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38.1/28 船、陸路を行く

コンコンコンコン!

コンコンコンコン!


ドアノックの音で、浅い眠りの底から引き上げられる。

一瞬、もう一度寝ようとして、それからはっと現実に戻った。


やばい、寝過ごした?


そう思った途端、身体が先に動く。

髪も整えないまま慌てて起き上がり、扉へ向かう。


「は、はい……!」


ドアを開けると、そこには朝の空気みたいにすっきりした表情のクルーさんが立っていた。


「おはようございます!」


差し出されたトレーは温かく、用意しておいたチップと交換に受け取ると、ふんわりといい香りが鼻先をくすぐる。

焼き立てのパンと、卵のまろやかな匂い、どこか柑橘の爽やかさも混じっていた。


「ありがとうございます……」


少し掠れた声で礼を言い、扉を閉める。

時計を見ると、まだ5時前。

寝過ごしたわけではなく、むしろ時間ぴったりどころか少し早いくらいだ。

遅れてこなかっただけ、しっかりしてるな。

そう思って気持ちを切り替えようとするものの、正直なところ、

⋯⋯眠たい。


トレーをどうにか片手で持ち、もう片方の手でカーテンを引く。

シャッと音を立てて開いた先には、夜明け前の海。

濃い藍色の水面に、ほんのりと淡い光が滲んでいて、水平線の向こうがわずかに白み始めていた。


『……きれい。』


いい時間に起きたのかもしれない。

そう思うと、少しだけ得をした気分になる。

バルコニーに出て、冷たい空気に身を縮めながらテーブルにトレーを置く。

やっぱり肌寒くて、いったん部屋に戻り、羽織りものを肩にかけてから改めて腰を下ろした。

トレーの上には、丁寧に蓋やラップをされた皿がいくつも並んでいる。

ひとつひとつ、宝箱を開けるみたいに外していく。

メロンやリンゴの入ったフルーツの盛り合わせ。

ドレッシングから爽やかな香りが漂うサラダ。

蜂蜜とナッツが添えられたヨーグルト。

ウインナーとポテト……ローストポテトかな?

こんがりとした表面が食欲を刺激する。


そして、最後の一皿。

少しだけ期待しながら、蓋を持ち上げる。

パカっと音を立てた瞬間、とろりとしたソースが光を受けて艶めいた。

ふっくらとした卵の下には、厚みのあるマフィン。

その上から、惜しげもなくかかったオランデーズソース。

完璧なエッグベネディクトだ。


『……朝から、すごいな。』


思わず笑ってしまう。

まだ半分眠っている身体に、このボリュームと贅沢さ。

遠くで波の音を聞きながら、少し冷えた手でフォークを取る。

空はゆっくりと明るくなり、海もそれに合わせて色を変えていく。


フォークでそっと卵に触れると、表面がふるりと揺れた。

ナイフを入れた瞬間、黄身がとろりと溢れ出し、ソースと混ざって白い皿の上に広がる。

登ってくる朝日を横目に、その一口を口へ運ぶ。

温かくて、塩気と酸味がちょうどよく、眠っていた身体の奥にじんわり染みていく。


『……おいしい。』


思わず小さく呟くと、潮の匂いを含んだ風が頬を撫でた。

朝日はいま、海面の縁を完全に離れ、金色の道をまっすぐこちらへ伸ばしている。


エッグベネディクトを少しずつ味わいながら、合間にフルーツを口に入れる。

フルーツはデザートじゃないかとも思うけど、ひんやりとした甘さが、温かい卵の余韻をきれいに切り替えてくれる。

ヨーグルトに蜂蜜を垂らして混ぜると、匙が当たる音だけが静かなバルコニーに響いた。

ローストポテトは外が香ばしく、中はほくほくしていて、ウインナーの肉汁がそれを追いかける。

こんな朝ごはんを、こんな景色と一緒に食べる日が来るなんて、少し前の自分は想像もしていなかった。


コーヒーを一口。


湯気の向こうで、太陽が完全に顔を出す。

光が強くなるにつれて、海の色も変わる。

夜明け前の静かな藍から、きらめく青へ。

船の白い手すりやテーブルの縁が、朝日に照らされて柔らかく輝いた。

フォークを置いて、しばらく何もせず景色を眺める。

時間がゆっくり流れているようで、胸の奥が静かに満たされていく。


「……今日も、いい一日になりそう。」


そう思いながら、残りの朝食に手を伸ばした。




「みなさん、今日はあまり集中できないようですね。まだ『運搬』までは時間があると思いますけれど。」


ロザンナ先生がそう言って楽しそうに笑った。

コーラスの練習に来てはいるものの、私と同じように窓をチラチラと見ている人も多かったからだろう。

申し訳ない気持ちで苦笑いを返す。


今日は船が「運搬」される日。

船が、陸地を行くのだ。

見逃したくないイベントである。


コーラスの練習を終えると、私はチラチラと窓の外を見ながら甲板へ向かった。

陸地の周りには何艘かの船が見え、順番待ちをしているようだ。


私はメッセンジャーで「一緒に見ない?」といつものメンバーに連絡をした。

すぐさま返ってきたマリナからの返信は


「絶対に嫌。カーテンも開けない。」


という相変わらずな返信だったけど、ほかのメンバーからは了承の返事が来た。


『……ですよね。』


思わず小さく呟きつつ、私は端末をしまった。

マリナらしい返事に、苦笑いと同時に少し安心もする。ああいうのが本当に苦手なんだろうな、と。


甲板へ続く通路は、すでにどこかそわそわした空気に包まれていた。

同じ目的らしい乗客たちが、足取り軽く、あるいは落ち着かない様子で行き交っている。

小声で「もうすぐかな」「前の船、動いたよ」と情報交換する声が、波音に混じって聞こえた。


外へ出ると、潮風が思ったより強く、服の裾がぱたぱたと揺れる。


『ほんとに……行くんだよね、陸の上。』


独り言のように呟くと、すぐ隣で誰かが小さく同じことをつぶやいた。


「本当に陸の上を行くんだな。」


振り向くと、先に来ていたセルヒオが手すりにもたれていた。

少し遅れて、バイロンとアマンディーヌも合流する。


「マリナは?」

「……来ないって。予想通り。」



そう言うと、セルヒオが肩をすくめた。


「食べてたのに、見るのは無理なんだな。」

「無理強いしてもね。」

「それはそうだ。」


私たちは並んで手すりに寄り、沖合に停泊する他の船へと視線を向けた。

1艘が、ゆっくりと巨大な「運搬路」に乗せられていく。

船体の下から影が立ち上り、引きずるような唸るような音が空気を震わせた。


「始まる……。」


誰ともなく漏れたその一言に、甲板の空気がすっと張りつめた。

これから、当たり前のように海を進んできた船が、当たり前ではない方法で陸を行く。

私は無意識のうちに手すりを強く握りしめ、その瞬間を待っていた。

海の下で、黒い影がうごめく。

やがてそれは、何本もの触手となって船体を包み込み、ズズズズズ……と、重く低い音を立てながら、先に陸へ上がった船を滑らせていった。

距離があるせいではっきりとは見えないが、その巨体に反して、どこか軽々と扱っているようにも見える。


2艘ほどの船が運ばれていくのを見送り、ついに、この船の番が回ってきたようだった。


「本船は、只今よりメシルリア大陸を横断いたします。その際、船が大きく揺れる場合がございます。転倒、落下にはくれぐれもご注意ください。繰り返し──」


落ち着いたアナウンスが何度も流れる中、船はゆっくりと陸地へ近づき、がたがたと不規則に揺れながら、乗り上げるようにして止まった。


その直後、ポコポコ、ぷくぷくと、海の底から空気が弾ける音が響く。

私は思わず身を乗り出し、海を覗き込んだ。

影は、さっきよりもずっと近い。

大きく、濃く、確実にこちらへ向かってきている。

ぞくり、と背筋を冷たいものが走り、慌てて上体を起こした、その瞬間。

トッ、と背中にセルヒオの手が触れた。

「あ、ごめん」振り向いて反射的にそう声をかけた直後──


ざばぁぁぁぁ!!


激しい水音とともに、海面が割れ、

長い腕が一本、勢いよく姿を現した。

吸盤にびっしりと覆われたその腕は、ゆらり、ゆらりと空を泳ぐように揺れ、やがて狙いを定めたかのように、船の側面へと降ってくる。


「わぁぁ!」

「クラーケンだ!」

「本物だ!」


あちこちから歓声と悲鳴が上がり、甲板は一気にざわめいた。

けれど私は、驚きすぎたせいか、声すら出なかった。

ただ、頭の中で浮かんだ感想を、ぽつりと零す。


『……めっちゃタコじゃん。』


我ながら、ひどく現実味のない一言だったが、それほどまでに、目の前の光景は非日常そのものだった。


長い腕は一本だけではなかった。

ざばぁ、ざばぁ、と続けざまに海面が割れ、同じような腕が次々と姿を現す。

それらはまるで意思を持つ縄のように、船体を避けながら、あるいは確かめるように、ゆっくりと絡みついていった。

吸盤が金属と木材に貼りつくたび、

ぶち、ぶち、と低く湿った音が響く。

その感触が、音だけで伝わってくるようで、私は思わず肩をすくめた。


「……冷静すぎないか?」


隣でセルヒオが、半ば呆れたように、半ば感心したように言う。


「だって……想像してたより、ちゃんとタコで……」

「それ、フォローになってないぞ。」


バイロンは身を乗り出し、目を輝かせている。


「すげぇ……あの太さで、船を持ち上げるのか?」

「持ち上げるっていうより、運ぶ、かな……。」


アマンディーヌの言葉どおり、触手は船を持ち上げるのではなく、包み込むように配置されていった。

船底に回り込み、側面を支え、まるで巨大な手のひらの上に船を乗せるような形になる。

その瞬間、船がぐらり、と大きく傾いた。

「きゃっ……!」 誰かの悲鳴と同時に、甲板全体が斜めになる感覚。

私は反射的に手すりにしがみつき、もう片方の手で掴める位置にあったセルヒオの袖を掴んでいた。

セルヒオは何も言わず、私の腕を取るとぐいっと引き寄せ、手すりに導いてくれる。

両手で手すりを掴むと、セルヒオは更に私の背中に手を回し手すりとセルヒオの腕につつみ込んでくれた。

近くなった顔から目を逸らすように海を見つめる。


「本船は只今よりしばらく大きな揺れを伴います。皆さま、落ち着いて行動してください。船体の外に落ちたりしないよう、お気を付けください。」


アナウンスは落ち着いた声のままだが、正直言うのが少し遅い気がする。

視界の端で、海面がどんどん遠ざかっていくのがわかる。


……持ち上がってる。

ほんとに。

触手が一斉に力を込めたのだろう、

ズズズ……ズズズズズ……と、地鳴りのような音が響き、船はゆっくりと陸側へ引き寄せられていく。

陸地に触れた瞬間、今度は別の揺れが来た。

ごとん、がたん、と不規則に振動し、船体が地面の感触を確かめているみたいだった。


「……海じゃない。」


ぽつりと、アマンディーヌが呟く。

その言葉が妙に胸に残った。

確かに、今この船は、海ではない場所にいる。

触手は、今度は滑らせるように船を前へと動かし始めた。

陸の上を、ズズズズと音を立てながら、巨大な影が船ごと移動していく。


「……歩いてるみたいだな。」

「いや、這ってるだろ。」


バイロンとセルヒオの会話を聞きながら、私はゆっくりと息を吐いた。

さっきまでの恐怖が、少しずつ、実感と興奮に変わっていく。

窓の外には、確かに大地があった。

草と岩と、遠くに見える街道。

それを、船の上から見ている。


「……すごいね。」


そう呟いた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

けれど胸の奥では、心臓が忙しなく跳ねている。

興奮と実感が、ようやく追いついてきたのだ。

触手に包まれたまま、船は陸の上を進んでいく。

ズズズズ……という音は、もはや不快というより、一定のリズムを刻む低音になっていて、その揺れに体が少しずつ慣れていくのがわかった。


「これ、下から見たら相当な絵面だろうな。」


バイロンが感嘆混じりに言う。


「船を運ぶクラーケン、か……伝説って、こうやって生まれるんだろうな。」


セルヒオが、どこか納得したように頷いた。

私は手すりから手を離し、恐る恐る足元を確かめる。

甲板はまだわずかに揺れているが、さっきのような不安定さはない。

セルヒオも私を囲っていた手を離し、軽く肩を回した。


「な? 案外、大丈夫だろ。」

「……うん。思ったより、ちゃんとしてる。」


「ちゃんとしてる」という感想が正しいのかはわからないが、巨大な魔物に運ばれている状況としては、驚くほど秩序立っている。

ふと、甲板の縁から外を覗くと、すぐ下に、腕の一本が見えた。

吸盤が地面を掴み、離し、また次へ――

ぬめるようでいて、どこか丁寧な動き。


「……ちゃんと、道を選んでる。」


私の呟きに、アマンディーヌが頷く。


「整備された道がやっぱり通りやすいのかしらね。」


言われてみれば、確かに。

遠くに見える道や建物から、わずかに距離を取るようにひかれた道から外れることのないよう、クラーケンは進路を調整しているようだった。


「クラーケンって、もっと暴れる存在だと思ってた。」

「人と共存してる、ってことだろ。」


セルヒオの言葉は短いが、妙に腑に落ちた。

やがて、前方に小さな丘のようなものが見えてくる。

それを回り込むように進むと、船の揺れが少し強くなり、同時にアナウンスが再び流れた。


「まもなく、陸上区間の中程に入ります。揺れが強くなる可能性がございますので――」


言い終わる前に、ぐぐっ、と船体が持ち上がる感覚があった。

触手が配置を変えたのだろう。

甲板が一瞬ふわりと浮き、次の瞬間、また安定する。


「浮いたぞ!」

「うん、浮いたよね。」

「浮いたな。」

「浮いたね。」


4人の声が重なり、思わず笑いが漏れる。

怖さはまだある。

けれど、それ以上に、この状況を見逃したくないという気持ちが勝っていた。

私はもう一度、遠くの景色に目を向けた。

船の上から眺める陸の世界は、どこかミニチュアのようで、それでいて確かに、現実だった。

海と陸の境界を越え、船は、確かに船旅を続けている。

その事実を噛みしめながら、

私は手すりに肘をつき、しばらくの間、何も言わずに景色を眺めていた。

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エッグベネディクトにかかってるのはオランデーズソースですよ☺️ おいしそうな描写です 船を運ぶタコ、頭いいなぁ
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