35.1/25 アフタヌーンティー
今日はとうとう、アフタヌーンティーにお呼ばれする日だ。
昨日の夜からずっと落ち着かなくて、何回も練習した。
そして今、午後早めに仕事を終わらせた私は、自分の部屋で最後の仕上げをしている。
『時⋯永⋯武⋯寿⋯』
筆ペンをゆっくり走らせる。
練習を重ねてきたはずなのに、今日だけは手のひらに汗が滲む。
うーん⋯「永」って、なんでこんなに漢字の基本セット全部入りみたいな形してるんだろう。
払いに点に、折れに、はねに──これ詰め合わせ過ぎじゃない?
そして極めつけは寿。
この字、画数多すぎて、この筆ペンで書くと毎回、押し寿司みたいにぎゅうぎゅう詰めになるんだよね⋯⋯。
『お習字の先生から赤筆で『もっと余白を意識して!』って絶対言われるやつだよこれ⋯』
ぶつぶつ言いながらも、今さら直てくれる相手はいないし、どうにか整って見えるように祈りながら書くしかないというのが現実。
続けてもう一つ。
『笑⋯美⋯理⋯』
書いて、思わず声が出た。
『うわ、『美』めっちゃ上手く書けた!!』
自画自賛と言われても構わない。
今日一の奇跡レベルで理想通りの「美」が出たのだ。
筆の入りも払いも完璧。
本番でこの「美」が再現できたら、惚れ惚れするのに!
でも私の悪い癖で、払いが長くなりがちなんだよな。
気をつけなきゃ。
扇に名前を書くために、ジェイムズさんから扇を預かって──エミリーさんの分はすでに手元にあるし──部屋で集中して書くという安全策も正直考えた。
完璧な状態で渡したい気持ちは当然ある。
でも。
『でもさ、目の前で書いてくれる、っていうパフォーマンスも含めて楽しみにしてるかもしれないし⋯⋯』
勝ったのは、ほんのわずかの勇気だった。
いや、もしかしたら見栄かもしれない。
「書けますよ」って余裕ぶりたいだけかもしれない。
ともかく、私はその場で書く覚悟を決めたのだ。
──決めたはず、なのに。
『⋯⋯やっぱり緊張する〜〜〜!!』
ベッドに顔を埋めてバタバタ足を蹴る。
あ、筆ペンは丁寧に机の上へ避難させてから。
せっかくお呼ばれしたアフタヌーンティー、楽しくいたいのに、その前に心臓がもたない気がする。
でも扇に名前を書く瞬間だけは、格好つけたい。
そう思いながら、私はもう一度紙を取り、深呼吸をした。
約束の時間が近づき、私は緊張を抱えたまま部屋を出た。
筆ペンと扇を入れたのをもう一度確認する。
階段を上がり、教えてもらっていた2人の部屋へ向かった。
『えっと、このあたりのはず⋯』
と、廊下を進んだところで、不意に「場違いなもの」が現れた。
透明なガラス扉。
そして、その前にはクルーが一人、まるでホテルのエントランスのように姿勢よく立っていた。
『えっ、ここ……本当に客室の階だよね?』
混乱しつつ近づくと、そのクルーが微笑みながら声をかけてくる。
「カードキーはお持ちですか?」
「え、あ、いえ……その……」
突然のチェックに思わずドギマギしてしまう。
まさか客室フロアの途中に関係者エリアみたいな区画があるなんて聞いてない。
慌ててジェイムズさんの名前と部屋番号、そして約束の旨を伝える。
「承っております。では、どうぞ。足元にお気をつけて。」
きびきびとした所作でガラス扉が静かに開いた。
「……あ、ありがとうございます……」
完全にVIP扱いでは? と内心パニックになりながらも、私は頭を下げて進む。
扉の向こうは、先ほどまでの廊下よりさらに静かで、空調の音すら控えめだった。
絨毯もふかふかで、歩くたびに靴底が沈み込む。
高級ホテルのスイート専用フロア、と言われても違和感がないレベル。
『な、なにここ……本当に一般客乗れる場所……?』
腹の底がふわりと浮くような緊張に包まれながら、言われていた方向へ歩いていく。
緊張が高まったまま扉の前にたどり着き、そっとノックした。
中から現れたのは、見覚えのないスーツ姿の女性だった。
年齢は30代前半くらいだろうか。長い髪をきっちり結い上げ、胸元には船の紋章が入ったブローチ。
まるで政治家の秘書か、高級ホテルのコンシェルジュのように隙のない佇まい。
──え、誰?
言葉には出さなかったが、顔に「?」が浮かんだのは自覚している。
そんな私の動揺を見透かしたように、奥から明るい声が響いた。
「まぁ、サクラさん! お待ちしていたわ!」
弾んだ声の主、エミリーさんがひょいっと姿を見せ、手を振ってくれる。
その瞬間、ようやく部屋の間違いではないと理解した。
スーツの女性はにこやかに微笑んで、すっと横に避け、扉を支えた。
「どうぞ」と、言葉よりも先に仕草で促される。
猛烈に「ここに入っていいの私!?」というプレッシャーを感じながら、反射的にお辞儀をして足を踏み入れる。
「こんにちは……失礼します……。」
一歩入った瞬間、思わず息をのんだ。
目の前いっぱいに広がるのは、海。
窓というより壁一面がガラスといった方が正しい。
青い光が部屋の奥まで射し込んで、床の影すらゆらゆら揺れている。
天井は吹き抜けで、普通の客室の倍以上はある。
そこから下がるシャンデリアは、美術館の展示物のように繊細で、光を受けるたび水滴のようにきらめいた。
さらに視線を移すと、左手には本格的なバーカウンター。
奥にはふかふかそうな巨大ソファのリビングエリア。
右側には、ホテルのレストランみたいなダイニングスペースまで。
そして極めつけは、部屋の中に「階段」があることだった。
……え、これ、二階建てのスイート……?
完全に目が点になる。
この1階部分だけで、私の客室がいくつはいることやら。
VIPルームなんて軽い言葉に思えるほどの、圧倒的な高級空間がそこにはあった。
自分の靴が高級絨毯に触れるたび、「ごめんなさい……私ごときが……」みたいな申し訳なさがこみ上げる。
そんな私に、エミリーさんが屈託ない笑顔で手を振った。
「こっちよ、サクラさん! 緊張しないで、ゆっくりでいいから!」
いや、無理だよ……この状況で緊張しない方がどうかしてる……。
私はバッグをぎゅっと握りしめ、ぎこちない足取りで奥へと進んだ。
エミリーさんに案内されてダイニングスペースへ進むと、そこにはすでに三段のティースタンドが置かれ、色とりどりのスイーツとサンドイッチが品よく並べられていた。銀色のティーポットからは、ほのかに紅茶の香りが漂っていて、もう「始まってしまっている」空気がある。
……ああ、先に扇を書いてしまいたかったのに。
胸の奥でため息が渦巻くけれど、用意された席に座らないわけにもいかない。
「サクラさん、どうぞ。今日はゆっくり楽しんで行ってね」と、エミリーさんがいつもの柔らかな笑みで、椅子を引いてくれた。
「ありがとうございます。あの……すみません、マナーとか全然わからなくて……もし失礼があったら本当に申し訳ないです。」
口に出した瞬間、情けないくらいの本音だった。
軽くマナーは調べてきたけど、こんな格式高い場所で、そんなものが通じるとは思えない。
日本のお気軽なアフタヌーンティーとはもはや別世界。
ジェイムズさんは、いつもより少し砕けた笑みで私を見る。
「気にしなくていいですよ、サクラさん。今日はリラックスして楽しんで。形式なんて、僕らは全然気にしない。好きに食べて、好きに話せばいいんです。」
その言い方がとても自然で、肩の力がすっと抜ける。
向かいの席では、スーツの女性──先ほど扉を開けてくれた人、「クルーズの専属コンシェルジュ」らしい──が、きれいな姿勢でお茶を注いでくれていた。動きが静かで、無駄がなくて、まるでドラマのワンシーンのようだ。
私は差し出されたティーカップを両手で受け取り、勧められるまま音を立てないようにそっと一口。
ほんのり甘く、ふわっと香りが広がる。
「……おいしいです。」
思わず本音が漏れると、エミリーさんが嬉しそうに目を細めた。
「でしょう? 私のお気に入りの茶葉なの。」
そんな会話をしながら、テーブルに改めて目をやる。
銀の三段スタンドが、まるで宝石を飾る台座のようにきらきらしている。
その上に並ぶスイーツやフィンガーフードは、どれも小ぶりで上品なのに、ひとつひとつが「どうだ」と主張してくる存在感を持っていた。
コンシェルジュさんの説明によれば。
一番上の段には、グラスに入ったローズゼリーと、薄く伸ばしたチョコレートでリボンを作ったケーキ。
中段には、スコーンとクロテッドクリーム、そしてレモンカード。
下段には、海老とアボカド、スモークサーモン、ミニトマトとモッツァレラのサンドイッチが並んでいる。
「まずは、好きなものからどうぞ」とエミリーさん。
好きなもの……といっても、この中に「好きじゃないもの」なんてあるんだろうか。
一番下の段からだったかな、とマナーを頭で反復して一瞬手が止まっていると、隣でジェイムズさんが中段から取ったスコーンをフォークで割り、クロテッドクリームを乗せて口に運ぶ。
その自然な動作に、本当にマナーは気にしてなくていいんだと私もようやく動ける気がした。
スコーンをひとつ皿に取り、そっと割ると、ほわりと温かい湯気が立った。
「……焼きたて?」
「えぇ、船のキッチンで出す直前に温めてくれているの」
エミリーさんが笑顔で答える。
クロテッドクリームをたっぷり塗り、レモンカードを少しだけ添える。
そして思い切って口に運ぶ。
──え、なにこれ。
おいしいを通り越して、しばらく言葉が出なかった。
外はさっくり、中はふわっと。
クロテッドクリームは重すぎず、レモンカードの酸味と合わさってちょうどいい。
「サクラさん、好きそうだと思ってた」とエミリーさんがにっこり。
「わかりました? すごい……」
そこから少し心が解けて、下段のサンドイッチに手を伸ばす。
一口サイズなのに、具材のバランスが完璧。
海老とアボカドの組み合わせなんて万人受けもいいはずなのに、なぜかプロの味がする。
「これ……おいしすぎません?」
ジェイムズさんが笑いながら言う。
「気に入ってもらえて嬉しいよ。僕の手作りだから。」
「えっ」
「冗談ですよ。」
さらりと言われすぎてちょっと本気にしかけたけど、ふふふと笑って受け止めた。
その間にもコンシェルジュの女性が、静かに紅茶を継いでくれる。
湯気が立つたび、紅茶の香りがふわりと広がり、緊張した心をもみほぐしていくようだ。
「あ、これもぜひ食べてみて。」
エミリーさんが上段のゼリーを指さす。
淡いピンク色で、光に透かされて宝石のよう。
スプーンですくって口へ運ぶと──
「……お花……?」
「ローズウォーターよ。苦手じゃなかった?」
「全然……むしろ好きです……」
とろりと甘いのに、後味にふわっと花の香りが残る。
日常には絶対出てこない味だ。
「うれしいわ。これ、女性のお客様に一番人気なの。」
エミリーさんがおしゃべりしながらティーカップを持ち上げ、上品に口をつける。
その姿だけでも絵になる。
ふとガラス窓の外を見ると、海がきらきら揺れ、紅茶の香りと混ざって、まるで映画のワンシーンに入り込んだような気分になる。
……だけど。
心の奥に、言いようのないソワソワが残っている。
だって、このあと書く本番が控えているのだ。
手は食事を楽しんでいるのに、心だけはまだ筆ペンを握っているような気持ちだった。
アフタヌーンティーの余韻が残る中、紅茶のカップをそっと置いたエミリーさんが、柔らかく微笑んだ。
「……じゃあ、いよいよね?」
その一言で、胸がどくんと跳ねる。
さっきまでスコーンで満たされていた胃のあたりが、急にきゅっと縮むような感覚。
ジェイムズさんは立ち上がり、「ちょっと待ってて」と言って部屋の奥へと消えた。
数秒後、手にして戻ってきたのは、白地に淡い金色の波模様が入った、私が選んだ扇子だった。
「これが僕の扇。書く場所はお任せしていいかな?」
その声音は穏やかだけれど、どこか少し期待しているようにも聞こえた。
私はバッグから扇袋を取り出し、中から扇を取り出した。
「エミリーさんのはこちらでどうでしょう?」
桜柄の全体的に春めいた扇を広げてみせた。
先ほどいただいたアフタヌーンティーに比べ、100均の袋付き500円の扇では確実に釣り合いが取れないけど、持ってきた扇はこれしかないのだから仕方がない。
「まぁぁ! 日本の桜ね? 可愛らしいわ!」
心配をよそに、エミリーさんはとりあえず気に入ってくださったみたいだ。
手に取った扇を閉じてみたり広げてみたり、扇いでみたり。
しばらくして満足そうに頷いたあと、私にもう一度差し出した。
「これに私の名前が入るのね。きっと素敵だわ!」
ジェイムズさんがリビングテーブル上に白い布を敷き広げてくれた。
その上に、筆ペンが静かに置かれる。
いよいよだ。
私は深呼吸をひとつして、ふかふかの絨毯に正座で座り、扇を広げた。
さっきまで紅茶を注いでいた秘書の女性も、少し下がった位置で見守ってくれている。
あ〜……急に本番っぽい……!
手のひらが少し汗ばんでいた。
「サクラさん、リラックスしていいわよ。演奏を聴くみたいに、ただ楽しませてもらうだけだから」
エミリーさんの声は優しくて、少し笑っている。
でも、この視線が集まっている感じがますます心臓を刺激する。
筆ペンのキャップを外し、試し書きはすでに自室で済ませている。
一度空書きをしてから、息を整えて──
「……では、書きますね。」
まずはジェイムズさんの扇。
紙の質を確かめるように、そっと筆先を置く。
「時──」
ゆっくり、ゆっくり。
「永──」
練習のときより、少し線が滲む。
でも、それを味として受け止めようと自分に言い聞かせる。
「武──」
曲線を伸ばしすぎないように注意しながら払いを入れる。
「寿」
最後の字を閉じた瞬間、わずかにインクの香りが立つ。
「……できました。」
顔を上げると、2人の表情が、まるで作品を鑑賞するようにゆっくりとほころんだ。
「素敵だよ。力強くて、丁寧な字だ」
ジェイムズさんが柔らかく言う。
「ほんとうに綺麗。書いてくださってありがとう」
エミリーさんの瞳がきらきらしていて、胸の奥がじんとした。
続いて、プレゼントしたエミリーさんの扇に「笑美理」と書く。
こちらは筆先がさっきよりも滑らかに動いた。
「笑」は軽やかに。
「美」は今日一番の出来。
「理」は深く、まっすぐ。
書き終えたときには、胸の緊張がふっとほどけていた。
2人が手にとって、そっと文字をなぞる。
それを見ているだけで、なんだか誇らしいような、こそばゆいような気持ちになる。
「サクラさん、これは……宝物にするわ!」
エミリーさんが優しく扇を閉じる。
「本当にありがとう。」
ジェイムズさんのその言葉のあたたかさが、ゆっくりと胸の奥に染み込んでいった。




