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32.1/21  妖精が宿るドレス

「本船は、現地時刻10時に予定通りデイレントへ下船開始予定です。下船されるお客様は、必ず現地時刻午後5時までに船にお戻りください。」




「おじゃまします⋯」


ガイドさんに連れられて辿り着いた先は、どう見ても、普通の民家だった。

レンガ造りの小さな家。窓辺には色とりどりの花が飾られ、木の扉には「ようこそ」と書かれた手作りの札がかかっている。

もっとこう……工房みたいな、糸や布が天井から吊るされているような場所を想像していたから、思わず拍子抜けしてしまった。


「こんにちは」とたどたどしいセルマー公用語迎えてくれたのは、私よりも年下のかわいらしい女性だった。

通されたリビングの中央には、大きな絨毯が敷かれている。

その上に、鮮やかな糸束とともに横長い一枚の布が丁寧に広げられていた。

目を奪われるとはまさにこのこと。


「わぁ……!」


誰かの感嘆が漏れたのを皮切りに、私たち全員が思わず声を上げた。

元は白い布地に、すでに多くの刺繍が施されている。

部屋の隅にはトルソーが置かれ、衣装を着せられるのを今か今かと待っているように見えた。



『〜〜〜〜』


家主の女性が柔らかく言葉をかけると、ガイドさんがすぐに通訳してくれた。


「『今日はありがとうございます』と言っています。」


その声に合わせるように、彼女が小さく頭を下げる。

私たちも慌てて同じように頭を下げ、「こちらこそ」と口々に返した。


促されるままに、リビングの中央──さっき見た美しい刺繍布の前へと進む。

絨毯の上にクッションが並べられていて、私たちはそこに腰を下ろすよう案内された。

珍しく靴を脱ぐよう言われると思っていたけれど、布を囲んで床に座り込むという光景に、なるほどと納得した。


「ここに座ってください」と笑顔で指し示され、私はエリザベスとマリナの間に座り、少しばかり背筋を伸ばした。

3人で並ぶと、自然と息がそろうような空気が流れる。

けれど、いま私の心臓は、どくどくと落ち着きなく跳ねていた。


このウエディングドレスに、自分の刺繍を入れるなんて。


まるで信じられなかった。

針仕事なんて、普段はボタンを付けるくらい。

それなのに、この真っ白で眩しいほどの布に一針でも加えるなんて、いいんだろうか。

私の拙い刺繍で、せっかくのドレスを台無しにしてしまわないだろうか。


説明を受けながら、目の前の布をじっと見つめる。

デイレントでは、結婚が決まるとウエディングドレスが作られる。

糸や布は花婿さんが準備して、上半身は花嫁さんが刺繍する。

下半身──スカートにあたる部分は身内や友人知人に頼んで、たくさんの刺繍をしてもらうのだそうだ。

白の布が見えないほどに刺繍してもらうと、妖精が宿って幸福な結婚生活につながるのだとか。

ということで、目の前のこれはドレスのスカート部分になるそうだ。

刺繍の場所は自由に選べるけれど、他の模様を邪魔しないように──とガイドさんが言う。

なら、ひだの重なりで目立たない部分か、裾の一番下の方がいいかな。

そっと手で布をなでて、糸が通る感触を想像する。


横を見ると、マリナがぎこちない笑顔を浮かべていた。

「なんか緊張するね……」と小声で言うと、彼女はこくんと頷く。

その隣のエリザベスは、落ち着いた笑みで、「大丈夫よ。楽しんでやれば、きっと素敵になるわ」と微笑んでいた。

余裕の差はそのまんま刺繍の腕前の差だろう。


「2人は花を刺繍するといいわ。幸福を意味するの。私は年齢的に鳥かしらね。子宝に恵まれるように。金運に恵まれる木の実でもいいけれど⋯。」


エリザベスが民族学者らしく、穏やかな声で解説してくれる。

彼女の指先は布の模様をなぞりながら、花弁のひとつひとつに込められた意味を説明していく。


「蔦や葉っぱは繋がりを意味して、身内しか刺繍してはダメなのよ。気をつけてね。」


話し声がやわらかく流れる中で、刺繍枠が配られる。

木の輪をねじで締める音が、あちらこちらでパチン、キュッと鳴り響く。

その音のリズムが、部屋の空気を静かに引き締めていくようだった。


私の手元にも、枠が渡された。

どこにしようかと布を触ると思ったよりもしっかりとした厚手の布で、指先に少しだけ抵抗を感じる。

「端のほうにするのがいいかな……」と呟きながら、布の余白を確かめ、なるべく隅のほうに枠をはめる。

けれど枠の中に布がない部分ができると、そこがたゆんで刺しにくいらしい。

かといって、枠の縁ぎりぎりも針が通しにくい。

試行錯誤の末、結局思ったよりも目立つ位置に刺繍することになってしまった。


うわぁ……もっと隅でよかったのに。

心の中で小さくため息をつく。

せめて、ほんの小さな花にしよう。


ペンが一人ひとりに配られ、机の上に広げられた糸束の山から、好きな色を選ぶ声があちこちで弾む。

淡いピンク、深い赤、若草色、金糸のように光を返す黄色。どの糸も、宝石のように美しい。


アラクネの糸だというその刺繍糸は、まるで絹のようにつやつやしていて、指先で撫でるとすべすべとした感触があった。

一本つまみ上げて、そっと引っ張ってみる。今にもぷつんと切れてしまいそうなほど繊細で、光を浴びてほのかにきらめく。


「それ、見かけによらずすごく丈夫なのよ。むしろ指のほうが千切れるくらいにね」


エリザベスが軽く笑ってそう言うのを聞いて、私は慌てて手を離した。

絶対、引っ張らないようにしよう…。

心の中でしっかりと決意する。


牡丹とも薔薇ともとれる、豪奢で美しい花びらの刺繍のすぐ隣。

そこから羽ばたく鳥の翼の付け根あたりに、ほんのわずかな隙間を見つけた。

私はそこにペン先をそっと滑らせ、小さく桜の輪郭を描く。

他の人の作品と溶け合うように、あまり目立たないように。


けれど、刺繍教室のときのように自由に布をくるくる回すことはできない。

これは私の布ではなく、みんなで仕上げるひとつの作品だ。

隣で刺してる人の邪魔にならないよう、慎重に動かさなければならない。


「…ちょっと小さすぎたかも。」


針目を想像しながら見つめると、あまりに細かすぎて、針を通す場所がなさそうだった。

私は小さく息を吐き、ほんの少しだけ大きく描き直す。

桜の花弁がひと回り広がり、形がやっと整う。


私がそんなふうにちまちま作業している間に、隣の2人はもう糸を選び終え、すでに刺し始めていた。

チクチクと針が布を貫く小さな音が、静かな部屋にリズムを刻んでいる。

焦る気持ちに背中を押され、私も慌てて針を取り、糸を通した。


チクチク、チクチク。

針先が布を貫くたびに、わずかに光が跳ねる。

アラクネの糸は細いのに、糸目が並ぶたび、光を編み込んでいるような艶を見せた。


でも——自由に布を回せないというのは、こんなにも不便なものなのか。

小さな桜の花びらを縫うたび、微妙な角度を変えたいのに、布の端を持つ手は動かせない。

仕方なく体を傾けて覗き込み、針を進めるたびに首筋がぎしぎしと音を立てる気がした。


う、首が……!

視界の端で、同じようにマリナが小さく肩を回している。

どうやら私だけじゃないらしい。

反対側では、エリザベスが一定のリズムで針を動かし続けていた。

その速さたるや、目で追うのも難しいほどで、糸が風のように走っていく。


…さすが、慣れてる。

あまりに静かで、針の音と小さな息遣いだけが部屋を満たしている。

時折、誰かが手を止めて背伸びをし、「うぅ〜〜ん」と小さく唸る声が響く。

そのたびに、窓の外の風がカーテンを揺らし、草の匂いがほんのり入り込んできた。


気づけば、私の桜はまだ半分も咲いていない。

針目をひとつ進めるたび、花びらがようやく形を成していくが、全体で見れば、ほんの点に過ぎない。

隣でマリナの針も似たようなペースで進んでいて、時おり顔を見合わせて小さく笑い合った。

「同じくらいね」

「うん……でも、綺麗だよ。マリナの花。」


そんな穏やかな時間の中、ふと、ふわりと漂ってきた。

香ばしく、空腹を刺激する、たまらなくいい香りだった。

同時に、家の奥から鍋の蓋がカタリと鳴る音がして、全員が顔を上げた。


『〜〜〜〜』


現地の言葉で声をかけられ、私たちは一斉に顔を向ける。

ガイドさんが微笑んで、ゆっくりと訳した。


「『みなさん、食事をどうぞ』と言っています。」


その言葉を合図に、ぴんと張っていた空気がふっとゆるむ。

針を置く音がいくつも重なり、みんなの顔が一気にほころんだ。

長く俯いていた首を伸ばすと、筋がぱきんと鳴った。

「いたた……」と小さく漏らす声に、隣のマリナがくすっと笑う。


普通の4人がけ程の大きさのダイニングテーブルに、揃った4脚のイスと、どこからか集めてきたであろうデザインがバラバラのイス。

けれど、そうやってどこかから掻き集めてきたイスたちを並べて、みんなでぎゅうぎゅうに腰掛ける様子は、どこか家族みたいで、ちょっと可笑しくもあたたかかった。


「『狭くてすみません』と言っています。」

ガイドさんが通訳し、家主の女性が小さく頭を下げる。

「普通はここまで多くの人に、いっぺんに刺繍してもらうことはないのです。」


そう言われて改めて見回すと、なるほど納得だ。

私たちツアー参加者にガイドさん、そして家主さんを加えて——なんと9人。

そりゃあ椅子も足りなくなる。


「わぁ! 美味しそう!」


マリナの声に、全員の視線がテーブルの上に集まる。


木のテーブルの上には、深い色をしたシチューが湯気を立てていた。

ぐつぐつと煮込まれたお肉と野菜の香りが、鼻先をくすぐる。

横には、ハーブの香りがするサラダ、そして焼きたてのケークサレのようなパン。

こんがりと焼けた表面に、ところどころ溶けたチーズが金色に光っている。


家主さんが手際よくスープをよそってくれると、空気の層が一気に香ばしい香りに満たされた。

肉と野菜の旨味が混じった、どこか懐かしい匂い。

私のお腹が、ぐう……と正直な音を立てる。


「『どうぞ、召し上がってください』と言っています。」

ガイドさんの声を合図に、みんながほっと笑って、スプーンを手に取った。


一口すくって口に運ぶと、思わず目を閉じる。

とろけるような肉と、ほっくりしたおいも。

塩加減も絶妙で、体の芯まであたたまっていく。

うわぁ…これ、レストランで出てきてもおかしくない…。


「すごく美味しいです!」


そう言うと、家主さんが恥ずかしそうに笑って、両手を頬に当てた。

エリザベスがニコニコと説明してくれる。

「刺繍をしてくれた人に料理を振る舞って、結婚までに料理の練習をするのよ。何度も作るうちに、少しずつ上達していくの。」


ガイドさんもにこにこと補足する。

「つまり、私たちは花嫁修行の試食係というわけです。」


「なるほど……」


スプーンを口に運びながら、私は内心ぞっとした。

よかった、日本にそんな文化がなくて…。


こっそりそんなことを考えていたら、隣のマリナが同じように苦笑して言った。


「そんな文化の国に生まれなくてよかったわ。」


そういえば、マリナの家ではウィリアムが料理を担当しているんだった。

マリナはふと思い出したように笑って、

「うちで料理担当が私だったら、毎日冷凍食品になってたと思う。」

と言って、全員がどっと笑った。


その笑い声の中で、家主さんが照れくさそうに微笑む。

小さな部屋の中に、シチューの香りと笑い声が混ざり合って、あたたかい昼食になった。


食事を終え、そろそろ刺繍の続きを始めようかという頃。

家主さんがガイドさんに何やら話しかけた。

2人はしばらく言葉を交わしたあと、ガイドさんが私たちの方を向く。


「今日は、この近くで結婚式が行われるそうです。参列するわけではありませんが、通りを歩く花嫁の姿が見えるかもしれません。……見に行きますか?」

「「「えっ!?」」」


思わず全員の声が重なった。

刺繍の続きしないと終わらないかもという気持ちと、結婚式という特別な瞬間を見てみたい気持ちとが胸の中でせめぎ合う。


「お休みの日でもないのに、結婚式を見られるのは滅多にないことですよ。」


ガイドさんの言葉に、全員の視線が自然と合い、うなずき合う。


「……行きましょう!」


こうして、急遽結婚式見学ツアーが始まった。


家主さんの案内で、私たちは列になって家を出る。

石畳の通りを抜け、ゆるやかな坂を上がっていくと、次第に教会のカラフルな壁が見えてきた。

風に乗って、どこからともなく聖歌隊の歌声が流れてくる。

高く澄んだ声が重なり、空気の中に柔らかく溶けていくようだ。


教会の前で待っていると、ちょうどよいタイミングだったようで、ほどなくして扉が静かに開いた。

中から漏れていた聖歌の旋律が、今度ははっきりと外に響き渡る。

やわらかく、祝福の光のような音が、澄んだ空気を震わせた。

ぞろぞろと参列者が先に出て来て、左右に分かれ道を作る。


間もなく、男女の子供が歌いながら新郎新婦を先導するように現れた。

その後ろから幸せそうに笑う花婿と花嫁が出てくる。


花嫁さんは、息を呑むほど美しかった。

もとは白い布であったことが、裾のレースと手袋の部分でかろうじてわかるほど、全身に精緻な刺繍が施されている。

光を受けて糸が淡く輝き、金糸や銀糸、極細の色糸が花や鳥、蔦を描き出していた。

歩くたび、布が揺れ、刺繍のひと針ひと針が命を帯びたようにきらめく。


隣を歩く花婿さんは、漆黒のドレスのような衣をまとい、胸元には色とりどりの刺繍が施されたネクタイを締めていた。

スカートの裾を翻しながら歩くその姿は、不思議なほど凛としていて、どこか神聖な気配すらある。

「男性なのにスカート……」と最初は違和感を覚えたものの、そんな感想は一瞬で消えた。

堂々と歩く姿に、誰よりもその服が似合っていて——かっこいい、という言葉しか出てこなかった。


通りの両脇から小さな歓声と拍手が起こり、紙吹雪が風に乗って舞う。

子どもたちが笑いながらそれを追いかけ、教会の鐘が高く鳴り響いた。



家に戻った私たちは、夢見心地のまま、また刺繍を始めた。

先ほど目にした結婚式の余韻が胸の奥に残っていて、皆の表情には自然と笑みが浮かんでいる。

先程までも真面目だったが、ドレスの完成形をみた分、みんな気合が入っているようだ。

チクチク、スイスイと針を進めていく。


私よりも大きな模様を、しかも色とりどりに刺していたエリザベスは、相変わらずの手際のよさで、早々に仕上げてしまった。

彼女の布には、今にも羽ばたき出しそうな青い鳥が広げられていて、その翼の光沢はアラクネの糸のつやを最大限に引き出している。

まるで刺繍の中に小さな命が宿っているみたいだ。


「すごい……エリザベス、それ、今にも飛んでいきそう。」

「ふふ、ありがとう。」


休憩に入るところだったエリザベスを、マリナと私はすかさず捕まえた。


「ちょっと見て!  ここ、これで合ってる?」

「うーん、悪くないけど…糸をもう少し重ねた方が立体的になるわ。あと、その線、長く縫いすぎると布が引きつっちゃうの。途中で一度針を刺して、バランスをとるといいわ。」


穏やかな口調で、的確なアドバイスをくれる。

指摘された通りに少しずつ糸を重ねていくと、不思議なことに、みるみるうちに仕上がりが変わっていった。

色に深みが増し、光の反射まで柔らかくなる。

同じ素材なのに、縫い方ひとつでこうも違うのかと感動してしまう。


ようやく最後の糸を引き抜いたとき、私はふぅっと長く息を吐いた。

つやつやと光を反射する桜の花が、ちゃんと形を成している。

小さいながらも存在感があり、花びらの重なりがほんのり立体的だ。


「ありがとう、エリザベス! やったね、マリナ! 間に合ったよ!」

「ほんと、どうなるかと思ったわ〜。途中で時間切れになるかと。」

「ふふ、2人とも本当によく頑張ったわね。」


エリザベスが柔らかく笑い、私たちは顔を見合わせて笑い返した。

肩や首は痛いし、背中もぱんぱんに張っている。

それでも、胸の中は温かい達成感でいっぱいだった。

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