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34. 1/24 水の都②

ゴンドラがゆっくりと止まり、ウンディーネさんの手をまた借りながら私たちは降りた。

真上に登りつつある日ざしがさらに強くなり、水面が白くきらめいていた。

観光エリアの広場は程よい人の多さで、露店の屋根がつくる影が心地よい。


「そろそろお腹空かない?」とマリナが言った瞬間、ウィリアムのお腹が盛大に鳴った。


「……聞かなかったことにしてくれ。」

「いや聞いたし。」


バイロンが肩を揺らして笑う。

私たちはウンディーネさんに礼を告げてから、案内表示に従い、すぐ近くの水辺レストランに入ることにした。



テラス席に案内されると、眩しいほどの陽光と、運河を渡ってくるひんやりした水の風が同時に頬を撫でた。

光が水に反射してきらきらと揺れ、どこを見ても絵画の中に迷い込んだようだった。

下の水面には、別のゴンドラが音もなく滑っていき、船頭の歌声がかすかに風に溶けて届く。


テーブルに置かれたクロスは淡いブルーで、光を受けて海のように見える。

席についた瞬間、ふわりと香りが鼻をくすぐった。

レモンの爽やかさ、刻んだハーブの青い香り、そして海獣の脂がこんがり焼ける、濃厚な旨味の匂い。


「おぉ、うまそう……。」


セルヒオがすでに視線だけで料理を食べている。

ワクワクとメニューを開いてみるけれど、現地語で書かれた料理名に、セルマー公用語で一行だけ説明が添えてあるだけ。

説明自体もざっくりしていて、


『薄く切った海獣』

『炒めた海獣』


……みたいな感じで、正直なんのことやらよくわからない。


「セネシャルティはリバイアサンとクラーケンが有名だから、それが食いたい。」


バイロンが腕を組んで、当然のように言った。


「出た、クラーケン!」


マリナが複雑そうな顔をした。


「え、なんで『出た』? ⋯もしかしてたこに似てるから?」

「もしかしなくてもそうよ。」

「おいしいってばたこ! たぶんクラーケンも!」


私はマリナとそんな不毛なやり取りをしつつ、メニューを指で追いながら探していると、それらしい名前を見つけた。


「……あった! えっと、『切ったクラーケン』と……『揚げたリバイアサン』だって。」


私が読み上げると、アマンディーヌが目を輝かせた。


「カルパッチョとフライみたいなものかしら? 絶対おいしいわよ、これ!」


対照的にマリナは悩むように顔を歪ませた。


「うーん。クラーケン⋯クラーケンかぁ⋯。ウィリアムは挑戦する?」

「うーん。そうだね。せっかくセルマーまで来たんだし。」

「そっかぁ。よし! 私も挑戦する!」


マリナがメニューの端を指さした。


結局、全員一致で「切ったクラーケン」と「揚げたリバイアサン」を注文することにした。


注文を終えると、テラスに吹き込む風がふたたびゆるく揺れて、柑橘と塩の匂いを運んできた。

運河の向こうからは子どもたちの笑い声が響く。


「……なんか、幸せじゃない?」


私がつぶやくと、セルヒオが頷く。


「うん。食べる前からもう幸せだよな。」


そんな会話をしているとテラスの奥から、木のトレーを抱えた店員さんが姿を現した。

その瞬間、私たちのテーブルは一斉に静まり返る。

料理が近づいてくるたびに、レモンとハーブの香りが濃くなっていく。


「お待たせしました。」


テーブルに置かれた皿を見た瞬間、全員が「おぉ……!」と低く声を漏らした。


ちょっと後悔しそうなくらいの量で、クラーケンのカルパッチョみたいな刺身とリバイアサンのフィッシュアンドチップスみたいな揚げ物が運ばれてきた。


大皿いっぱいに、薄く透けるほどにスライスされたクラーケンの身が、花びらのように円形に並んでいる。

色は白っぽい縁から中心に向かって透明に近い。

表面にはレモン果汁とオイルがつやりと光り、細かく刻まれた水草ハーブが散らされていた。


「見た目は完全にカルパッチョだね……」


マリナが息を呑む。


「原型がわからないから、食べやすくていいね。」


ウィリアムがフォークで一枚すくうと、ぷるんと揺れた。


私も恐る恐る口に入れる。


――とろっ。


噛む前に、舌の上でやさしくとろけていく。

味はイカともタコとも違う。

もっと淡くて、でも深い旨味がしゅわっと広がる。


その後から、レモンの酸味と水草ハーブの清涼感が鼻に抜けた。


「……うまっ!」


気づいたら声が漏れていた。


「これは……地球で売ってたらたぶん高いわよ……。」


アマンディーヌはすでに二口目を運んでいる。


続いて目に飛び込んできたのは、迫力満点の黄金色。

お皿からはみ出す大きなリバイアサンの切り身に、厚めの衣がさっくり揚げられている。

衣の隙間から、白くほぐれそうな身がちらりとのぞいていた。


添えてあるポテトは山盛り。

お店特製らしく、表面がカリッとしていてハーブソルトがたっぷりかかっている。


「これはもう……うまいってわかる匂い。」


セルヒオが前のめりだ。


レモンをぎゅっと搾り、ナイフを刺すとふわりと湯気が上がるのがまた食欲をそそる。

少し大きめに切れてしまったそれに、思い切ってかぶりついた。


――サクッじゅわっ。


衣が砕ける音と同時に、ものすごく濃い旨味が舌の上に流れ込んできた。


「なにこれ……大トロ?」


思わずそう呟いてしまう。


「ガイドブックに載ってた。リバイアサンは、身が油を蓄えるんだ。寒冷海域に棲んでる種はとくに脂がのってるんだと。」


豪快にかぶりつきながら、バイロンが嬉しそうに解説する。

ポテトも、ホクホクで香ばしくて、衣の旨味を吸った魚と一緒に食べると天国だった。


「……なんか、私たちいま最高の時間を過ごしてない?」


私がぽつりと言うと、

「当たり前よ。大旅行中に、綺麗な歌声聴きながら冒険して、気の合う友達と美味しいもの食べてるのよ?」

アマンディーヌがさらっと言う。


「だねー。これ以上の幸せ、ある?」


マリナが笑う。


「幸せは、感じた者勝ちだよ。」


ウィリアムが優しく言った。


青い空の下、運河の風に吹かれながら、私たちはしばらく夢心地で料理を楽しんだ。



「食べ過ぎた…まだ体重全然戻ってないのに…うぅ……。」


私はひとり椅子の背にもたれ、胃のあたりを押さえて呻いていた。

結局、多すぎて途中でギブアップしたマリナとアマンディーヌとは違い、「出されたら残せない」という謎の意地が発動してしまった私は、皿を空にしたのち、こうして動けなくなっている。


みんなが椅子を引いて立ち上がる。満足そうな、でも少し重たそうなため息が混じっている。

それでも、表情は全員どこか明るかった。


「ね、ごめん。ここから別行動でいい?」


ウィリアムと自然に手をつないだマリナが、少し頬を赤くしてこちらを見る。


「もちろんいいわよ。楽しんでね!」


アマンディーヌが柔らかく笑うと、マリナは安心したように何度も頷いた。


2人が運河沿いの通りへ歩いていくのを見送って、残された私たち4人は顔を見合わせた。


「さて、どこ行く?」


バイロンが伸びをしながら言う。


「俺はまだ食べられるぞ。さっきのリバイアサン、もっと量あってもよかったくらいだし」

「聞いてるだけで胃が苦しい……。」


私はテーブルに突っ伏しそうになりながら呻いた。

正直、このままでは歩ける気もしない。別行動をお願いしようか、どうしようか。


「ね、アマン──」


別行動に誘おうと声をかけようとした瞬間、すぐ横から軽い声が割り込んだ。


「じゃあ、サクラは俺と街歩きでもするか?」


顔を上げると、セルヒオがこちらを見下ろしていた。

陽光を背にしているせいか表情は少し陰って見えるが、その声は妙に優しい。


「もう食べられないだろう?」

「あ、うっ……食べられそうにはないね……」


セルヒオは小さく肩をすくめた。


「じゃ、歩こう。腹ごなしになるし、ゆっくりでいい。」


その言い方が自然すぎて、むしろ断りづらい。

私はアマンディーヌを見るが、彼女はにっこり笑って「いってらっしゃい」と軽やかに手を振るだけだった。


バイロンはと言えば「じゃあ俺らは、なんか甘いもんでも探すかー!」とアマンディーヌを巻き込み、さっさと店の通りへ向かっていく。


胃の重さとは別の意味で胸がざわつきながら、私はセルヒオの後を追った。


セルヒオと並んで歩き始めると、昼下がりの街はどこまでも穏やかだった。

建物同士の隙間から吹き抜ける水の匂いを含んだ風が、さっきまでの胃の重さを少しずつ薄めていく。


「地図、見なくていいの?」


私は念のためポケットから折りたたんだ観光用の案内図を取り出す。

セルヒオはチラッと視線をよこし、「見たらつまんねぇだろ? せっかくの街なんだから迷って歩いた方が楽しい。」と笑った。

まるで子どもみたいに軽い言い方なのに、どこか妙に説得力がある。


「……迷って帰れなくなったら?」

「そのときはそのとき。誰かに聞けばいいだろ。ここ、治安いいし。」


そんな無責任な、と思いながらも、不思議と不安にはならなかった。

むしろ、地図に縛られずに歩けることが心地よく感じられる。

気がつけば私は、折りたたんだ地図をバッグに戻していた。



狭い路地を曲がるたびに、景色は少しずつ変わる。

白壁と青い窓枠の建物が並ぶエリアを抜けると、次は水辺の市場につながり、魚介の匂いと賑やかな呼び声が耳に入ってくる。


「ほら、あの猫、ずっとこっち見てる。」


セルヒオが指をさす先、小さな階段の下で濡れた石畳に寝転ぶ白黒の猫が、じぃっとこちらを見ていた。


「…餌、期待されてる?」

「たぶん。けど何もない」

「クラーケンの残りも無いしね…」

「それ、袋に入れて持ち歩いてたら逆に怖いだろ。」


ふたりして笑い合う。


路地はくねくねとしていて、方向感覚を失うのはあっという間だった。


「ねえ、ここ……さっきも通らなかった?」

「いや、似てるだけだろ。」


適当な返事をしながらセルヒオはゆっくり先を歩いていく。

でも、私は気づいていた。

彼はわざと、似たような路地を選んで曲がっている。

迷子になりたくて、迷っている。


「……ほんとに帰れる?」

「帰ろうと思ったら帰れるって。今は別に帰りたいわけじゃないし。」


その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。


「サクラも、だろ?」


不意に振り返ったセルヒオの目が、まっすぐこちらに向けられる。


「え……」

「苦しいの治るまで、歩くの悪くないだろって思ってる。」


図星すぎて返事が詰まった。

セルヒオはそれ以上何も言わず、私の前を歩きながら、また知らない路地へと進んでいく。

静かな午後の陽光の中、ふたりの足音だけが石畳にやわらかく響いた。


そうやってぶらぶら歩いていると、運河沿いに伸びる細い道の先で、なにやら人だかりができていた。


「ん? なんかあった?」


私は背伸びしながら覗き込む。

その時だった。


ぽうっ。


小さな光の粒が、ふわりと空中に浮かび上がった。

最初はホタルみたいな可愛い光だったのに、次の瞬間。


ぱちぱちぱちぱちっ!


光は一気に増えて、私たちの周囲の空気がきらめき始めた。

まるで透明な雨が逆再生されるように、光の粒が下から上へと昇っていく。


「わぁ……!」


思わず立ち止まる。


「これ、なに……魔法?」


目を丸くしていると、突然、頭上から声がした。


「おーい! だれか、あれ抑えてくれないかー!!」


見ると、運河に面した小さなバルコニーで、まだ若い少年が両手をばたつかせていた。


「違うんだ! ちょっと風の魔法を練習してただけなのに、ウンディーネの気配に反応して水の精霊がうじゃっと出ちゃって! 泡が生まれすぎて制御できないんだ!!」


少年はほぼ泣きそうな声で叫んだ。

言われて周りを見ると、確かに光の粒はよく見ると水玉で、キラキラと輝いている。

素手で触れれば、ぱちんとはじけて小さな波紋だけ残して消える。


「シャボン玉みたいだなぁ。」


セルヒオが何個か触って遊んでいる。

私は肩を叩いた。


「ちょっと、あんまり触っちゃだめだよ。何が起きるかわかんないし。」


その瞬間、


ぷちん。


セルヒオが弾いた泡のひとつが、違う泡とぶつかった。

すると、連鎖反応のように光の粒が一斉に大きく膨らんで――


どんっ!


柔らかい衝撃波のような風が街路に走り、私たちの髪と服をふわっと持ち上げた。


「うわっ!?」

「おおっ!?」


吹っ飛ぶほどではないが、まるで大きな水風船が弾けたような風圧だ。

光の粒はその衝撃で一気に散り、跡形もなく消えてしまった。


バルコニーの少年は、ほっと息をついたあと、深々と頭を下げる。


「ご、ごめんなさーい! 本当にごめんなさーい!! けがはないですか? 大丈夫? いやぁ……今日は師匠に死ぬほど怒られる……!」


私は苦笑しながら手を振った。


「大丈夫だよー! 楽しいハプニングだった!」


セルヒオは未だにちょっと興奮した様子だ。


「今の、意外と気持ちよかったな……風の魔法ってあんななんだな。」


私は胸に手を当てて、小さく息を吐いた。

危険というほどではなかったけど、初めて体験する魔法の暴発は、ちょっと心臓に悪い。

通りに笑い声が戻り、私たちは再び歩き始めた。



「地球のベネチアでは、全ての道に名前がついてるんだよ。小道は『カッレ』、広場は『カンポ』、運河が⋯えーっと『リオ』だったかな?」


私が思い出しながら言うと、セルヒオは軽く眉を上げた。


「へぇえ? そんな細かく全部?」

「うん。道の一本一本に名前があって、迷っても地図さえあれば戻れるって感じ。」

「なるほどな。じゃあ――」


セルヒオはくるりと周囲を見回した。

陽に照らされた白壁、水面に反射するゆらめいた光、石畳を走る小さな水路。

どれも見慣れてきたはずなのに、改めて見るとどこか新鮮だ。


「ちょっと早いがそろそろ帰る時間だし、今度は名前をつけながら、迷わないように歩いてみるか。」


「名前、私たちが勝手につけるの?」

「そう。地図ないんだから、地図を作る代わりってことで。」


肩をすくめて笑うセルヒオ。

その顔が妙に楽しそうで、思わず私も笑ってしまう。


「とりあえず、この細い路地は……『猫のカッレ』とか?」


セルヒオは茶色い猫が寝ているのを指差した。


「戻っても猫いるかわかんないじゃん。覚えられないよ。」


私は吹き出した。

セルヒオはそれに笑い返し、気にした様子もなく、歩き出しながら続けた。


「じゃあ、次はあの路地。サクラがお手本どうぞ。」

「え、えーっとじゃあ、あそこに赤い布がぶら下がってるから『赤布のカッレ』で」

「ネーミングが単純すぎる!」

「覚えやすさが大事でしょう?」


言葉を交わしながら、ふたりで道に名前をつけていく。


『猫のカッレ』

『赤布のカッレ』

『魚屋カンポ』

『風の抜けるリオ』


セルヒオのつける道は何の手がかりもない名前ばかりで、だんだん面白くなってきた。

ずっと続けばいいと思うほど楽しかったけれど、思ったより街は複雑で、そろそろ本当に戻らないと行けない時間になってしまった。

仕方なく地図を開き、近くの人に現在地を聞こうとしたらセルヒオが地図を覗き込んで1点を指差した。


「今はたぶんここだな。なかなか東に向かえないと思ってたけど、行き止まりばかりだな。」

「え!? どこかわかるの?」

「そりゃあ大体はな。」


行き止まりだの回り道だのばかりで、方向感覚に自信のあった私でも現在地はわからくなっていた。


「これも風の流れ?」


守りの国を思い出して聞いてみると、セルヒオはふっと笑った。


「いや、これだけ吹きっさらしで風読むも何もないだろ。ただの方向感覚だよ。」

「そりゃあ、そうか。私ももっと頑張ろ。」


「頑張ってどうにかなるものなのか?」と笑うセルヒオの先導で、私たちは無事に時間内に船へと戻ることができた。






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