31.1/20 扇の行方
朝ごはんのためにのんびりとビュッフェ会場に行った私は、思わずつぶやいた。
『え、うそ…今日、ご飯がある…!』
湯気を立てるジャーの銀色の蓋がまぶしく輝いて見える。
前回見かけたのは、2週間前くらいだろうか。
これくらいの周期で出してるのかな?
私はすぐに踵を返し、部屋へと駆け戻る。
クルーズ船の長い廊下を、サンダルの音をペタペタと響かせながら小走りに進む。
『よし、あった!』
ふりかけにみそ汁、お茶漬け。今日は缶詰も持って、我ながら完璧なラインナップ。
エコバッグにそれらを詰め込み、再びビュッフェ会場へ戻る。
入口のスタッフが微笑んで「おはようございます」と言う。
私は思わず満面の笑みで「おはようございます!」と返した。
ご飯をスープカップに盛ろうとしたとき、後ろに立っていた老夫婦の旦那さんが、そっと声をかけてきた。
「もしかして、あなたは日本人ですか?」
少し驚いて顔を上げる。優しい目をした白髪の紳士が、にこやかにこちらを見ていた。
「はい。そうですよ。」
「そうですか⋯」と彼はうれしそうに頷いた後、少し考えるように言葉を選んだ。
「ひとつお聞きしてもいいですか? 日本で一番好きな場所は、どこですか?」
——あ、この質問⋯来た!!
「いいところはたくさんありますが、一番好きなのは、自分の家ですかね。」
そう答えると、老夫婦は顔を見合わせて、ふっと穏やかに笑った。
旦那さんが目を細めて言う。
「扇、素敵なものでした。」
その言葉に、はっとする。
「やっぱり! 話しかけてくださってありがとうございます!」
思わず声が弾んだ。
あの時、クリスマスのプレゼント交換で私が選んだ「扇」を受け取ったのは、このご夫婦だったのだ。
奥さんは嬉しそうに頷きながら、にこにこと微笑んでいる。
二人のあたたかい笑顔を見て、胸の奥がじんわり熱くなった。
まさか、ビュッフェのご飯コーナーで再会するなんて。
私は少し幸せな気持ちで笑ってしまった。
「あの扇⋯」
話し始めようとした瞬間、ふと後ろに並ぶ列が目に入った。
トレーを持った人たちが、順番を待ちながらこちらを見ている。
あ、ここで立ち話はさすがにまずい。
私は慌ててご飯をよそい、ぺこりと頭を下げて場所を譲った。
老夫婦も「すみませんね」と言いながらご飯を盛り付け、すぐ近くに立っていた私のほうへもう一度歩み寄ってきた。
「これも何かのきっかけでしょう。どうですか? ご一緒に朝食を食べるというのは。」
旦那さんが柔らかく言う。
「はい! ぜひ。」
思わず笑顔がこぼれた。
三人でテーブルを見回し、窓際の明るい席を見つけて場所取りをする。
「じゃあ、ここにしましょうか」
一度トレーを置いて、それぞれ食べたいものを取りに散った。
途中で私はドリンクコーナーに立ち寄り、ふと2人のことを思い出す。
せっかくだし、試してもらいたい。
2人を探して味噌汁とお茶漬けをおすすめしてみると、2人は顔を見合わせて「ぜひ試してみたいわ」と笑った。
私はスープカップを3つ持って、2人の分にそれぞれ味噌汁とお茶漬けを作る。
湯気が立ちのぼり、ほんのり味噌の香りが漂う。
自分の分にも両方を作って、慎重にお盆を持ち上げた。
戻ってみると、老夫婦はすでに席に着き、窓の外の海を眺めていた。
「お待たせしました!」
トレーをそっとテーブルに置き、カップを差し出すと、旦那さんが笑顔で手を伸ばした。
「いや、待ってないよ。ああ、いい香りだね」
お味噌汁のカップを受け取りながら、鼻先でふわりと香りを確かめるように深呼吸をする。
それを嬉しく思いながら、お茶漬けのカップの中にご飯を入れるように奥さんへ勧める。
「このスープの中にご飯を入れてください。」
「こんなご飯は食べたことがないわ。本当にカップに入れていいのね?」
奥さんはスプーンを持ったまま、まるでいたずらを仕掛けられる前のような顔でこちらを見上げた。
私は勢いよく頷く。
「大丈夫です! ほら、こんな感じです。」
自分のカップを少し傾けて見せると、海苔とお茶の香りがふんわりと立ち上る。
それを見て奥さんは「本当ね⋯」と感心したように呟き、恐る恐るご飯をカップへと移した。
白いご飯にお茶がかかり、つややかに透ける。
コクコクと頷く奥さんを、旦那さんが穏やかな目で見守っていた。
そして、自分のカップから味噌汁をひと口、ゆっくりと啜る。
「滋養がありそうなしょっぱい味だね。」
湯気の向こうで、彼の表情が少しやわらいだ。
美味しいと思ってくれているといいな。
奥さんとお茶漬の感想を言い合いながら食事を食べすすめ、久々のお米に満足した私は話を切り出した。
「クリスマスの扇ですが、手紙に書いてあったとおりです。ご希望であれば、漢字でお名前をお入れしますが、どうしますか?」
「もちろん、お願いしたいよ。そのために君を見つけたんだからね。」
「わかりました! かっこいい漢字を考えますね!」
旦那さんはジェイムズ、奥さんはエミリーと言うそうで、私はうんうんと腕を組みながら漢字を考え始めた。
「ジェイムズ、ジェイ⋯ジ⋯」
口の中で何度も繰り返しながら、スマホの変換機能を開く。
「自、時、字……あ、仁もジだ!」
紙に書きだしていってみると候補が思ったより多くて、思わず「へえ」と声が漏れた。
「うーん、どれが一番しっくりくるかな……」
そう呟くと、向かいの二人が興味津々といった顔で覗き込んでくる。
エミリーさんが少し身を乗り出して、「どういう意味があるの?」と聞いてきた。
「例えば、時は時間の時ですね。流れとか、今この瞬間を大切にする意味があります。」
「仁は思いやりの心、字は文字って意味で……」
説明しながら、私はいくつかの漢字を並べていった。
「仁、時、字、時永……あ、時永いいかも。時間がずっと続くって感じで」
ジェイムズさんが「それ、いいね」と頷く。
「なんだか穏やかで、永遠って響きが好きだ。」
「じゃあ、ジェイの部分は時永にしましょうか。」
「ムとズ、どうしようかな……」
私が首をひねると、エミリーさんが笑いながら肩をすくめた。
「こんなに真剣に考えてもらえるなんて、ちょっと羨ましいわ」
「武っていう字はどうですか? ムの音も近いし、強さとか武人っていう意味もあります」
「武……いいね。昔、少し軍にいたことがあるんだ」
「えっ、そうなんですか?」
「元々軍人だったのよ」とエミリーさんが補足する。
「現役時代にはセルマーへ護衛としてついて行ったんだから。」
「へえ、すごい!」
その言葉で、私の中で一気にピースがはまった。
「じゃあ、時永武寿にしましょう。寿は長く幸せに生きるって意味があります」
「時永武寿……ジェイムズ」
ジェイムズさんがゆっくり口にしてみる。
その響きを確かめるように、唇の動きとともに小さく頷いた。
「うん、音も意味も、すごく気に入った」
「ほんとですか? よかったです!」
思わず嬉しくて声が弾む。
隣では、エミリーさんが両手を胸の前で組みながら「よかったわね」とニコニコしていた。
「エミリーさんも、よければいかがですか?」
「え? え!? いえいえ、いいわよ! クリスマスプレゼントじゃないもの。」
慌てて手を振る彼女に、私は慌てて付け加える。
「いえ、ほんとに、ちゃんとしたものではないんです。何かのときにあげられるようにって、つい買っちゃっただけで……もし気に入ってもらえたら嬉しいなって」
「あら、あらあら⋯」
戸惑いながらも、頬が少し赤くなるエミリーさん。
受け取っていいものかどうか、目の奥で迷いが揺れているのがわかる。
渡せるのは100均の扇なのに、そんなに遠慮させて申し訳なくなってくる。
「漢字、実はエミリーさんのも思い浮かんでるんですよ」
「そうなの?ちなみに、どんな漢字?」
少し興味が勝ったようで、身を乗り出してくる。
「エは笑うっていう意味の笑の字で、ミは美しい、リは理、ことわりとか道筋の意味があります」
私はペンを取り出して、紙の上にさらさらと書いた。
笑美理
三文字を見つめたエミリーさんの目がぱっと輝いた。
「まぁ……素敵ね。笑う美しい理。」
「そうなんです。いつも明るくて、でも筋の通った人っていう印象があって。」
「うふふ、そんなふうに見てくれてるなんて嬉しいわ。」
エミリーさんは頬に手を当てて、まるで少女のように微笑んだ。
「……あとはエミリーさんの扇と、筆ペンを持ってきて──」
そこまで言いかけて、私ははっとした。
あっ…! もうすぐコーラスの練習の時間だ!
スマホの時計を見て青ざめる。
集合まであと20分。
部屋に戻って歯磨きして、本当にギリギリだ。
完全に時間を見誤っていた。
「あの、すみません……午後にしてもらってもいいですか? 参加するイベントがあって、すぐ行かないと⋯!」
慌てて頭を下げると、エミリーさんが少し困ったように目を丸くした。
「あら、私たちも午後はイベントに参加する予定で⋯」
「えっ、そうなんですか……」
まさかの予定かぶり。
どうしよう、別の日にお願いできるだろうか。
頭の中でスケジュールを組み立て直そうとする私の横で、ふたりが顔を見合わせ、小声で話し始めた。
『〜〜〜?〜〜〜!』
『う〜ん⋯〜〜〜?〜〜〜。』
たぶん母国語でのやり取りに口を挟むこともできず、私は気まずく紙に目を落とした。
白い紙にペン先を走らせ、試し書きする。
時永武寿。
笑美理。
「……うーん、やっぱり美は筆の勢いで決まるなぁ」
声に出さない独り言を呟きながら、筆の動きを空でなぞる。
本番は一発勝負。失敗できない。
ちょっと練習しておきたいな。というか、扇ってどれくらい滲むんだろ。
そんなことを考えていると──
「ね、サクラさん。」
不意に名前を呼ばれて、顔を上げた。
「あ、はい!」
「4日後の24日にね、私たちのお部屋でアフタヌーンティーをする予定なの。もしよかったら、ご一緒しない?」
「え? い、いえいえ! お邪魔でしょう!」
思わず両手を振る。
まさか招待されるとは思っていなかった。
エミリーさんはにっこり笑った。
「いいえ、ぜひ来てほしいの。あなたともっとお話したいわ。」
隣でジェイムズさんも穏やかに頷いている。
「その代わりと言ってはなんだけど、私も扇が欲しいわ。もちろん名前入りで。」
「いえ、扇はお渡ししますよ。本当に安物で、1ドルショップのものなんです。プレゼントなんてとても……!」
「でも、名前まで入れてもらうんだもの。ちゃんとお礼をさせてちょうだい。ね?」
柔らかい言葉なのに、有無を言わせぬ説得力。
何度か押し問答を繰り返した末、結局、私がお言葉に甘える形になった。




