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34.1/23 水の都①

「本船は、現地時刻9時に予定通りセネシャルティへ下船開始予定です。下船されるお客様は、必ず現地時刻午後4時までに船にお戻りください。」



セネシャルティの柔らかな太陽は水面を白く染め、細い運河を吹き抜ける風がほのかに海の匂いを運んでくる。

セルマーのベネチアと呼ばれるに相応しい、石畳と運河の混じり合った街は心躍る。

観光客のざわめきと、ゴンドラ漕ぎの船頭が響かせる歌声が混ざり合う中、私たちは船着き場の列に並んでいた。


アマンディーヌは腕を組み、じっと水面を見つめながら「セネシャルティって、本当に絵になるわね」とため息を漏らす。

マリナはというと、太陽の光を反射する水を指でさして「見て見て、キラキラしてる! 絶対写真撮る!」とスマホを構えてはしゃいでいる。


ウィリアムは後ろからその様子を見て、苦笑しながらもマリナのバッグが落ちないようさりげなく支えている。

バイロンは船着き場のロープをじっと眺め、「この係留の仕組み、面白いな」とぼそっとつぶやき、セルヒオが「紐が面白い⋯?」と同じように覗き込んだ。


そして私はというと、賑やかなみんなを眺めながら「こんなに騒がしいのに、なんでこんなに心地いいんだろ」とひっそりと思った。


列は少しずつ前へ進み、目の前には黒く艶やかなゴンドラが揺れている。

船頭の水の精霊(ウンディーネ)と呼ばれる女性は、しっかりした布地の、深いスリットの入った水色のワンピースに白いズボンを履いている。

制服なのか、みんな似たような格好だ。

髪型は比較的自由なのか様々だが、ショートカットの人はいないように見える。

そういう文化なのかもしれない。


通りすがりのカモメが一羽、低く鳴き声を上げて飛び去ると、アマンディーヌが「あれ絶対私のパン狙ってたわ」と文句を言い、バイロンが「いや狙われる前に食べただろ」と笑う。


陽気でちょっと騒がしい6人の列。

まるで修学旅行みたいで、私はふと頬が緩む。


次のゴンドラのウンディーネさんがこちらに手を上げた。


「次の6名、乗船できますよー!」


その声に、私たちは一斉に顔を上げ、ワクワクを胸にゴンドラへと歩き出した。


「どうぞ、足元に気をつけて。」


流暢な地球公用語を話すウンディーネさんから、すっと手を差し伸べられた。

豪奢な金髪をポニーテールにしたウンディーネさんの差し伸べた手は驚くほど温かく、ゆったりとした見かけからは意外なほどしっかりと力があった。


私たちは順にゴンドラへ乗り込んでいく。


マリナとウィリアムが一番前の席へ。仲良く肩が触れ、マリナはすでに目を輝かせている。

中央にはバイロンとセルヒオ。

バイロンは船の造りを観察するように指で縁をなぞり、セルヒオは「落ちんなよ?」と軽口を叩いている。

そして一番うしろに私とアマンディーヌ。アマンディーヌは優雅にスカートを整えてから腰掛け、私はその隣で揺れに合わせてそっと踏ん張った。


全員が席につくのを確認すると、ウンディーネさんは静かに胸に触れ、私たちに向けて柔らかく微笑んだ。


「では、出発します。」


そして彼女が最初の一音を放った瞬間、空気が変わった。


低く、深く、それでいてどこか水の奥深くから湧き上がるような歌声。

それはただの歌ではなかった。声の震えが、水面へ、船体へ、そしてゴンドラの底へと伝わり──

ぼうっとしている間に、ゴンドラはゆっくりと動き始めていた。


「すご……本当に歌だけで動いてるの?」


思わず私が呟くと、アマンディーヌも驚いたように笑みを浮かべて囁く。


「ウンディーネのゴンドラは特別です。水の精霊の名を持つ船頭は、歌によって精霊に力を分け与え、旋律で水を操ると言われているのですよ。」


ウンディーネさんが優しく微笑み、解説してくれる。


前の席ではマリナがウィリアムの肩をちょんちょんとつつき、「ねぇ、ウィリアム……これ、魔法だよね?」と言っているのが聞こえた。

「……たぶん、そう。」とウィリアムは小さく笑い、手を握り返していた。


運河の水面が、ウンディーネさんの歌声に合わせてわずかに渦を描き、ゴンドラはするすると前へ進んでいく。

午前の光が水面を照らし、金色の粒がゆらゆらと反射している。


朝のセネシャルティは、絵葉書のような景色と、住民の日常が混ざり合った不思議な光景を作り出していた。

石造りの建物は柔らかい光に包まれ、洗濯物を干す住民たちの姿や、窓辺で猫が日向ぼっこをしている様子まで見える。

橋の上から観光客が手を振り、こちらも自然と笑って振り返した。


ウンディーネさんの歌声は、そんな穏やかな景色に溶け込むように軽やかな調子へ変わる。

明るいリズムに合わせて、水面がふわりと波打ち、ゴンドラが自然と速度を上げた。


「気持ちいい〜〜〜!」


一番前のマリナが両腕を広げて叫ぶ。

彼女の髪が風にふわっと持ち上がり、ウィリアムは危なっかしそうにしながらも、その肩をそっと支えていた。


バイロンは陽光を反射する水面を眺めながら、「絵の具にしたい色だな……」なんて呟き、セルヒオは「どこでも絵になるな」と周囲を撮りまくっている。


私とアマンディーヌの席にも、風が気持ちよく流れ込んだ。


水が船の底をゆっくり撫でる静かな音。

普通のゴンドラ乗りが鳴らす(かい)のコーンという木の音。

そして、ウンディーネさんの透明な歌声。


一体どれが主役で、どれが背景なのか分からなくなるほど調和していて、思わず深呼吸したくなる。


「こんなに気持ちいいなら、朝早起きして正解だったね。」

私が呟くと、アマンディーヌは目を細めてうっとりと頷く。


「ええ……。昨日のお酒が残っていたけれど、なんか全部流れてった気がするわ。」


思わず笑ってしまったけれど、その言葉通り、心も体も軽い。

水の街の朝は、想像以上に爽やかで、魔法じみていて、どこか優しかった。


ゴンドラは曲がり角を抜け、さらに大きな運河へ出ていく。

白い光が一気に視界へ広がっていく。


あちらこちらへ街を解説されながら回った後、大きな運河へ出たところで、ウンディーネさんの歌声が一段と伸びやかになった。

すると、前方の水面に淡く光の筋が円形に広がり、水が吸い込まれるように沈んでいく。


「え……なに? あれ。」


マリナが前のめりになる。


「あれが水上エレベーターか?」


セルヒオが目を細めて確認すると、バイロンも身を乗り出して「おお……ガイドブックに載ってはいたが」と興奮を隠せない。


私もアマンディーヌも、初めて見る光景に思わず息を呑んだ。

水面が円形に沈み、そこだけ水の底が抜けているように見える。


ウンディーネさんは振り返り、にっこり微笑む。


「皆様お待ちかねでしょう。ここから下層へ降ります。揺れませんのでご安心ください。」


全員が一斉に姿勢を正した。

ゴンドラは光に縁取られた円へとすべるように進み、そのまま、沈むように音もなく下降を始めた。

なんだか怖くなってゴンドラの縁を握る。


水が船体を叩かない。

揺れもしない。

ただ、周囲の景色だけがすっと上へ遠ざかっていく。


「……エレベーターっていうより、舞台装置みたいだな。」


ウィリアムがぽつりと呟いた。


「水に乗ってる感じがしないわね。空気中を落ちてるみたい。」


アマンディーヌも息を呑む。


下降と同時に、周囲の水が淡く光り始め、透き通った青の揺らぎが顔や腕を照らす。

まるで、水の精霊たちが私たちを歓迎しているみたいだった。


しばらくして下降が止まる。

下層の水路が現れ、そこは上層よりも静かで、ひんやりと涼しい空気が流れていた。

水が不自然にトンネルを作り、透明な板で区切られたかのように堰き止められている。

ふよふよと水の揺れは感じられるのに、トンネルは閉じられる様子はない。


ゴンドラが完全に止まると、ウンディーネさんの歌声がまた柔らかく響き始めた。

自然と船が前へ滑り出す。


「すごい……これがセネシャルティの水中都市⋯⋯!」


私は思わず声を漏らす。


「本当に水が溢れたりしてこないのかしら?」

「アマンディーヌ、考えないようにしてるんだから怖いこと言わないで⋯!」


アマンディーヌが小さく笑った。


ゴンドラがゆっくりと水中都市を進んでいく。

上層よりも水面が静かなせいか、船底をすべる水の音がほとんどしない。

歌声と、時おりこぼれる水滴が落ちる音だけが響く。


「ここ……ちょっと涼しいね。」


私が呟くと、アマンディーヌが腕をさすりながら笑った。


「上の太陽が嘘みたいだわ。湿気はあるのに、ひんやりしてて気持ちいい。」


左右には細い分岐水路がいくつも伸びていて、どれくらい水深があるのかその奥はほとんど暗闇だ。

けれど、ウンディーネさんが音階を少し変える度に、迷いなく船首が進む道へ方向を変え、行く先だけはほのかな光に包まれている。


「これ、迷子にならないのかな?」

「マリナまで怖いこと言う!」


私たちの言葉に、ウンディーネさんが少し笑う。


「迷子にはなりますよ。」

「「え!?」」


私以外にも誰かの驚いた声が重なった。


「ウンディーネはこの水中都市を巡れるようになって一人前となります。それまでは、精霊の機嫌を損ねて、何度も何度も入り口に送り返されるのです。」


「へぇ⋯」「なるほど⋯」と納得の声が上がる。


「水中都市から追い出されることはあっても、出られなくなったウンディーネは聞いたことがありませんのでご安心ください。」


ウンディーネさんが「ふふふ」と笑って、また歌声を響かせ始めた。

それに応えるように、水の表面に淡く光の模様が広がる。


ゴンドラが大きなアーチの下をくぐった瞬間、視界がぱっと開けた。


そこは、大きな空間だった。

天井のほとんどがステンドガラスのように透き通った水で、差し込んだ光が揺れ、青と緑と銀色が揺らめいている。


「なにここ……!」


思わず立ち上がりかけて、アマンディーヌに腕を引っ張られる。


「座って! 落ちるわよ!」

「ご、ごめん……でも、すごすぎて!」


巨大な空間の中央には、静かに回る水の柱。

その中には、ゆらゆらと泳ぐ小さな光の粒。


ウンディーネさんが説明するように何か歌うと、柱の光がふわりと増え、ゴンドラの周りをホタルのように漂いはじめた。


「きれい……」


胸の奥がじん、と温かくなる。

マリナもウィリアムも、さっきまでの会話を忘れてぽかんと口を開けている。

バイロンとセルヒオでさえ、何も言わず見惚れていた。


と、その時。


ゴンドラが自然と水の柱の周回軌道へ入り、ゆっくり旋回を始めた。

きらきらと光の粒がついてくる。

まるで歓迎の舞のように。


「これが……水中都市の中心か?」


セルヒオがつぶやくと、ウンディーネさんはにっこり微笑んだ。


「ここは水の都の『心臓』です。歓迎されていますよ」


心臓。

確かに、ここは脈打つみたいに光が巡っている。


ゴンドラがゆっくりと柱の外周を一周する。

静かで、幻想的で、時の流れまで緩やかになる。


そして、再び出口へ向けて、ゴンドラは滑り出した。


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