37.1/27 セレストア
「本船は、現地時刻11時に予定通りセレストアへ下船開始予定です。下船されるお客様は、必ず現地時刻午後5時までに船にお戻りください。」
早めにお昼ごはんを済ませた私は、オプショナルツアーのグループに並んでいた。
甲板の端にできた集団は思ったよりも多く、案内板を持つガイドさんの周りにはまだ少しずつ人が加わっている。
ぼんやり周囲を見渡していると、グループに合流しようとしている見覚えのある背中が目に入った。
体格のいいその後ろ姿に、思わず声をかける。
「バイロン!」
呼ばれて振り返った彼は、一瞬きょとんとしたあと、すぐに笑って手を挙げた。
「お、サクラか!」
バイロンはそのままこちらへ歩いてきて、私の隣に並ぶ。
「バイロンも、このツアーに参加するの?」
「おう。国でも一度は乗ってみたいと思ってたんだが、なかなか機会がなくてな。せっかくだし、今日行っとくかって思ってさ。一緒に乗るか?」
「もちろん!」
即答すると、バイロンは満足そうに頷いた。
ふとガイドさんがもつ案内板に描かれた、水しぶきを上げる車体のイラストが目に入る。
少しだけ嫌な予感がして、私は確認するように聞いた。
「あ、ねぇ。レインコート、借りた?」
「いや。まぁ大丈夫だろ。」
あっさりと言い切るバイロンに、私は小さく首を傾げる。
⋯本当に、大丈夫なんだろうか。
そんなことを考えているうちに、列はゆっくりと動き始めた。
船を降りた先には、屋根付きの、先頭が尖った馬車が何台も並んで待っていた。
御者台に座る係員たちが手綱を整え、出発の準備をしている――のだが、どう見ても様子がおかしい。
馬車を牽いているのは、ただの馬ではなかった。
陽光を受けてつやりと光る濡れたような体表。
風に揺れるたてがみは、毛というよりも魚のヒレを思わせる質感で、流れるたびにきらりと光を返す。
そして決定的なのは尻尾だ。細長い胴の先には、イルカのような左右に広がった尾びれがついていて、ゆっくりと水をかくように揺れている。
「うぉぉ! ケルピーだ! 本物だ!」
バイロンが思わず子供みたいな声を上げ、拳を握りしめる。
その隣で、私も声こそ抑えたものの、内心では同じくらいテンションが跳ね上がっていた。
「なんか…すごいね! ほら、後ろ足もヒレみたいになってるよ!」
近づいてよく見ると、蹄の代わりに広がった半透明の膜が足元に揺れている。
陸の上に立っているのに、今にも水へ滑り込めそうな、不思議なバランスだ。
「フィンを履いてるみたいだな。」
感心したように呟くバイロンの視線の先で、ケルピーは鼻先を軽く振り、喉を鳴らすような低い音を立てた。
その仕草ひとつひとつが生き物として自然で、伝承や図鑑の中の存在ではなく、確かに生きているのだと実感させられる。
馬車の周囲には、同じツアー客たちのざわめきと、抑えきれない歓声が広がっていた。
写真を撮る人、思わず後ずさる人、恐る恐る手を伸ばしかけて係員に止められる人。
「……これ、本当に水陸両用なんだよね?」
「そりゃそうだろ。水に入ったら、こいつらの本領発揮だ。」
バイロンが楽しそうに笑うのを見て、私も思わずつられて笑った。
バスのように2人掛けのイスが左右に並ぶ車内に、バイロンと隣同士で座る。
「サクラ越しでも外は見えるから」と、バイロンが窓際を譲ってくれた。
中にはもうレインコートを着ている人もいて、後からバタつくのが嫌だった私は、とりあえずボタンは留めず、羽織るだけ羽織っておくことにした。
それほど待つこともなく、馬車――いや、ケルピーバスはゆっくりと動き出す。
幸い前方寄りの席だったので、進行方向がよく見える。
石畳の道をそれなりの速さで進みながら、街並みをのんびりと抜けていく。
車体が揺れるたびに、カッポ、カッポと蹄が地面を叩く軽やかな音が響く。
それに混じって、ペチペチ、ペチペチと普段はまず耳にしない音が重なる。
「……今の音、絶対ヒレだよね。」
「ああ。陸の上で聞く音じゃないな。」
バイロンと顔を見合わせて小さく笑った、そのとき。
「皆様、本日はケルピーバスへのご乗車、誠にありがとうございます!」
前方から、よく通る明るい声が響いた。
ガイドさんが立ち上がり、にこやかにこちらを振り返っている。
「このバスはご覧の通り、ケルピーが牽く水陸両用車となっております。現在は陸上走行中ですが、この後、そのまま運河へと進入いたしますので、どうぞレインコートのご準備をお忘れなく!」
車内が一斉にざわつき、楽しそうな笑い声と、慌ててボタンを留める音が広がる。
私もレインコートの前を留めながら、窓の外へ視線を向けた。
やがて今から入るであろう運河が見えてきた。
少し湿った空気を感じたのか、ケルピーの足音が早まった。
それに合わせてバスは加速し、視界の先にゆるやかなスロープが現れた。
石畳が途切れ、その先には運河の水面が広がっている。
「わっ! 速くなった! ……このまま行くんだよね!?」
「止まらないのが、売りだからな!」
バイロンが楽しそうに口の端を上げた、その直後だった。
カッポ、という蹄の音が、ザブリと水音に変わる。
次の瞬間、ぐっと車体が前に傾き、視界が一気に開けた。
――ざばぁん!!!!
「ひゃぁぁ!!」
「うぅお!」
思っていたよりも派手な音とともに、水しぶきが屋根を叩く。
ガラスのない窓からは豪快に水が入り込み、レインコートを羽織っていて正解だった、と心から思う。
『冷たいっ……!』
「つっめったっ!! おいおいおいおい! ずぶ濡れじゃねぇか!」
レインコートで守れたのはおよそ膝から上だけで、ふくらはぎから靴までびっしょりと濡れてしまった。
バイロンは楽しそうに笑っているが、窓側半分は髪から靴までびっしょりだ。
車内では、悲鳴と笑い声が入り混じり、まるで遊園地のアトラクションだ。
水に入った瞬間、蹄の音は完全に消えた。
代わりに聞こえてくるのは、規則正しく響く、ざぶ、ざぶ、と大きなヒレが水面を叩く音だ。
窓の外を見ると、ケルピーの体は完全に水中に沈み、ヒレのような足先と尻尾がしなやかに水を押している。
頭だけは出しているが、犬かきとは違って前足は動かしていないようだ。
陸では馬、しかし水ではまぎれもなく水棲の生き物だった。
「すごい…ちゃんと泳いでる…!」
「ガイドブックで見てるだけだったからな。生で見ると、やっぱり迫力が違う。」
バスは思いのほか安定していて、揺れはほとんどない。
あれだけ入ってきていた水も、どうなっているのか跡形もなく消えている。
水面を滑るように進み、両脇の建物がゆっくりと後ろへ流れていく。
「それでは皆様、ただいまより水上走行となります。右手をご覧ください。」
ガイドさんの案内に従って顔を向けると、運河沿いのテラス席で食事をしている人たちが、こちらに手を振っている。
こちらも思わず振り返すと、観光客同士なのに、妙な一体感が生まれて楽しい。
水と街の匂いが混じった風が、頬をなでる。
陽光が水面で反射して、天井や壁にゆらゆらと揺れる光の模様を描く。
「これ、想像以上にいいな。」
「うん。来てよかった。ちょっと寒いけど。」
「俺なんて全身だぞ?」
「だからレインコート借りたらよかったのに。」
そう笑い合う私たちを乗せて、ケルピーが水を蹴るたび、バスは静かに、でも確かに前へ進んでいく。
陸と水、その境界を越えたこの乗り物に揺られながら、私はしばらく、ただ景色に見入っていた。
やがてケルピーバスは再び陸地へと乗り上げ、石畳に囲まれた町中の広場で静かに止まった。
エンジンも汽笛もないぶん、到着は拍子抜けするほどあっさりしている。
降りようと立ち上がった瞬間、がぽっと、靴の中で水が動いた。
『あ。』
遅れてやってくる冷たさと、じわりとした不快感に、思わず眉をひそめる。
濡れた自覚はあったが、靴の中までびっしょりだったようだ。
隣のバイロンはというと、髪の先から上着、ズボンに至るまで、ほぼ全身が水を吸って色を変えている。
「……これはひどいな。」
「冷たいね〜。お茶くらいしたかったんだけど、ちょっともう船に戻りたくなってる。」
「わかる。いい加減、寒くなってきた。」
互いに苦笑いしながら、戻り時間を告げるガイドさんを横目に、私たちはバスを降りた。
広場に足を踏み出すと、端の方にパラパラと人だかりができているのが目に入る。
よく見ると、木の看板を掲げた人が数人立っていた。
看板に書かれている文字は、地球公用語でたった一言。
『乾かす』
「……え、あれ。」
「随分シンプルだな。」
一緒に降りた観光客の何人かが、迷いのない足取りでその人たちに近づいていく。
軽くお金を渡し、全身を任せるように立つと、看板を持っていた人物が手をかざした。
次の瞬間、シュワシュワ……と、どこか炭酸の抜けるような音がして、濡れていた服がみるみるうちに元の質感に戻っていく。
乾いた人たちは満足そうに頷き、軽やかな足取りで広場を後にしていた。
「うわ……! 乾いてるよ!」
「また魔法かな? すご……お願いしようよ。」
「おう。俺も乾かしてもらってくる。寒すぎる。」
私たちは顔を見合わせ、揃って看板の前へと向かった。
そう高くない金額を支払うと、看板を脇に置いた魔法使いさん(?)が、穏やかな声で言う。
「乾かします。」
そう言って、濡れている部分に順に手をかざす。
指先から淡い熱でも冷気でもない、不思議な感触が広がり、またあのシュワシュワという音がした。
ふくらはぎ、裾、どこも一瞬で乾いていく。
「靴もどうぞ。」
差し出された小さなイスに座り、靴を脱ぐ。
案の定、中はびっしょりだったが、それすらも手をかざされると、あっという間にさらさらになった。
熱くも寒くもなく、ただ「乾いた」という事実だけが残る。
「……すごい……」
「終わりです。他に乾かすところはありますか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。」
靴下も乾かしてくれた魔法使いさんに、立ち上がって一礼し、場所をバイロンに譲る。
バイロンを一目見た魔法使いさんは、少しだけ目を丸くしてから、くすりと笑った。
「あなたは……すごく濡れていますね。」
「そうなんだよ。自覚はある。」
そう言いながらも、バイロンは素直に腕を広げる。
再び手がかざされ、シュワシュワという音とともに、重たそうだった服が軽くなっていく。
「…生き返るな。」
「ほんとだね。」
乾いた靴で石畳を踏みしめながら、私はほっと息をついた。
ケルピーの余韻と魔法の便利さに包まれて、さっきまでの寒さが嘘のように消えていた。
さっぱりとした気分で石畳を踏みしめながら、次はどこでお茶をするか、他愛もない相談をしつつ歩く。
「せっかくだし、あったかいのがいいな。」
「甘いのも欲しいな〜。」
「歩き回ったし、腹も減ってきた。」
そんなことを言い合いながら、てこてこと並んで進んでいると、ピルルル…ピルルル…と、どこか軽やかで、澄んだ鳥のさえずりが聞こえてきた。
「……今の、聞こえた?」
「ああ。鳥か?」
音のする方へ視線を向けると、そこには小さな店が一軒、ひっそりと佇んでいる。
看板は控えめで、派手な装飾もない。
窓から中を覗いてみるが、止まり木も鳥籠も見当たらず、羽の気配すらない。
「…いない、よね?」
「だな。でも、」
バイロンが肩をすくめて笑う。
「気になるんだろ? カフェっぽいし、入ってみようぜ。」
「ここにしてもいい? なんか、どうしても気になっちゃって。」
「俺は食えればどこでも大丈夫だからな。」
そう言って気軽に扉へ手を伸ばし、押し開ける。
カロンと、澄んだ鈴の音が鳴った。
中はこぢんまりとしていて、木の温もりを感じる素朴な店内だった。
テーブルは少なめで、落ち着いた空気が流れている。
…なのに。
ピルルル……
時折、あの鳥の声がどこからともなく響く。
天井を見ても、壁を見ても、やはり鳥の姿はない。
「…不思議だね。」
「いるとしたら、かなり上手く隠れてるな。」
案内してくれた店員さんに、意を決して尋ねてみる。
「あの……さっきから鳥の声が聞こえるんですけど……」
「ええ。では、そちらのセットにしますか?」
にこやかに、まるで当然のようにそう返されて、思わずバイロンと顔を見合わせた。
「……セット?」
「……おすすめなら、それで。」
結局、よく分からないまま二人とも同じセットをお願いする。
席について、ゆったりと待っていると、ほどなくしてトレイが運ばれてきた。
白い陶器のポットと、小さなカップ。
そして、小菓子が乗った皿。
どの食器にも、鮮やかな赤で緻密な文様が描かれていて、目を引く美しさだ。
特にカップは不思議で、縁の一箇所にぽつんと穴が空いている。
「……これ、どうやって飲むんだ?」
「さぁ……?」
店員さんの説明によると、ポットから都度カップに注ぎ、注いだお茶は一息に飲むのだという。
飲む時はカップの穴の位置に口をつけて、と注意を受ける。
説明にうなずきながら、まずはお菓子に手を伸ばす。
緑とピンクの二層に分かれた、蒸しパンのようなそれを口に入れると、ほんのり甘く、やさしい香りが広がった。
「おいしい……。」
言われた通り、カップにお茶を注ぎ、口をつける。
穴の位置を意識しながら、ためらいつつも一気に飲み干す。
――その瞬間。
ピルルル……
はっきりと、カップから鳥の声が響いた。
「……っ!」
思わず目を見開き、バイロンと視線を合わせる。
彼も同じように驚いた顔で、喉を鳴らしてごくりと飲み終えたところだった。
「今の……」
「聞こえたな。」
店内は変わらず静かで、鳥の姿もない。
けれど、確かに『鳴いた』。
「……このお茶、だよね。」
「ああ。たぶん、飲んだやつだ。」
二人で顔を見合わせ、思わず小さく笑ってしまう。
「面白いね。」
「不思議だけど、悪くない。」
カップを置くと、また別のところでピルルル⋯と鳴る。
「……もう一杯、いくか?」
「うん。今度は、どんな声がするのか楽しみ。」
そう言って、私は再びポットに手を伸ばした。
タイトルが考えつきませんでした。
なんの国にしよう。。。
いいのが思いついたら変更します。




