を見開く。
「みなさん! 妖精の歌声です!」
その声に、参加者たちは一斉に静まり返る。
さっきまでがやがやしていた森が、嘘みたいに静かになる。
『〜♪ 〜〜〜♪』
音は滝のあたりから聞こえてくる。
でも、どこが発生源なのかはわからない。
水の裏?
岩の隙間?
それとも風?
細く、透き通るような響き。
高いのに、耳に刺さらない。
どこか懐かしい旋律。
私は思わず息を止めた。
「……すごい。」
アマンディーヌが小さく呟く。
その横顔は、真剣だった。
『〜♪〜〜……♪』
少し揺れる。
まるで、誰かがためらいながら歌っているみたいに。
参加者の誰も、もう疑っていない。
さっきまで「本当に鳴るのか?」と疑っていた空気は、きれいに消えている。
ただ、聞いている。
滝の音と重なりながらも、確かに独立している旋律。
私は目を閉じる。
風が、頬をなでる。
水しぶきが、ほんの少し冷たい。
その中で、歌声だけが、透明に浮かんでいる。
『〜〜〜♪』
最後のひと伸び。
細く、長く。
そして、ふっと、消えた。
あまりにも自然に。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
しばらく、誰も動かない。
森は、またいつもの森に戻っている。
やがて、小さく息を吐く音。
「……聞けた。」
誰かがささやく。
次の瞬間、拍手が起こる。
今度は、さっきのショーとは違う。
もっと静かで、でも確かな拍手。
ガイドさんは、ほっとした顔をしていた。
「今日は……特別、遅れてやってきましたね。」
冗談めかして言うけれど、声はどこか誇らしげだ。
アマンディーヌが私を見る。
「妖精、ピクニックから帰ってきたみたいね。」
私は笑う。
「サンドイッチ食べ終わったんだよ、きっと。」
滝は、ただ流れている。
でもさっきまでとは違って見える。
あの澄んだ音は、確かにここから響いた。
私はもう一度、滝を見つめる。
今度は疑いではなく、静かな敬意で。
妖精が本当にいるかどうかは、わからない。
それでもあの歌声は、確かに妖精だった。
それだけで、十分だった。




