39.1/29 花の国①
「本船は、現地時刻9時に予定通りヒュリアへ下船開始予定です。下船されるお客様は、必ず現地時刻午後5時までに船にお戻りください。」
目的地に向かう馬車の中、私は窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。
街全体を包み込む香りは、まるで大きな花屋に足を踏み入れたときのように甘く、やわらかい。
単なる花の匂いというより、蜜と青葉と、熟れかけの果実が混ざったような、奥行きのある香りだ。
自生しているのか、誰かが丹精込めて育てているのか、その境目がわからないほど、街は緑と花で満ちている。
石畳の隙間から顔を出す小さな花、家々の壁を這う蔓植物、バルコニーから溢れ落ちるように咲く色とりどりの花房。
人の生活と植物が、無理なく溶け合っているのがわかる。
やがて馬車は、装飾の施された門の前で速度を落とした。
門をくぐった途端、香りはさらに濃くなる。緑の匂いがぐっと近づき、花の甘さに果実の瑞々しさが重なった。
思わず深呼吸したくなるほど心地いい。
敷地の中は、整えられすぎていないのに不思議と美しい。
低い生け垣の向こうには果樹が並び、枝には色づき始めた実が鈴なりになっている。
足元には背丈の低い花々が咲き誇り、その間を小さな虫や妖精のような光がふわふわと行き交っていた。
やがて馬車が止まり、御者の合図で降りる。
地面に足をつけた瞬間、土の感触が靴越しにも伝わってきた。
周囲を見渡すと、ツアーの参加者は思っていたよりもご年配のマダムたちばかりで、その中にいる自分が、少しだけ場違いに感じられて、背筋を正した。
「こちらでお待ちくださいね」
ガイドさんはそう言って微笑み、花農家の家主さんを呼びに、建物の奥へと姿を消した。
取り残された私たちは、自然と周囲に目を向ける。
見渡す限り、花と果物、花と果物。
今が盛りのものも、これから育ちゆく蕾も共生していて、どれも色が濃く、生命力に満ちている。
花びらには朝露の名残がきらりと光り、果実は今にも弾けそうに張りつめている。
家主さんを伴って、ガイドさんが戻ってきた。
日に焼けた顔に穏やかな笑みを浮かべたその人は、いかにもこの土地で長く花と向き合ってきた、という雰囲気をまとっている。
「付いてきてください。」
短くそう言って歩き出す背中に従い、私たちは花の小道を進んだ。
道の両脇には、さきほどよりもさらに密に花が咲き、肩や袖が触れるたび、ふわりと香りが立ち上る。踏みしめる土は柔らかく、足音さえも吸い込まれていくようだった。
やがて視界が開け、ポッカリと広がった広場に出る。
そこには、素朴な木製の大きなテーブルがいくつも並び、その上には籐のカゴや大きな鍋、地球と同じ形の蓋付きガラス瓶、木べらやはさみなどが整然と置かれていた。陽の光を受けて、鍋の縁がきらりと光る。
ガイドさんに促され、私は空いているテーブルのひとつにつく。
同じテーブルには、先ほど見かけたマダムたちが腰を下ろし、早くも楽しげに小声でおしゃべりを始めていた。
「さて、今日は花茶と花シロップを作りますよ。怪我や火傷には気をつけてくださいね。」
恰幅のいい女性家主さんが、にこにこと笑いながらセルマー公用語で告げる。
その声は少し低くてよく通り、不思議と安心感があった。
すぐ横で、ガイドさんが地球公用語で同じ内容を丁寧に繰り返してくれる。
美味しくできるといいな〜!
まだ何も始まっていないのに、すでに幸せな気分がこみ上げてきて、思わず頬が緩んだ。
「さてまずは、茶とシロップの素となる花や果物を取りに行きましょう。敷地に植わっているもの、何でもよいです。」
家主さんが言いながらカゴを1つ持ち上げた。
片手に乗りそうな小さなカゴだ。
「こちらの小さなカゴは花茶用です。あまり欲張ると、全部入れるのが難しくなります。半分位がちょうどいいです。」
次に両手で抱える程の一番大きなカゴを手に取った。
「こちらの大きなカゴは、花シロップ用です。たくさんいります。葉っぱはいりません。山盛りにしてください。香りがいいものがおすすめです。それでは、1時間で戻ってきてください。」
家主さんの言葉が終わると、マダムたちの間にふわりとざわめきが広がった。
「まぁ、何でもいいのね」「香り重視ですって」など、楽しげな声があちこちから聞こえてくる。
私も配られた小さなカゴと大きなカゴを受け取り、手の中で重さを確かめた。
花茶用のカゴは軽くて頼りなく、花シロップ用のカゴは、これでもかというほどしっかりしている。
「一時間、意外と短いですね。」
隣にいた参加者のマダムが笑いながら声をかけてくる。
「そうですよね。気づいたら夢中になってそうです。」
そう返すと、「うふふ、分かるわ」と目を細めてくれた。
合図も兼ねてか、家主さんがぱん、と手を叩く。
「では、どうぞ。花に触れるときは、手袋を忘れずに。」
私たちは三々五々に散り、敷地の奥へと歩き出す。
近くの花壇には、淡い紫の小花が群れるように咲いている。
鼻を近づけると、蜂蜜のような甘さの奥に、すっとした清涼感があった。
これは、お茶向きかな。
そっと一輪だけ摘み、花茶用の小さなカゴに入れる。
次は、少し離れた場所にある低木。白い花と、熟れかけの小さな実が一緒に付いている。
指で軽く擦ると、柑橘にも似た香りが弾けた。
今度は迷わず、大きなカゴに入れていく。
家主さんの言葉どおり、葉は避け、花と実だけを選ぶ。
気づけば、カゴの底から立ち上る香りが混ざり合い、歩くたびに自分の周りだけ甘い空気が漂っていた。
遠くでは、マダムたちが「あら、これは強すぎるかしら」「その花、色が素敵ね」と、まるで宝探しのようにはしゃいでいる。
鳥の声と、風に揺れる葉擦れの音が混じり、時間がゆっくりと溶けていく。
欲張らない、欲張らない……。
花茶用のカゴが半分ほど満たされたところで、私は一度立ち止まり、深く息を吸った。
胸いっぱいに広がる花の香りに、自然と笑みがこぼれる。
『香りのよいお花、香りのよいお花……』
そう唱えながらシロップ用の素材を探していると、少し離れた木陰で、ひときわ賑やかな気配が目に入った。
若い女の子たちが数人、集まっている。
ツアー参加者のマダムたちとは明らかに雰囲気が違い、動きも慣れている。
おそらく、この農園のスタッフなのだろう。
地面には、生成り色をした大きな布が広げられていて、ところどころ、花の色が移ったように淡く染まっている。
女の子たちはキャイキャイと楽しそうにおしゃべりをしながら、木に登ったり、背伸びをしたりして、枝から花をぶちり、ぶちりと驚くほど大胆に手折っては、布の上へぽいぽいと放り投げていた。
最初は少し心配になったけれど、よく見ると、手折り方は無駄がなく、枝や木肌を傷めない角度をちゃんと選んでいる。
ただ豪快なだけでなく、慣れと経験が滲む動きだった。
布の上に十分な量の花が積もると、今度は布の周りに座り、木から下ろした枝を片手で掴み、反対の手でぎゅっ、としごくようにして花を落とし始める。
ぱらぱらと、音を立てて花弁が降り注ぎ、布の上はあっという間に色と香りで埋め尽くされた。
役目を終えた枝は手際よく脇へ除けられ、次の瞬間、4人の女の子が布の四隅を持った。
『〜〜!』
掛け声とともに、ぐいっと布が持ち上げられる。
すると、どこからともなく、もう一枚、同じような大きさの布が現れ、こちらも4人が角を持ってピンと張る。
2枚の布は並べられ、花が乗った布のすぐ隣に配置された。
その中央に、何も持っていない女の子が1人、すっと進み出る。
彼女は布の上の花に向かって、両手を静かに広げた。
……なにが起こるんだろう。
そう思った瞬間だった。
突風、というにはあまりにも整った、強い風が吹き抜けた。
思わず目を閉じ、袖で顔を庇う。
次に目を開けた時、私は息を呑んだ。
花が――浮いている。
布の上にあったはずの花々が、ふわりと持ち上がり、空中で静かな渦を描いていた。
竜巻のようなのに荒々しさはなく、まるで透明な器の中で回されているみたいだ。
花弁は散ることも潰れることもなく、くるくる、くるくると優雅に舞っている。
魔法か……!? 魔法でしょう、これ!
胸の奥が一気に高鳴る。
魔法使いらしき女の子が、指先をほんの少しだけ動かした。
すると、渦の中の花が、ゆっくりと二層に分かれ始めた。
上へ、軽やかに舞い上がる花。
下へ、少し重そうに留まる小さな実。
――あ、実も混ざってたんだ。
高度を保ったまま、さらに選別は続く。
花弁と実は完全に分かれ、下の層だけが徐々に高さを落としていく。
そのタイミングを見計らい、下で待っていた女の子たちが、横から布を滑り込ませるように差し入れた。
布は波のようにしなり、実だけを見事に掬い取る。
実が消えた瞬間、空中にぽっかりと空白が生まれる。
そこへ、隣で待機していた女の子たちが、まるで流れに身を委ねるように布を差し込み――
ぴたり。
合図でもあったかのように、風が止んだ。
支えを失った花は、ふわり、と新しい布の上へ落ち、柔らかな音を立てて広がる。
完璧な流れ。
無駄も、躊躇も、一切ない。
『わぁぁぁ!!』
思わず声が漏れ、勢いのまま手の甲を叩いて拍手してしまった。
乾いた音が一度、二度と響いた瞬間、空気が変わる。
……しまった。
気づけば、そこにいた全員の視線が、ぴたりとこちらに集まっていた。
さっきまで流れるように動いていた女の子たちが、一斉に動きを止め、きょとんとした、あるいは驚いた表情で固まっている。
うわ、完全に注目浴びてる……!
私は反射的に笑顔を作ったものの、場の沈黙がずしんと重い。
逃げ出したい気持ちをこらえ、思い切って口を開いた。
「こんにちは。」
セルマー公用語で丁寧に、挨拶をしてみる。
「こ、こんにちは……」
「コンニチハ」
「コンニチハ」
ぽつり、ぽつりと返事が返ってくる。
けれど、それきりまた沈黙。
女の子たちはお互いの顔を見合わせ、どう反応すべきか迷っている様子だ。
うぅ……いたたまれない!!
胸の奥がむずむずして、耐えきれなくなる。
このまま立ち尽くすのは、あまりにもつらい。
「私は、聞きたいです。今の……どうなっていましたか?」
できるだけ簡単な言葉を選ぶ。
すると、女の子たちの目が、さらに大きく見開かれた。
次の瞬間、彼女たちは一斉にざわざわと動き出す。
『〜〜!』
『〜!?〜〜〜〜!』
『〜〜〜!』
声が重なり、互いに肩や背中を押し合っている。
明らかに「誰が話すの!?」という押し付け合いだ。
あ……ごめん、困らせた……。
申し訳なさがこみ上げ、私は一歩下がった。
「ごめんなさい。急でしたね。じゃあ——」
謝ってその場を離れようとした、その時。
ぐいっ。
誰かの背中が押され、一人の女の子が、よろけるように前へ出てきた。
押し出された本人は目をぱちぱちさせているけれど、覚悟を決めたように、小さく息を吸い込む。
「わ、私たち……花と……」
彼女は胸の前で指を丸くし、言葉を探すように空を見上げる。
セルマー公用語はたどたどしいけれど、一生懸命なのが伝わってくる。
話してくれる……!
ありがたくて、胸がじんと熱くなる。
「花と、実、をわけていました。どうやって、していましたか?」
ツアーだから大丈夫だろうと、現地語の勉強をしてこなかったことを、心の底から後悔する。
それでも、どうしても知りたくて、必死に問いかけた。
「そうです、実!〜〜〜⋯風、上、全部、上。風、小さい、実、重い、下がる。風、止める、花、下がる。⋯⋯いいですか?」
「わかります!」
身振り手振りを加えながら説明してくれ、不安そうに尋ねる女の子に、力強く頷いた。
たぶん理解した。
魔法使いの女の子は、風を操ることができるんだろう。
あとは強弱をつければ分離されると。
すごい。理にかなってるわ。
ただの派手な魔法じゃない。
自然の性質を理解した上での、洗練された技だ。
『ありがとうございます!』
唯一覚えておいた現地語でお礼を言うと、女の子は驚いた顔をした後ふと頬を緩めてと笑った。
『どういたしまして』
その笑顔につられて、周りの女の子たちの緊張も少し解け、空気がふわりと和らぐ。
……見れてよかった!
私はカゴを握り直し、改めて花の香りに満ちた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。




