39.1/29 花の国③
本日短めです。
「さぁ、お腹が空いたでしょう。ごはんにしましょうね。」
その一言で、わぁっと歓声が上がる。
もちろん私も声を上げた一人だ。
作業に夢中になっていたせいで、空腹を忘れていただけなのだと、今になって気づく。
テーブルで食べるものだとばかり思っていたけれど、家主さんはくるりと背を向けて、「付いてきてください」と、また歩き出した。
さっきよりもさらに森の奥へ。
木と木の間を縫うように続く小道を進んでいくと、視界がふっと開けた。
そこには、レジャーシートのように大きな布がいくつも敷かれていて、先ほど花を集めていた女の子たちが、てきぱきとごはんの準備をしているところだった。
布の上には、焼き色のついたパン、色とりどりのジャム、瑞々しい果物。
籠や木皿に盛られて、まるで絵本の挿絵みたいだ。
「わぁ、素敵ね」
「お腹空いたわ」
「いい香り〜」
あちこちから感嘆の声が上がる。
ふと、準備をしていた女の子の一人がこちらを振り返る。
目が合ったので、そっと手を振ると、向こうも少し驚いた顔をしてから、にこっと笑って手を振り返してくれた。
それだけで、なんだか胸が温かくなる。
それぞれ思い思いの場所に腰を下ろす。
頭上では葉が揺れて、木漏れ日がやわらかく降り注いでいる。
地面からの冷たさもなく、ちょうどいい。
「それでは、食べましょう。」
その合図で、遠慮がちだった手が一斉に動き出す。
パンを取る人、果物に伸ばす人、ジャムを吟味する人。
私は、まず、お茶だ。
だって、瓶の中に花茶が見えたんだもの。
自分の分はもったいなくてまだ飲めないけれど、飲んでみたい。
透明な瓶の中で、花が光を受けてきらりと輝いている。
お湯をそっと注いでもらうと、カップの中でパリパリと飴のような部分が溶け、ふわりと花が広がった。
鼻を近づけると、やさしい香り。
一口飲んで、思わず息をつく。
『……おいしい。』
甘さはほんのりとしていて、でも、花の香りがしっかりと広がる。
森の空気と一緒に飲み込むと、体の奥まで染み渡る感じがした。
ごはんは、カナッペのように楽しむものだった。
薄く切ったパンに、好きなジャムや果物を少しずつのせて、自分で組み合わせて食べる。
赤い実のジャム、黄金色のマーマレード、ゴロゴロと実が残る果物はどれも艶やかで、どこか誇らしげだ。
聞けば、使われているものはすべて、この農業で採れたものばかりらしい。
だからだろうか、甘さが妙に自然で、口に入れると果実そのものの重みがある。
香りも強く、余計なものが何もない。
甘いものを続けて食べると、さすがに口の中が甘さでいっぱいになる。
そんなときは、横に置かれたナッツを一粒。
かりっとした歯ごたえと香ばしさで、口の中がすっと整う。
そうして、また甘いものへ戻る。
この往復が、なんとも言えず幸せだ。
ふと、カップの中を見ると、花茶のお茶はだいぶ減っていて、底には色の抜けきらない花が残っている。
これをどうしたものかと少し迷って、家主さんに声をかけた。
「このお花って……どうすればいいんですか?」
家主さんはにこりと笑って、「一緒に食べて大丈夫よ」と、あっさり言った。
農薬とか、本当に大丈夫なのだろうか、と一瞬だけ頭をよぎる。
でも、もし危ないものなら、そもそも食べていいなんて言わないだろう。
そう自分に言い聞かせて、スプーンで花をすくった。
まだ少し色の残る花を、そっと口に含む。
しゃくしゃく、とした食感。
野菜に近いけれど、繊維は柔らかい。
味は……お茶と同じだ。
美味しいかと言われると、正直、首をかしげる。
でも、ちゃんと「食べられる」。
それだけで、なんだか不思議な気分になる。
お茶と一緒に口に入れればよかったな、と思いながら、残りのパンをかじる。
甘さと香ばしさに包まれて、気づけばお腹はすっかり満たされていた。
私は小さく背伸びをして、「ふーっ」と息をついた。
木漏れ日と、花の香りと、満腹感に浸っていると、「あら!」と家主さんが慌てた声を出した。
「そろそろシロップが煮詰まってきましたよ。みなさん、少し急いでください。」
その声がかかると、私たちは一斉に立ち上がった。
さっきまでのんびり広がっていた空気が、きゅっと引き締まる。
パンの器やカップを慌てて端に寄せ、片付けもそこそこに火の周りへ集まった。
鍋の中を覗き込むと、最初にたっぷり入れたはずの水が嘘のように減っている。
シロップはとろりと重くなり、大きな泡をポコポコと立てながら揺れていた。
透き通っていた赤紫の色は、いつの間にか深い紫へと変わり、光を吸い込むようだ。
……これはもう、どう見ても「魔女の謎の薬」である。
「はい、火からおろしたら、これを絞っていきますよ。」
そう言って家主さんが配ったのは、ライムのような小ぶりの柑橘だった。
鍋つかみをはめた手で、次々と火から鍋が下ろされていく。
見よう見まねで、私も片手で柑橘をぎゅっと握る。
パタパタ、と軽い音を立てて果汁が鍋に落ちた瞬間、色が変わった。
濃い紫だったシロップが、ふわっと明るくなり、ピンクとも赤ともつかない、やわらかな色合いに揺らめく。
『わぁぁぁ!』
思わず声が出た。
けれど、あたりでも同じような感嘆の声が上がっているから、お互い様だ。
「さぁ、熱いうちに瓶に詰めてください。」
配られた鍋つかみをしっかりとはめ、みんな少しずつ距離を取りながらテーブルへ戻る。
ぶつかったら大惨事だ。
鍋の中身は、見るからに熱くて、甘くて、危険そう。
……これ、こぼさないかな。
内心ひやひやしながらも、覚悟を決めて一気に瓶へ流し込む。
とろり、とろり、と重い音。
少しだけ縁に垂れたけれど、ほとんどはきれいに入った。
うん、上出来だろう。
「瓶に詰めたら、こっちに持ってきてくださいね。」
完成、かと思ったらまだ工程があったらしい。
家主さんの呼ぶ方を見ると、大きな鍋からもうもうと湯気が立ちのぼっている。
どうやら、仕上げに煮沸消毒をしてくれるようだ。
湯気の向こうに、ガラス瓶が次々と並べられていく。
その中で、自分の作ったシロップが、光を受けてきらりと輝いた。
大鍋の縁に瓶を並べると、助手さんたちが手際よく順番を整えていく。
家主さんが一つひとつ確認するように頷き、合図とともに瓶が湯の中へ沈められた。
ぼこぼこ、と湯が鳴る音。
ガラス越しに見えるシロップが、熱でわずかに揺れている。
「もう少しですよ。焦らないで。」
待っている間、みんな自然とおしゃべりを始めた。
「色、きれいね」「あの柑橘、いい香りだったわ」「家でどうやって使おうかしら」
パンにかける、炭酸で割る、お湯で割る、話題は尽きない。
私も自分の瓶を見つめながら考える。
炭酸に入れたら、きっときれいだ。
それとも、ヨーグルトにかけるのもいいかもしれない。
……いや、もったいなくて使えない可能性もある。
「はい、引き上げますよ。」
その声で、助手さんが長い道具を使って瓶を一つずつ取り出していく。
湯気の中から現れたガラス瓶は、つやつやとして、どこか誇らしげだ。
水気を拭き取られ、木の台の上に並べられていく。
最後に、家主さんが小さな布と紐を配った。
「冷めたら、口を覆って結んでください。今日作った印になりますからね。」
言われた通り、瓶が触れるくらいの温度まで冷めるのを待ち、布をかぶせて紐を結ぶ。
ぎゅっと結ぶと、きゅ、と小さな音がした。
それだけで、完成した実感がぐっと増す。
自分の瓶を手に取る。
中のシロップは、光を通すたびに色を変え、花畑を閉じ込めたみたいだ。
「お疲れさまでした。これで、今日の作業はおしまいですよ。」
拍手が起こり、私もつられて手を叩いた。
指先は少し甘くて、ほんのり花の香りが残っている。
楽しかった。
それだけで十分なはずなのに、手の中にはちゃんと形のある「おみやげ」まである。
瓶を胸に抱えながら、私はもう一度、赤色のきらめきを確かめるように眺めた。




